綻び
シャマル邸に戻った頃には、夜は完全に更けていた。
花火は終わり、
空には焼け残りの煙が、かすかに漂っている。
遠くでは、まだ祝祭が続いているのだろう。
笑い声も、灯りも、途切れる気配はない。
——だからこそ。
この場所の静けさは、際立っていた。
灯りを落とした廊下を抜け、
ムスタファは自室へと入る。
扉が閉じられる音が、夜を区切った。
外套も脱がぬまま、
長椅子へ腰を下ろす。
動かない。
「殿下……」
アルテリスは慎重に声をかける。
「お疲れでしょう。
せめて、お休みになる支度を——」
返事はない。
月明かりだけが、横顔を白く照らしている。
祝福の光ではなく、
冷たく、均一な光。
やがて——
「……アル」
低く、掠れた声。
呼ばれ、アルテリスが一歩近づいた、その瞬間。
何の前触れもなく、ムスタファが縋りついた。
抱き寄せるのではない。
張り詰めていた何かが、
ふと力を失ったように。
「殿下——」
「……少し」
胸元で、声が震える。
「少しでいい。
このままでいさせてくれ」
懇願でも、命令でもない。
ただ——
耐え続けた者に生じた、わずかな綻び。
アルテリスの身体が、わずかに強張る。
王子が。
主が。
誰にも見せぬはずの姿を、
今、自分に預けている。
「殿下、それは……」
止めるべきだ。
分かっている。
だが。
額が肩に触れる。
震えてはいない。
それでも、その重みは確かだった。
花火の下で向けられた言葉。
王宮で浴びせられる視線。
積み重なったものが、
今、わずかに軋んだのだろう。
「……すまない」
小さな、謝罪。
「だが、今は……」
それ以上は、続かない。
言葉にすれば、また強くあろうとしてしまうから。
アルテリスも、それ以上は言わなかった。
許されぬ距離。
越えてはならぬ線。
だが今、この腕を退けば——
この人は何事もなかったように立ち上がる。
それを、望めなかった。
ゆっくりと、背に腕を回す。
抱きしめはしない。
ただ、崩れきらぬように支える。
それだけ。
ムスタファの呼吸が、少しずつ整っていく。
やがて——
「……なあ」
「はい」
「歌を、歌ってくれないか」
アルテリスは、一瞬、言葉を失う。
「頼む」
命令ではない。
縋る声。
その一言で、迷いは消えた。
アルテリスは、静かに歌を紡ぎ始める。
澄んだ旋律。
柔らかな声音。
強さを讃える歌ではない。
勝利を祝う歌でもない。
ただ、孤独な魂に寄り添うための歌。
主のためではなく。
王子のためでもなく。
ただ——
一人の少年のための歌。
歌声が部屋に満ちる。
ムスタファの身体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……アル」
「はい」
「お前だけだ」
囁き。
「俺が、こうして弱さを見せるのは」
アルテリスの喉が詰まる。
(私も)
(こうして歌うのは、あなたの前でだけです)
決して口にはしない。
触れてはならぬはずの距離で、
互いの欠けたものを埋めるように、
ただ黙って寄り添う。
許されぬと知りながら、
離れられない。
それが慰めなのか、
ただの弱さなのかも分からないまま。
それでも今夜だけは——
このぬくもりを、手放せなかった。




