理解と実感
白田が部屋に戻ると、まだ9時にもなっていないのに明かりが落ちていた。
「おいトラ、生きてっか?」
「……んだよ……」
ベッドの上の丸い塊が、のそのそと動いて返事をする。
年がら年中睡魔に襲われているイメージのあるチームメイトだが、この時間帯にばてているのは珍しい。よほど徹底的にしごかれたのだろうと、電気はつけないでおいた。
どんな飴と鞭を使ったのか、契約見直しの席から戻ってきた掛川は見たことがないほど無口になっていた。
翌日からフィジカルコーチのメニューを黙々と消化し始めたのを見るに、相当な発破をかけられたのだろう。まだ三日も経っていないが、極度の練習嫌いがよくぞここまで、というほどぐったりして帰って来ていた。
もともと、能力はあるのだ。必要な部分に必要な力が備われば、代表にだって選ばれるだけの選手だと白田は思う。やたらに高いプライドと、ポジション争いに勝ちきれなかった失望感のせいで、くさっていただけだ。
このオフにきちんとコンディションを整えてくれば、来季はもっと上を狙える。
鼻歌交じりに鞄を探った白田は、ふと眉をひそめた。
携帯電話が見つからない。鞄をひっくり返しても、影も形もない。焦る頭で必死に考えて、最後にミーティングルームでいじっていたことを思い出した。
「……うわ、マジかよ」
何が困るって、あれを目覚し時計に使っていたことだ。キャプテンのように何もなしで定時に起きられるほど、自分は朝に強くない。部屋にある時計にアラーム機能はないし、掛川の携帯を借りるというわけにもいかないだろう。
(くそ、ドジった……!)
ぐしゃぐしゃと髪をかきむしったとき、掛川が布団から眠そうな不機嫌顔を覗かせた。
「……るっせぇし……なにやってんの」
「ケータイ忘れた」
「……とりにいけば」
「クラブハウスだぜ。閉まってるだろ」
「あいてるって。こないだ、電気ついてたし……」
あくびをかみ殺した掛川は、こめかみの辺りをこすって再び布団に潜った。
白田はぎょっとして、掛け布団を引っ張る。
「マジかよ。何時?」
「……じゅういちじ、か、じゅうにじくらい……」
――門限過ぎてんじゃねぇか。
呆れて蹴飛ばしそうになったが、まあ最近は抜け出すことも少ない。かろうじて手と足と口を押さえ込み、ふと時計を見て、あわてて寮の電話に向かった。
やけに寒いと思ったら、真っ暗な窓の外に雪がちらついていた。
師走も末になって、鳥取はもう雪の季節だ。早めに試験試合をした現場の判断は正しかったのだろう。膝の高さまで積もるというから、雪かきだけでもたいへんな労力だ。
重く痛み始めた目をまぶたの上から押さえて、眞咲はやたらと大きな椅子にもたれかかった。
クッションは効いているが、執務には向かない椅子だ。おまけに無駄に高価なものときた。いっそ売り払って自腹で気に入ったのを買おうかとぼんやり思いながら、ずり落ちそうな膝掛けを引っ張った。
(会計処理はこのくらいかな。……会計システムが入ってるのに、手書きの無駄が多すぎるわよ。やってたら無駄だって気づくと思うのに、誰も指摘してこないって……)
思わずため息が落ちた。
親会社からの出向社員を、基本的に丁重にお返しする方針にしたのは、何も経費削減の必要があったからというだけではない。彼らのスタンスが違ったからだ。
ある意味島流しに近かったのだろう。使える人員は残したいと、業務の改善案の提出を求めたが、びっくりするぐらいに横一線、画一的でほとんど変化のないものばかりが出てきた。
協調性を重んじる日本らしいと言えるのだろうか。日本を意識して学んできたつもりで、いつの間にかアメリカ的な考え方が染み付いていた自分にも苦笑いが出るが――正直、予想以上だった。
そもそも労働法の基礎が違う。どちらがいいとは一概に言えないが、|任意雇用原則《Employment at Will》などはないから従業員の首を切るのも一苦労だ。整理解雇をした直後に社員を募集などしようものなら訴訟沙汰になる。そういう意味では、親会社との調整でどうにかなったガイナスはまだ運が良かったのだろう。
使えない人間を雇いつづけるだけの余裕は、今のガイナスにはない。少数の優秀な人材で動かすためには、混乱を最小限に押さえられる程度の入れ替えが必要だった。
(とりあえずは4月まで今のメンバーでもたせて……募集はもうかけておいたほうがいいかな。引継ぎ名目で早く来てもらって……)
この規模の会計なら、たぶん一人で足りるだろう。年齢は問わないから手際のいい、ベテランがいい。ただし決済をネット経由で行うために、ある程度の技能が必要だ。銀行まで足を運ぶと、鳥取ではそれだけで時間を取られる。
決済の流れも最小限に削れば事務量は減る。汚職の問題はあるが、一円に血眼になっているこの状況で、それをやってのけるだけの度胸がある人間は限られるだろう。もちろんチェックは必要だけれど。
『――求めるものは、何だと思いますか?』
つらつらと考えていた眞咲は、ふと椛島の言葉を思い出し、皺の寄った眉間を押さえた。
(……わたしは、わかっていないんだろうか)
勝ちたいと思うこと。勝ちたいと思わなければならないということ。気持ちと姿勢。そして補強もままならない現実。どこで折り合いを取れば、一番いいのだろう。
経営能力にはそれなりの自信がある。実績も、それなりに積んできた。けれど、クラブを建て直すためには、それでは十分でないのかもしれない。
今まで培ってきた技能だけじゃない。きっとまだ、何かが足りない。
目を伏せて、息を吐いた。
(いい仕事に必要なものは、情熱と、冷静な行動力)
きまり文句を口の中で呟く。
強い感情。浮き立つような衝動。自分の中に芽生えたそれらのものをどう育てるのか、まだ考えあぐねている。
もっとも、足元を固めるのが先だ。経営が立ち直らなければ、チームの成績は、それこそJ1への昇格争いにでも絡まなければ意味を持たない。
『求めるものは、いつだって勝利です。……勝ちたいんですよ、誰だってね。その気持ちがなければ、戦うことはできません』
食えない監督の笑みに、苦い感情が浮かんだ。
それ以上を彼女は言わなかったから、フロントのトップである自分に何を求めているのか、結局はっきりしないままだ。
(だって、仕方ないじゃない。お金を出さないのに勝てなんて、無責任なこと言っていいの?)
引っかかりつづけた感情はくすぶったままだ。仕事をしていてもふとしたときに思い出して、眉間に皺を作ってしまう。
プルルルルッという電子音の呼び出しに、眞咲は目蓋を開けた。
時間は9時過ぎ。鳴っているのは、扉の向こうだ。
事務局の担当者が切り替えを忘れたのだろう。身を起こしてデスクの上の受話器を取り、着信をピックアップした。
「はい、ガイナス因幡事務局です」
回線の向こうで、呆気に取られたような気配がした。
眞咲は首を傾げる。
「……もしもし?」
『あ、悪い。あんたが出るとは思わなかった』
怪訝に訊ねると、あわてた返事が返ってきた。
相手が白田だと気づいて、眞咲は肩の力を抜く。
「他に誰もいないもの。それで、どうしたの? 何か忘れ物?」
『……当たってっけど、そんなわかりやすいか?』
憮然とした声に笑って、眞咲は受話器を肩と顎で挟んだ。
机の上で崩れかけた冊子を押さえる。
「それくらいしかないわ。どこに何を忘れたの?」
『ミーティングルーム。ケータイ』
「オーケイ、鍵を開けておくわ。選手寮でしょう。5分で着くわね?」
『ああ、助かる。……悪いな、仕事中に』
きまずそうに付け加えられた言葉はやけに神妙で、眞咲はきょとんとして、それから笑ってしまった。
「大目に見ましょう。貸し一つね」
『……大目に見てねぇじゃん、それ』
「え? 使い方、ちがう?」
『いや、改めて聞かれると自信ねえ……どーだっけ。いや、別にどっちでもいいんだけどさ』
「ふうん。ところで、残り4分30秒だけど」
『は!? カウント始めてんのかよ!』
あわてた様子で切られた電話に、眞咲はくすくす笑いながら席を立った。
「……どこに行く、白田」
選手寮の玄関口で重低音に呼び止められ、後ろめたいものもないのにぎくっとした。
門限まではあと30分あるのだが、そろりと振り返れば、寮長が心なしか仁王立ちで立っている。
「スンマセン、忘れ物して。ちょっとクラブハウスまで行ってきていいスか」
気難しげな眉が、ぴくりと動いた。
そのまま沈黙が続く。
(何だ、何を検討中なんだ)
本人に悪気がないとはいえ、プレッシャーは絶賛放出中だ。逃げ腰になりながら次の反応を待っていると、寮長が言った。
「社長を連れて来い」
「……は? いや、まだ仕事してるみたいッスけど……」
「食事くらい取らせんと、おいおい倒れようが」
「え」
言われて、初めて気づいた。
そういえばあの辺にはコンビニも食堂もない。夜はほとんど篭り切りだ。昼間は精力的にあちこち回っているようだが、その間に買出しをしているとは――正直、考えにくい。
(ってことは、まさか食ってねーのか!)
思い当たった事実は、まさに衝撃といってよかった。
ただでさえやたらと細っこいのに、それは本当に洒落にならない。頑張ってるなとは思っていたが、ここまで来ると無茶の領域だ。
「りょ……了解、連行してきます!」
白田の敬礼に、寮長は無言で肯いた。