未来の婚約者はお姫様
「5月の十二支会議には、シリウス様の婚約者もいらっしゃいますのよ。」
朝の支度中、メイドの何気ない一言が私に刺さった。
「シリウス…様には、婚約者がいるんですか?」
平静を装って質問を返す。
「ええ。
正確には、2年後、シリウス様が15歳になられたときに、正式に婚約する『婚約予定者』です。
竜族のマリア様。」
メイドはこの手の話が好きらしく、嬉しそうに話を続ける。
「今、神竜の国リントヴルムのフレドリック王は、マリア様の双子のお兄様ですから、
まさにお姫様ですわね。」
「マリア様は……今おいくつですか?」
「シリウス様よりも一つ下の12歳だったかと…
…本当に愛らしくて、天使のような方ですのよ。」
喋りながらも、メイドは全く仕事の手を止めずにてきぱきと動いている。
私は胸のあたりに、
冷たい鉛の塊が食い込むのを感じた。
「婚約の予定が決まったのはいつですか?」
「確か3年くらい前ですわ。そのきっかけが…」
ここぞとばかりに、メイドは意気込んで喋り始める。
「マリア様の一目ぼれなんですのよ!」
「一目ぼれ?」
「ええ。シリウス様はそれはそれはお美しいですもの。
頭脳明晰で、お強くて、気高くて…」
悲惨な経験を経ても、気品を失わず、
大王としての歩みを止めないシリウスの背中が、目の前に浮かんだ。
「最初こそ、マリア様のお気持ちは一過性の子供の熱と思われていたのですが、
ずっとシリウス様のことを想い続けるお姿に、とうとう婚約に…というお話なのです。
物語のようでしょう?」
メイドはすっかりいい気持ちになっている。
私は、なるべく本心であるように
「本当ですね。」と答えて、部屋を出た。
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その後はどうも調子が出ない。
朝食の時は、シリウスに対して、
久々に猫族の憎悪と食欲が溢れかえって、多少暴れてしまい、
パンをかじった程度で退室せざるを得なくなった。
勉学の時間もイライラし通しで、
結局、もう一本鎮静薬を打つ羽目になった。
おかげで激しい睡魔に襲われ、高名な教授の前で、いびきと恥をかいた。
ようやくランチタイムがきて、
私は逃げるように大神殿の庭園に飛び出した。
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昨日の大雪で、庭園は深い雪に埋もれている。
静かで趣深いこの景色も今は役に立たず、
私は滑らかに積もっている部分を目掛けて、
えい!
えい!
馬鹿!
馬鹿!
と、ズボリズボリ足跡をつけた。
「リヒトさん、大丈夫ですか?」
ハッと振り向くと、シリウスが立っていた。
「誰かに、何かされたのですか?」
シリウスは、私がつけた雪の足跡にチラリと目をやる。
「別に何もない……何か用事?」
理不尽な私の苛立ちを気に留める風もなく、
シリウスは手に持っていたものを差し出した。
「ランチボックスです。
持たずにここに来たでしょう。
貴女は朝食もろくに食べていない。
どうぞ。」
「大王様が、メイドみたいなことをするな。」
「僕の分もあります。
貴女と食べようと思って。」
「大王様が、危険なことをするな。」
「貴女は少し前に、
今日2本目の鎮静薬を打ったから大丈夫でしょう。」
「ここは寒い。」
「では、部屋に戻って、一緒に食べましょう。」
シリウスの静かで穏やかな返答に、言いようもない苛立ちが湧いてくる。
自分が惨めでたまらない。
「君は、私なんかと食べる必要ないじゃないか…」
「リヒトさん、今朝から具合が悪そうです。」
「君といると具合が悪いのは、いつもじゃないか!」
私はシリウスを見ていることが耐えられずに、
背中を向けた。
「リヒトさん…」
シリウスは、諦めずに呼び掛けてくれる。
「僕が、貴女に何かしてしまったでしょうか。」
私の脳裏に、
美しいドレスに身を包んだお姫様と、その手を優しく取るシリウス、
笑顔で祝う人々のまぶしい光景がサアッと広がった。
その瞬間、私は、シリウスに叫んでいた。
「私は猫族だ!
猫族なければ…
…大王で、無敵で、強くて、頭も良くて…
きれいなお姫様の婚約者までいる君とは、
本当は会うことなんてない!!!」
シリウスは表情を動かさず「婚約者…?」とつぶやいたが、
私はその後をつがせなかった。
「猫族でなければ、
私なんかゴミだ!
今頃、大学の窓際で、
人に笑われて生きるゴミに過ぎないんだ!」
私は、私自身の言葉で自分を傷つけながら、
言葉を加速させた。
「君には分からないんだ!
惨めに生きる私が、もっと惨めになるこの気持ちが!
君には感情がないんだから…」
言ってしまって、私は言葉を失った。
最も言ってはいけない言葉を言った。
しかし、私には、シリウスに謝るどころか、
彼を見る勇気もなかった。
「大学の休暇は後三日で終わる。
もう、君の前から消えるから…」
私は、シリウスから目を逸らし、
飛ぶようにその場を去った。
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夕食は欠席した。
どうしても、シリウスに会う勇気が出ない。
シリウスには何の罪もないのに、
身勝手で感情的な言葉で、私は彼の心を傷つけた。
どうやって謝ればいいかも分からない。
シリウスは今、何を考えているんだろう…。
夜遅くまで消えないシリウスの部屋の明かりを見ながら、
私はほとんど一睡もしなかった。
しかし、夜が明けると、謝る覚悟が決まった。
まずは、シリウスに会って、「ごめんなさい。」を言うのだ。
それから、「感情がない」ことは何も悪くないと伝えて…それから…
しかし、朝食にシリウスは現れなかった。
珍しく、高熱を出して寝込んでいるという。
「昨日の午後は夕方まで予定がなかったのですが…ずっと、雪が積もっている庭園にいらっしゃったようで…」
「まあ、どうなさったんでしょう。
それでお風邪を召したのね。」
ロベルト様とステファニー様の会話が、目の前を滑っていく。
ロベルト様はちらりと私を見て心配そうに声を掛けた。
「おや、リヒトさん。食が進みませんね。」
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次の日も、その次の日も、
シリウスは自室から出てこなかった。
必要な執務は自室で行っているようで、
公務上はそれほど大きな問題は生じていない。
でも、会わない時間が長くなるほど、
謝罪の言葉は行き場を失う。
そして、明日は、大学の休暇の最終日…
…この再生計画期間が終わる日。
もう、謝罪の機会すらなくなってしまうのだ。
夜、私は、月明かりの中で、手紙を書いた。
”貴方は何も悪くない。
全部私が悪いのです。
本当にごめんなさい。”
一文字一文字、
心を込めて書いた手紙を渡そうと、
そっとシリウスの部屋に近づいた。
しかし、執務を続けようとするシリウスに対し、
必死に休ませようとする人々の声を聞くと、
手紙を握りしめ、
ただ黙って立ち去るほかなかった。




