異国の王妃
その日、姫は泣かなかった。
輿入れの列が王都へ入る時も、
王宮の門をくぐる時も、
ただ唇を固く結び、前だけを見ていた。
道の両脇に並ぶ人々。
揃いも揃って、漆黒の髪。
血のような、赤い瞳。
——悪魔の民。
故国では、そう呼ばれていた。
向けられる視線は鋭い。
好奇と警戒、そして隠そうともしない拒絶。
言葉も、作法も、祈る神も違う。
金の髪に青い瞳の異邦の王女は、
この国において異質そのものだった。
王の花嫁。
それは祝福ではなく、同盟の証。
拒否など許されぬ、国家の決定。
ここに、彼女の居場所はない。
ただ“王妃”という肩書きだけが、
彼女をそこに立たせていた。
⚜️⚜️⚜️
やがて王妃は、子を身籠る。
血が混ざれば、溝は埋まる——
王宮はそう期待した。
だが、王妃の胸は最後まで温まらなかった。
産声が、静寂を裂く。
生まれた子は、漆黒の髪。
そして——赤い瞳。
王と同じ色。
その瞬間、王妃の指先から力が抜けた。
自分の色は、どこにもない。
差し出された赤子は泣いている。
小さな手が、宙を掴む。
だが王妃は、手を伸ばさなかった。
——悪魔の血。
故国で忌み嫌われ、
恐怖の象徴として語られてきた色。
その瞳が、自分を見上げている。
愛おしいと感じるより先に、
本能に近い拒絶が胸を締めつけた。
この子は、この国の子だ。
自分の子ではない。
そう、思ってしまった。
王妃は最後まで、その子を抱こうとはしなかった。
愛せなかったのではない。
愛さなかった。
その違いを、自分で選んでしまった。
⚜️⚜️⚜️
王子は、よく学ぶ子だった。
言葉を覚えるのも早く、
剣を握れば迷いなく振るい、
術を扱えば大人たちを驚かせた。
黒髪に、赤い瞳。
誰が見ても、この国の血を引く子。
——だからこそ。
王妃は、微笑まなかった。
「それで当然です」
「次は、もっと上を目指しなさい」
向ける言葉に、温度はない。
王妃は理解していた。
王子が、優れていなければならないことを。
劣れば——
“異国の血が混ざったせいだ”と囁かれる。
その矛先は、母である自分へも向けられる。
だから、許さなかった。
劣ることだけは。
⚜️⚜️⚜️
王妃は、故国への帰還を望み続けていた。
幾度も王に願い出たが、
返る答えは変わらない。
「許可はできない」
花嫁は同盟の証。
証は、元に戻せない。
——そして。
王宮に、新たな妃と王子が迎え入れられる。
同じ漆黒の髪、同じ赤い瞳。
“純粋な”この国の血。
その子は第一王子となり、
母は正統な妃として遇された。
王に愛され、
当然のように抱き上げられ、
当然のように微笑みを向けられる存在。
王妃は、何も言わなかった。
ただ、目に見えて言葉を失っていった。
夜半。
故国の言葉で誰かの名を呼び、
赤い瞳に怯えたまま窓辺に立つ。
壊れていくのは、静かだった。
⚜️⚜️⚜️
事件は、ある夜に起きた。
第一王子が、毒を盛られる。
命に別状はなかった。
だが王宮は騒然となる。
疑いは、迷いなく——
異国の王妃へ向けられた。
理由は、十分すぎるほど揃っていた。
異国の血。
不安定な精神。
支持者のいない立場。
証拠は曖昧だった。
——だが、それで足りた。
王妃は捕らえられ、
短い審問の末、処刑された。
⚜️⚜️⚜️
王子は、幼い頃から知っていた。
母は、自分を愛してはくれない。
それどころか——
その瞳を、まともに見ようともしない。
視線が合いかけた、その一瞬。
必ず、翳りが落ちる。
それが何なのか、彼は知らない。
ただ、理解していた。
——母は、この国を憎んでいる。
そして。
その象徴である自分も。
母の最期は、告げられなかった。
けれど——
不思議と、何も感じなかった。
最初から、持っていなかったものを
失っただけだと、そう思った。
王妃が処刑されてから、数日後。
王子は、王宮を離れるよう命じられた。
罪は問われない。
だが、居場所も与えられなかった。
「息を潜めて生きよ」
それが、王の言葉だった。
優しさでも、愛でもない。
ただ、厄介事を遠ざけるための処置。
王子は理解していた。
——守られたのではない。
——切り捨てられたのだ。
⚜️⚜️⚜️
愛。
与えられなかったもの。
求めることすら、許されなかったもの。
強くなければならない。
価値を示し続けなければ、存在する意味さえ揺らぐ。
そんな世界で——
ムスタファは生きてきた。
甘えることも、縋ることも知らないまま。
——アルテリスと出会うまでは。
この夜、彼は王子であることをやめた。
強さも、誇りも、
守るべき矜持さえも、ひととき脇へ置く。
ただ、縋った。
腕をほどけば、また独りに戻ると知りながら。
夜が明ければ、再び王子の顔を被らねばならぬと分かっていながら。
越えてはならぬ線だと、
誰よりも分かっていながら。
それでも、手放せなかった。
それが救いかどうかは分からない。
ただ、傷を抱えた者同士が、
互いの痛みに触れているだけかもしれない。
それでもいいと、思ってしまった。
胸元に触れる体温。
耳元に流れる、祈りにも似た旋律。
遠い記憶のどこにもなかったものが、
今は、すぐそばにある。
母の腕も、子守歌も、彼は知らない。
だからこそ——
この声を失うことが、何よりも怖かった。
夜は深い。
その闇の中でだけ、彼は初めて、
価値を示し続ける王子でもなく、
切り捨てられることに怯える子でもなく、
ただ、誰かの腕の中にいることを許された。
——許されぬはずの、夜の中で。
そのぬくもりを、
手放せなくなってしまうほどに。




