少女の凱旋
DVDプレーヤーの中で、試合は後半15分を迎えていた。
緑のフィールドを俯瞰した画面は、アイスホッケーに慣れた眞咲の目にはだいぶ広く感じられる。情勢は一点のビハインド。刻々と時間がすぎていく中、相手チームは守りに入っていた。
黒いユニフォームを着た選手たちが必死にこじあけようと食いつくが、堅い守りに阻まれて跳ね返されるばかりだ。
苦しまぎれのシュートを相手DFが大きくクリアした。
ボールはセンターサークル付近まで弧を描く。黒いユニフォームの17番が、敵とぶつかりながら勝ち取った。
そこから先は、一瞬だった。
足元に落としたボールを、そのまま振り抜いてシュート。
さっきまでと同じ苦しまぎれに見えたその攻撃は、嘘のようにきれいな軌跡を残して、ゴールの右上隅に突きささった。
実況が、叫ぶようにその選手の名前を呼ぶ。
白田直幸。J2最下位クラブの所属でありながら、U-20(20歳以下)日本代表に選出された異色の選手だ。
チームメイトに手荒い祝福を受ける白田を、カメラが大きく映し出す。顔立ちも骨格も、まだ少年めいていた。
(……ふうん)
眞咲萌は、思案げに口元に手をやった。打った地点からゴールまで、いったい何十メートルあっただろう。解説と実況が揃ってしきりに感心している。耳慣れない日本語でも、それが賞賛の意味を含んでいることは十分にわかった。
(タレントはいるのね。更改で移籍されなければだけど……この感じなら、なんとか試合にはなるかしら)
着陸のアナウンスが流れる。
眞咲はプレーヤーを止めて、飛行機の小さな窓の外に目を向けた。
出立の直前に送られてきたDVDを見るまでもなく、ここから先の試合展開は分かっている。延長戦に入っても結局同点のまま、ガイナスはPK戦でかろうじて5回戦への切符を勝ち取った。
――ガイナス因幡。
鳥取県をホームタウンにもつ、Jリーグ2部(J2)のプロサッカークラブだ。今季は12位――早い話がぶっちぎりの最下位でシーズンを終えた。勝ち点はちょうど20、戦績は3勝11分30敗。45試合やって3試合しか勝っていないわけだから、それはもう暗澹たる状況だ。
当たり前だが、ここまで弱くて人気があるわけがない。
右肩下がりに観戦者数は減り、スポンサーは離れ、累積赤字がとうとう一億円の大台に乗ったあたりで親会社も堪忍袋の緒を切った。
すなわち、撤退である。
社長という椅子を用意されてはいるものの、実際の仕事は清算人だ。
難しい仕事ではない。事業としては可能な限り負債を片付け、興行としては記憶に残るようなドラマとして演出する。目指すべき着地点は、うまくやれば確かに面白い。やりがいはあるし、いい経験になるだろう。
(……周りは敵だらけだろうけど)
苦笑して、さてどう懐柔するかと目を伏せた。
「あ、いたいた! こっちです」
やけに人気の少ない空港のロビーで、壮年の男性が大きく手を振った。
冬の高い空から窓越しに柔らかな光が降り注ぐ。地方であることを象徴するかのように、人はまばらだった。
「いやあ、長旅お疲れさまです。強化部長の広野です」
「眞咲です。よろしく」
予想していた以上の若さに少しばかり驚きながら、眞咲は差しだされた手を取った。
強化部長といえば、選手の補強などを統括する重要なポストだ。目の前の男性は多く見積もっても三十代の半ばにしか見えない。
そして、それは相手も同じことであったようだ。
「それにしても、びっくりしましたよ。実は半信半疑だったんですけど、本当に女の子でしたねー」
アハハと何の含みもなく笑われて、反応に困った。
軽んじられている気はするが、不思議になるほど嫌味のない口調だったからだ。
「なんだかマンガみたいですよね。17歳でアイビーリーグのMBAホルダー、おまけにとびっきりの美少女。うーん、申し訳ないんですけど、マスコミの取材攻勢は覚悟してくださいね」
お世辞か脅しか微妙な発言に、眞咲はにこりと笑った。
「大丈夫、逆に利用するくらいのつもりで行きますから」
「おお、頼もしいなあ。僕も尽力しますから、よろしくお願いします」
予想外に友好的な歓迎を受けて、少しばかり困惑する。片付けるためによこされたんだってこと、わかってないんだろうか。
車に案内されて後部座席に腰を落ち着けると、なんだかどっと疲れが出た。
プリンストンからワシントンダレス-成田経由で鳥取まで。移動だけで一日仕事だ。
「ホテル取ってますので、ご案内しますね。ちょーっと遠いんですけど……」
「ええ、大丈夫です」
座席にもたれて、眞咲は目を伏せた。
細く息を吐く。
道中が敵意にまみれていないだけ、ありがたいと思うべきだろう。
広野は意外にもそれ以上の雑談を向けてくることはなく、車内には自然な沈黙が訪れた。
自分を日本に呼び戻した「辞令」を、眞咲は脳裏に思い描いた。
達筆な字で書かれた簡素な手紙は予想外の行き先を示していたが、これが予定通りのテストであることは間違いない。この一年、今までに培ってきたものすべてを、注ぎ込むだけの覚悟はできている。
ふと車が停まり、眞咲はまぶたを持ち上げた。
そして、眉を寄せる。
(料金所……インターチェンジ?)
目に入ったのは、緑色の看板。高速自動車道という文字に、思わずうめいた。
「……ちょっと待って。どこまで行く気ですか」
「岡山です!」
「は……!?」
かぶっていた猫をかなぐりすてて、眞咲は身を起こした。
「岡山って、岡山県!? どうしてわざわざそんなところまで!」
「あっはっは、いやだなあ、明日は天皇杯の5回戦ですよ。ぜひ見ていただかないとねっ」
満面の笑顔で、ウインクひとつ。
眞咲は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。最初からこのつもりだったのか。
なるほど、諦めてなどいなかったからこそのフレンドリーだったわけだ。
(……やられた)
怒鳴って引き返させることはできるだろうが、得策とは思えない。
盛大なため息を吐き、眞咲は細い腕を組みあわせた。
ミラーごしに広野をにらみ、訊ねる。
「行く価値はあるんでしょうね?」
「もちろん」
「……いいわ。ただし、人事権を握っているのがわたしだってこと、忘れないでいただきましょうか」
おおこわ、と広野がおどけて首をすくめる。
今日はまだ、休めそうになかった。
舞台は2008年シーズンのJ2。
理由は単にあの時期の公式ボールが好きだからというだけです。