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砂漠の王は夜の猫(わたし)だけに愛を囁く

作者: 和泉
掲載日:2026/05/13

「下がれ」

 黄金の玉座に鎮座する王、カリムの冷たい声が大理石の謁見の間に響いた。


「部屋から出るな」

 あぁ、またか。

 突き放すような言葉を浴びせられた王妃ネフェルは、胸に刺さる痛みを覚えながら深く頭を垂れた。

 首元を飾る重厚な金の装飾具が、ネフェルの震えを隠すようにカチンと硬質な音を立てる。

 だが、カリムの鋭い視線はすでに手元のパピルスへ。

 ネフェルという存在など最初からなかったかのように振る舞うカリムの姿に、ネフェルは逃げるようにその場を後にした。


 砂漠の覇権を握るこの国に、ネフェルが隣国から嫁いできたのは一ヶ月前。

 完全な政略結婚だったが、精いっぱいお役目を果たそうと決意して嫁いできた。


 しかし、現実はあまりに過酷だった。

 初夜に王が寝所に現れることはなく、朝の挨拶さえも拒絶される日々。


 砂漠の太陽に愛されない「冷遇妃」。

 その不名誉な烙印はまたたく間に広まり、あんなにいた世話人たちはひとり、またひとりと去っていった。

 

 今、残っているのはわずか二人の若い世話人のみ。

 彼女たちの仕事は、質素な食事を運ぶこと、埃を払う程度の掃除。そして最低限の沐浴の手伝いのみ。

 あとはこの部屋にさえ来ない彼女たちをネフェルは責めることなどできなかった。

 

 長い一日が終わり、砂漠の地平線に沈んだ太陽の残光が紫色の薄闇へと溶けていくその瞬間――。


「……っ!」

 肌を焼くような熱さが内側から溢れ出し、ネフェルの世界が急速に巨大化していく。

 つい先ほどまで重く感じていた金の首飾りが音を立てて床に転がり、ネフェルの細い指先は鋭い爪を備えた小さな足へと形を変えた。

 骨がきしみ、全身を柔らかな黒い毛が覆う。

 苦しさに閉じられていた瞳を開いたとき、そこには王妃として見ていたものとは全く別の景色が広がっていた。


 見上げるほど高い天井。

 巨大な柱。

 嗅覚は驚くほど鋭敏になり、遠くの庭園に咲くナイトジャスミンの香りを鮮明に捉える。


 鏡に映ったネフェルの姿は、黒猫。

 ネフェルは、ふわりと持ち上がった長い尾をひと振りした。

 

 これは、祖国を離れる時に母が授けてくれた「女神バステトの加護」が詰まったピアスの力。


『ネフェル。異国の地でどうしても耐えられなくなったら、夜の闇に溶け込みなさい。猫になれば、どんなに高い城壁も冷たい鎖もすり抜けて逃げることができるわ』


 母は政略結婚という過酷な運命に投げ出される私を案じて、このピアスを託してくれた。

 かつて同じように政略結婚で苦労した母だからこそ、私にだけは「逃げ道」を作りたかったのかもしれない。

 

 けれど、お母様。今の私はまだ、この国を逃げ出すためにこの力を使いたくはないのです。

 ネフェルは夜空に鋭く輝く三日月を見上げると、しなやかな身のこなしで、ひょいっと窓枠に飛び乗った。

 

 石造りの廊下は人の時よりも遥かに長く、わずかな段差でさえ肉球には優しくなかった。

 

 猫の視線ってこんなに低いのね。

 

 暗い廊下を影のように走り抜けたネフェルは王の執務室を覗き込む。

 そこには、燭台の炎に照らされ、一人机に向かうカリムの姿があった。

 朝と同じ近寄りがたいほどに厳格な横顔。

 けれど、その指先はこめかみを押さえ、どこか疲労しているように見えた。

 

「……はぁ。どうすれば叔父を……」

 いつも難しい顔ばかりしているあの人でも、溜息をつくことがあるのね。

 カリムの視線がふと床を這い、物陰に潜む「黒猫」の自分と目が合う。

 

 しまった、見つかった――!

 斬られると反射的に身を固くしたネフェルは、ありえない言葉に自分の耳を疑った。


「おいで、可愛い迷い子」

 カリムが椅子から立ち上がり、扉の前でゆっくりと膝をつく。

 大きな手を差し伸べると、ネフェルの喉元を驚くほど優しく、慣れた手つきで撫で上げた。


「ぐる……っ」

 ネフェルの喉が思わず鳴る。


「おまえは、彼女と同じ綺麗な目をしているな」

 ……彼女?

 まさかカリムには想い人が……?

 

 そうだとすればすべて辻褄が合う。

 政略結婚で差し出された王妃など邪魔なのだと。

 

 なるほど。そういうことだったのね。

 ネフェルは大きな目を伏せ、冷たい床を見つめた。


 カリムはネフェルをそっと抱き上げると、自分の膝の上に座らせる。


「おまえのように気軽に触れられれば良いのに」

 小さな耳元に愛おしそうに唇を寄せるカリムは、まるで愛しい人に口づけしているかのようだった。


「今日も怯えさせてしまった」

 カリムはネフェルの背中を優しく撫でながら、反省する。


「叔父たちの目が光るこの宮殿で睦まじくすれば、彼女が危険になる。だから部屋から出るなと強く言ってしまった」

 ……待って。

 部屋から出るな?

 それって私が言われた……?


「にゃーん?」

「あぁ。おまえと同じ黒髪に緑の目を持つネフェルにだ」

 カリムの大きな手がネフェルの頭を優しく撫でる。


「……一目惚れなんだ」

「にゃ?」

 今までそんな素振りはまったくなかったのに?


「彼女に会ったら伝えてくれ。……愛していると」

 え? 嘘でしょう?

 ネフェルの心臓が、耳の奥でうるさいほどに脈打つ。


「……俺は猫に何を言っているんだ」

 馬鹿だなと自嘲するカリムに、ネフェルは硬直した。

 

 私を嫌っていたんじゃないの?


「カリム様、そろそろご就寝を」

 廊下から響いた側近の声に驚いたネフェルはビクッと身体を揺らし、カリムの膝から飛び降りる。

 影に溶けるように部屋を脱け出し、ネフェルは全力で回廊を駆けた。

 

 信じられない、信じられない、信じられない!

 どうしよう。

 明日から、どんな顔をしてあの人に挨拶に行けばいいの?


 夜の静寂の中、ネフェルの耳元で揺れるピアスが心臓の鼓動に合わせて激しく揺れた。


    ◇


 カリムの心の声を聴いた罰が当たったのか、翌朝ネフェルは熱を出した。

 

 ずきずきと痛む頭の中で、昨夜の甘い囁きが何度もリフレインする。

 『愛している』なんて……。

 あんなに怖い顔をして、あんな冷たい態度で、そんなこと信じられるはずがない。

 頭ではそう思っているのに、思い出すだけで頬が火照り、余計に熱が上がっていく気がした。


 あぁ、ダメね。

 世界が回っているわ。

 ネフェルは薄いシーツを抱え込みながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

「ネフェル、入るぞ」

 ネフェルの寝室に足を踏み入れたカリムは、あまりにも殺風景な部屋に目を見開いた。

 

 ネフェルが嫁いでから一度も足を踏み入れたことがない寝所は、砂漠の夜を癒やす香油の匂いもしなければ、花や果物どころか、水すら置かれていなかった。

 世話人は誰もいない。

 カリムは大きな歩幅でベッドサイドまで来ると、躊躇いがちにネフェルの額に手のひらを当てた。


「……熱いな。これほどになるまで、なぜ黙っていた?」

 ネフェルからの返事はない。

 息が浅く、まるで寒さに震えているかのようだった。


「侍医を。あと冷たい水も準備しろ。掛け布団も持って来い」

「は、はい、カリム様」

 側近たちが、王の異様な気迫に圧されて飛び出していく。

 ひととおり命令し終わったカリムは、あまりにも静まり返った室内を見渡した。


 ネフェルに「部屋から出るな」と命じたのは、叔父を筆頭にした政敵から守るため。

 そして美しいネフェルの姿を他の誰にも見せたくなかったからだ。

 だがその言葉は、冷酷な王が王妃を幽閉したと解釈され、下卑た世話人たちは、配給される食事や身の回りの品さえも横領したのだ。


 こんなはずではなかった。

 カリムは浅い息を繰り返すネフェルの傍らに腰を下ろした。


「……すまない、ネフェル。おまえはこんなに冷たい場所にいたのか」

 躊躇いがちに、カリムはネフェルの細い手を両手で包み込む。

 熱に浮かされるネフェルの耳元で揺れるピアスは、昨晩膝の上に乗った黒猫と同じピアスに見えた。


「……おまえの飼い猫なのか?」

 おまえの具合が悪いのを知らせに来たのだろうかとカリムは呟く。


 王の命により即座に運び込まれた極上の羽毛布団、氷のように冷たい水、そして宝石のように輝く旬の果実。

 怯えながら戻ってきた二人の世話人と高名な侍医が枕元を固める。


「おまえたち、頼んだぞ」

 カリムはネフェルの手をそっと離すと、執務室へと戻っていった。



 目を覚ましたネフェルは、見慣れない部屋の様子に首を傾げた。

 眠るときにはなかったはずのふかふかの布団。

 テーブルには水差しだけでなく、砂漠では貴重な果物まで。

 部屋の隅の香炉からは、ネフェルの一番好きな蓮の香油が甘く漂っていた。


「王妃様、お目覚めですか?」

 世話人たちが見たこともないほど必死な形相で駆け寄ってくる。

 

「あの、これは……?」

「王が手配を」

 ……あの人がここに?

 今まで一度も来たことがなかったのに?


「申し訳ありませんでした。これからは誠心誠意仕えさせていただきます」

 足りないものはありませんか、水を飲みますかと、甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼女たちにネフェルは戸惑った。

 

「今は……いいわ。ありがとう」

「はい、なにかあれば」

「あ、夜はゆっくり過ごしたいの。朝までひとりにしてもらえる?」

「かしこまりました」

 

 夜は猫になりたいから――だ。

 あの人の元にもう一度行きたい。

 もっと知りたい。

 冷たい仮面の奥に隠された、カリムの本当の心を。

 

 ネフェルは耳のピアスにそっと触れながら、沈みゆく太陽に目を向けた。



 部屋が夜の帳に包まれたあと、ネフェルは再びしなやかな黒猫へと姿を変えた。

 軽やかに窓枠を飛び越え、カリムの執務室へと急ぐ。

 執務室の窓をすり抜け、ネフェルがふわりと床に着地すると、険しい顔でパピルスを睨んでいたカリムが弾かれたように顔を上げた。


「……来たか、愛しい子よ」

 膝をついて両手を広げたカリムにネフェルがトテトテと歩み寄ると、カリムは迷わず自分の頬をすり寄せる。


「おまえのご主人様の熱はようやく下がったそうだ」

 カリムの嬉しそうにネフェルに報告する。

 カリムはソファに深く座り込むと、ネフェルを仰向けに寝かせ、お腹の柔らかい毛を指先でくすぐり始めた。

 

 やめて、くすぐったい!

 ネフェルが身体をくねらせると、カリムは目を細めながらその様子を見つめる。

 

「ははっ、おまえを見ていると、彼女を愛でているようで心が安らぐ」

 カリムはネフェルの背中をゆっくりと撫でながら、独り言のように囁き続けた。


「彼女は俺が嫌いだろうな……」

 彼女の寝所には何もなかったとカリムは目を伏せる。

 

「あんなにも孤独で、惨めな思いをさせていたなんて」

 望まぬ政略結婚で異国に連れてこられたうえに、冷遇されたと思われる状況を作ってしまったとカリムは後悔するような言葉をネフェルに告げた。


 カリムはネフェルをそっと持ち上げ、自分の視線の高さまで掲げる。


「おまえが彼女の遣いなら伝えてくれ。今まですまなかったと」

「にゃー」

「ははっ、おまえは賢いな」

 カリムはネフェルを膝に戻すと、頭を優しくポンポンと叩く。

 ネフェルは長い尻尾を揺らしながら、カリムの手に擦り寄った。


「カリム様、そろそろ」

 側近の声掛けで、ネフェルはカリムとの逢瀬の終わりを知る。

 ひょいと膝から飛び降りたネフェルをカリムが引き留めた。


「このまま俺の腕の中で眠らないか?」

「……ッ」

 何を言っているの!?

 ネフェルはピュンと勢いよく部屋から飛び出す。


「わっ! え? ね、猫?」

 驚いた側近が大げさにリアクションをする。


「あぁ。俺の大事な子だ」

 見かけても捕まえないでくれとカリムは側近に命令する。


 廊下の角を曲がる瞬間、背中越しに聞こえてきたカリムの穏やかで慈愛に満ちた声。

 あんなに優しい声で『大事な子』だなんて……!

 カリムは猫に向かって言ったのに、自分に言われたのではないかと勘違いしそうになる。

 ネフェルは全速力で自室へと駆け戻った。


    ◇


 翌朝、挨拶に訪れたネフェルに掛けられた言葉は「下がれ」ではなかった。


「……体調は、もう良いのか?」

「は、はい。お心を砕いていただき、ありがとうございます」

 深くお辞儀をしたネフェルの首元を飾る重厚な金の装飾具が、カチンと硬質な音を立てる。

 ゆっくりと顔を上げたネフェルは、カリムの金色の眼と目が合い驚いた。


 いつもはパピルスに視線を落としていたのに……?


「本日もお部屋で……」

 大人しくしていますと言おうとしたネフェルの言葉はカリムに遮られる。

 

「庭園を案内させる」

「……え?」

 戸惑うネフェルに、カリムは自分の側近をひとり付けた。


「蓮の花が香る場所だ」

 きっと気に入るだろうとカリムはネフェルに告げる。

 

「ありがとうございます」

 驚いたネフェルは、ただお礼を言うことしかできなかった。

 

 ……どういうこと?

 急に何が起きているの?


 案内された水蓮が咲き乱れる「宮廷庭園の池」は想像以上に美しかった。

 蓮の花が香り、水と蓮のコントラストが美しく、砂漠でもっとも贅沢な場所のように思えた。


 ここをカリムと一緒に歩くことができたら。

 いつの間にかそんなありえないことを願うようになってしまった自分にネフェルは驚く。


 ……黒猫の姿で彼の気持ちを知ってしまったからかしら……?


 夜、猫の姿でここに来てみよう。

 きっと夜も美しいに違いない。

 ネフェルは案内してくれた側近にお礼を言うと、寄り道することなく静かに自分の部屋へと戻った。

 

 その日の食事はなぜか豪華だった。

 並べられた銀の器には、蜂蜜をたっぷりかけたイチジクや、香ばしく焼かれた鴨の肉、そして冷えた果実水が並んでいる。

 まるで嫁いだ初日に戻ったかのように。

 カリムが部屋を訪れ、世話人を叱咤し、自分のために「心を砕いた」。

 その事実だけで、世界がこれほどまで色を変えるなんて。

 それだけ王というものは絶大なのだとネフェルはあらためて実感した。


「……にゃ」

 陽が落ち、夜の帳が下りたあと、ネフェルは今日も黒猫になった。

 長い尾を揺らし、夜の闇に紛れて向かうのは庭園。

 

 月光を跳ね返す水面は、期待通り、無数のサファイアを撒いたように輝いていた。

 しかし、その美しさ以上にネフェルの目を引いたのは、池の端に立つひとりの男性。


 ……カリム様?

 いつも執務室にいる王が、なぜこんな時間にこんな場所に?

 

 ネフェルは草の中を通り抜け、こっそりカリムに近づく。

 だが、カリムは水面に浮かぶ白蓮をじっと見つめているだけ。

 その横顔はどこか憂いを帯び、夜の静寂に溶け込んでしまいそうなほど孤独に見えた。


 ……!

 猫の鋭い五感が、風に混じった鉄の匂いと、不自然に動く殺気を捉える。


 どこから?

 ネフェルは小さな顔であたりを見渡した。

 

 柱の影、黒い人影、その手には月光を毒々しく反射する矢⁉

 カリムはまだ気づいていない……!

 ピュッと夜の空気を切り裂く鋭い音が響くのと同時に、ネフェルは草むらから弾丸のように飛び出した。


 無我夢中で跳躍し、カリムの背中を庇うように空中で身体をひねった瞬間、鋭い痛みがネフェルの小さな肩を貫いた。

 鈍い衝撃とともに、黒い毛並みが宙で舞う。

 ネフェルの身体はカリムの足元に力なく叩きつけられ、美しい石畳にポタポタとどす黒い紅い斑点が広がった。

 

「……!」

 カリムは即座に腰の短剣を抜き放ち、柱の影に潜んでいた刺客を一瞥で威圧する。

 側近に引き渡し、すぐにネフェルの元に戻ったカリムは、震える手でネフェルを抱き上げた。


「侍医! 侍医を呼べ! 早く!」

 肩の深い傷から溢れる血がカリムの白い衣を汚していく。


「おい、しっかりしろ! なぜ庇った!」

 よかった。

 あなたに、当たらなくて……。

 遠のく意識の中で、カリムの必死な声を聴きながらネフェルはゆっくりと目を閉じた。


    ◇


「……毒矢です」

 侍医から告げられた言葉に、カリムは目を見開いた。

 自分の寝所に運んだ黒猫は、浅い息を繰り返しながらぐったりと横たわっている。

 長い尻尾は動かず、時々小さな手がピクッと動くだけ。

 

「必ず救え!」

 カリムの怒声に、侍医は震え上がりながら「全力を尽くします」と薬草の準備に走った。


 猫に薬草が効くのかわからない。

 それでも祈らずにはいられない。


「女神バステトよ、どうか、この子を……」

 カリムが震える指先で猫の耳元に触れた瞬間、黒猫の身体は白い光に包まれた。


「……っ!」

 光は瞬く間に膨らみ、猫の小さな輪郭を塗りつぶしていく。

 カリムが息を呑んで見守る中、光の中から現れたのは、真っ白な寝衣を鮮血で赤く染めた最愛の王妃ネフェルの姿だった。


「ネ……フェル……?」

 ベッドの上に黒猫の姿はなく、黒い髪のネフェルが黒猫と同じ向き、同じように腕を伸ばしたように横たわっている。

 肩の傷は猫と同じ……?

 まさか、そんなことが……?

 ネフェルの冷たい手を握りしめたカリムの目から大粒の涙が零れ落ちる。


「死なせない。死なせてなるものか!」

 頼む、頑張ってくれと、カリムはネフェルの手に縋り付くように額を押し当てた。

 

「う……」

「ネフェル!」

 ネフェルの長い睫毛が震え、黒猫と同じエメラルド色の瞳がゆっくりと開く。


「カ……リム……さま? ご無事……」

「おまえのおかげで無事だ」

 ネフェルは少しだけ微笑むと再び目を閉じてしまった。


「……ネフェル? しっかりしろ」

 薬草を持ってきた侍医が驚いたのは無理もなく、毛むくじゃらの猫にはできなかった矢傷の治療を施し終わったのは明け方だった。

 あとは本人の体力との勝負だと、もし目が覚めても傷は残ってしまうだろうと、申し訳なさそうに告げる侍医を開放したカリムは、ネフェルの青白い頬をそっとなでる。


「早く目を開けてくれ……」

 カリムはネフェルの額に口づけを落とすと、手を握りながら必死にネフェルの回復を祈った。


    ◇


 刺客の自白により、すぐに黒幕は捕らえられ、極刑が言い渡された。

 黒幕は王位を狙っていたカリムの叔父。

 あの水蓮の池だけはカリムが側近を遠ざけると知った上での犯行だった。

 水の音で矢には気づかないだろうと思ったのに、あんな場所に飼いならされた猫がいるなんてと叔父は最後まで見苦しく抵抗しながら連行されていった。


 カリムが抱えた黒猫。

 王妃が怪我をした。

 情報が錯綜し、宮殿内は混乱。

 最終的には黒猫を連れた王妃が王を庇い、肩に毒矢を受けたという話で落ち着いた。


 そして――。


「ほら、あーん」

「カ、カリム様、あの、自分で」

「ダメだ。まだ右手は使えんだろう。侍医からも安静を命じられている」

 王としての威厳をどこへやら。

 カリムはネフェルの口元に丁寧にスプーンを運ぶ。

 今日の朝食は滋養強壮に良いとされる最高級の蜂蜜を練り込んだ乳粥だ。

 

「左手なら」

 至近距離で見つめてくるカリムの黄金の瞳には、かつての冷徹さは微塵もなく、蕩けるような情愛だけが湛えられている。

 ネフェルは真っ赤になりながらも、観念して小さな口を開けた。


「よし、いい子だ」

 満足げに微笑むと、カリムは空いた手でネフェルの頬を愛おしそうになでる。

 まるで黒猫の時のようだとネフェルは笑った。


「あぁ、その顔を他の男に見せたくないのだ」

 耳元で囁かれる、かつてより何倍も熱い愛の言葉。

 冷たく「下がれ」と言われた言葉の裏に、こんな気持ちが隠されていたなんて。


「これからは片時も離れることは許さぬ」

「はい、カリム様」

 ネフェルはカリムの胸に顔を埋める。

 その胸の鼓動は、かつて猫の姿で聞いたときよりもずっと激しく情熱的な音を奏でていた。

 

 砂漠の王はもう二度と「夜の猫」に愛を囁くことはない。

 これからは腕の中にいる「最愛の妻」だけに永遠の愛を誓い続ける。

 ネフェルは、そっと自分の耳元のピアスに触れた。


 さようなら、夜の黒猫。


 幸福に目を細めるネフェルの姿は、まるで陽だまりで喉を鳴らす猫のようにどこまでも満ち足りていた。


  END

多くの作品の中から見つけてくださってありがとうございます。

リアクション、ブクマ、評価、感想をくださる皆さま、ありがとうございます。

執筆の励みになっています。

今回はエジプトの女神バステト(猫)を出したいと思い、古代エジプト風の異世界を舞台にさせていただきました。

エジプトの宮殿や衣装を思い浮かべながら読んでいただけたら嬉しいです。

最後までご愛読ありがとうございました!

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