「リヒトさん…」私を呼ぶ、低くて美しいその声は?
オスカー王の就任十周年式典の当日。
シリウス大王の初めての訪問、しかも、オスカー王と共にパレードを行うということで、
州都は、朝から上を下への大騒ぎとなっている。
飾りをつける者、場所取りをする者、物を売る者、警備を行う者、興奮して走り回る者…
それは喧噪というより、一世一代の祭りという喜びに満ちていた。
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「シーリン、もうすぐパレードが始まるよ!行かないの?」
「私は留守番するわ…楽しんできて!」
同僚たちは皆、出払った。
私はペンを置いてため息をつく。
メアリは言っていた。
シリウスは、背が高くて、男らしいと。
私の記憶では、まだ私とそれほど変わらない身長、
良く鍛えられているものの、まだ少年らしい体つきで、
美しい顔はどちらかといえば中性的だった。
この3年間で、シリウスが、ツヴェルフェト大学だけでなく、
神亥ハバリーの体技学院や神牛トロスの騎士学校も卒業したことには、
少なからず驚いた。
強いことは【覗き】でも知っていたが、
そこまで体技や剣技に振り切るとは思わなかった…
あまりに頭脳明晰だから、ツヴェルフェト大学くらいでは物足らなかったのか…
シリウスのことだから、公務もおろそかにせずに、必死に学業と両立したのだろう。
素晴らしい体技と剣技を身につけたに違いない。
どんな顔に、
どんな体に、
どんな声に、
どんな大人に、
なっているのだろう。
子供の3年間は、長くて、重い。
私が、名前も過去も捨てて、夢中で仕事をし、
彼に近づかずに、静かに生きていく道を模索する間に、
彼はどれほど成長しただろう。
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私は、首にかけた銀色のロケットを取り出した。
内蓋の片方には、小さなアクアマリン色の石を埋め込んであり、
もう片方には…
1本の、光り輝く銀色の髪を入れている。
この銀色の髪は、3年前、コルデールに着いたときに来ていた服…
…大神殿の官吏として支給された黒いワンピースについていたのだ。
与えられた部屋でこれを見つけたとき、どれほど泣いただろう。
どうして、私の服に、この美しい銀髪がついたのか…
どうして、その後すぐに、別れが訪れたのか…
おそろしいことに、私は、
首都ディモイゼを離れても、
完全に理性を取り戻しても、
あの血肉を最高に美味だったと思っている。
噛みしめた彼の肉、
舐め回した彼の血…
今でも…今でも!
今日、州都を訪れるシリウス。
一目でもいいから見たい。
見たくないわけがない。
でも、一目見た瞬間に、何が起こるか分からない。
次に理性を取り戻したときに見る光景は、
自分がシリウスを食い散らかした画かもしれない。
私はロケットを閉じて握りしめた。
駄目だ、やっては駄目だと思いつつ、そっとロケットに口を付けた。
一度やってしまうと、もう止められず、
私は銀色のロケットに何度も何度も熱い口づけをした。
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「ああ!シリウス様があんなにお美しいなんて!想像もできなかった!」
「左に白馬の大王様、右に黒馬のオスカー様…あんな光景、もう死ぬまで見られないわ…」
「本当に、見られて良かったね!」
「石を投げた奴がいたんだんだけど、
その石、大王様が指を鳴らしたら光の砂になって…もう大喝采だよ。」
「しかし、すごい美男子だったな…眼福眼福!」
皆が興奮しながら帰ってくる。
私は全身を耳にして、ひと言も漏らさないようにしている。
「シーリンも見に行けばよかったのに!」
私はその同僚に言った。
「石を投げられた…って、大王様に反抗的な人達がいるの…?」
「そんなこと聞いたことないよねぇ…」
同僚たちは顔を見合わせて首をかしげる。
「石を投げた奴らを見たけど、この辺りでは見ない顔だったぜ。」
私の胸はキリキリと締め上げられた。
3年前…私がここで働いてからしばらくして知った、クロエ様の死。
詳細は分からないが、あの十二支会議の帰路で、
神猿アダム王と神鶏レン王の目の前で、弓矢で襲われたという。
クロエ様の死が、アダム様に想いを伝えた後だったのか、前だったのかは分からない。
私には、一緒に【覗き】をした、可愛らしい、短い間の友を、
ただ悼むことしかできなかった。
しかし今、その殺意の矛先が、シリウスにも向けられているのか?
クロエ様だって、強力な神通力を持つ神犬だった。
しかも、そばにはアダム様とレン様もいた…それなのに命を失ったのだ。
シリウスなら、大軍を前にしても勝ち抜ける力があるだろう。
それでも…
しかし、こんな風に心配をつのらせても、そばで支えたいと思っても、
猫族の方が余程危険だという事実は、あまりにも虚しかった。
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早めに仕事を上がった私は、人気のない丘に足を向けた。
夕暮れの空にオレンジと青の色彩が広がって、一番星が冴え冴え輝いている。
街には色とりどりの光がちらつき、いまだ浮かれている人々が目に浮かぶ。
私は王宮の方を見た。
木々に隠れてほんの少ししか見えない。
それでも、あそこには、今、シリウスがいる。
3年前、シリウスが、ツヴェルフェト大学に迎えに来てくれて、
一番星の下で、馬に乗って、私に伝えてくれたのだ。
「僕は嬉しいです。貴女と共に大神殿に帰ることが。」
その言葉を思い出した瞬間、
あの時と同じように、
私の目から、ボロボロと音がしそうなほどの大きな涙がこぼれ出た。
こらえればこらえるほど、口唇の隙間から嗚咽が漏れる。
私はうつむき、銀のロケットを口にあてて、激しくしゃくり上げた。
鼻から伝う涙で、ロケットが塩からい。
とうとう私は膝をつき、背中を丸めて、泣きじゃくった。
「どうか…この涙を少しでも哀れと思うなら…神様…
シリウスを…お守りください…
シリウスを…シリウスを…
どうか…死なせないで…ください…」
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そのとき、
「リヒトさん…」
聞き慣れない、
でも懐かしい、
低くて美しい声が、
ヴェールのように私を包み込んだ。
私は、ビクリとして、耳だけその方向に向けた。
すぐには嗚咽を止められない。
私の目が後ろの人物を捉える前に、その声が近付いてきた。
「大丈夫ですか…?」
私はバッと大きく振り向いた。
そこには、黒いマントを目深にかぶった長身の男性が立っていた。
帽子の陰で顔はほとんど見えないが、口元に大きな傷跡が見える。
私は、残った嗚咽をすすりながら、茫然とした。
「やっぱり、リヒトさんだ…」
男性は、グッとマントの帽子を下ろした。
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それは、「見たことのない」青年だった。
背が高く、肩幅は広く、
彫像のように神々しい顔立ち、
薄闇の中でも光り輝く銀色の髪、
思慮深く煌めくアクアマリンの瞳…
声を出そうとして、喉が詰まる。
「リヒトさん…僕のこと、分かりますか…」
青年は、少し悲しそうに尋ねながら、私にゆっくり近づいてくる。
私は、何とか、その名を呼ぼうとしたが…
瞬間に、青年の足がピタリと止まった。顔が青ざめている。
同時に、私も、足のつま先から、彼への憎しみと食欲が黒い粒子のように沸き上がるのを感じた。
彼の血肉の味と匂いが、私の中で充満する。
なぜか青年は「しまった!」と言うなり
「神通力 封殺!」
と詠唱した。
私は、青年に背中を向けて、力の限り走り出した。
「待って!リヒトさん!!」
青年が後を追ってくる。
私は叫んだ。
「ば、馬鹿シリウス!!!!!!
ついてくるな!!!」
理性を失う前に、一秒でも早く、一ミリでも遠くへ、遠くへ…!!!
しかし、私は走りながら、体から憎しみと食欲が消えていることに気付いた。
あっけなく消えていることに驚いて立ち止まると、
息を切らしながら振り返った。
……しかし、青年は追って来ていなかった。
それでも、私は未練がましく立っていたが、いつまで待っても、
再びあの青年は現れなかった。




