祝福の影で
王宮の大階段は、灯りに包まれていた。
金の装飾が施された欄干。
赤い絨毯。
階下には城下町へと続く大通りが伸びている。
祝祭の熱気は、すでにここまで届いていた。
楽師の奏でる旋律。
遠くで上がる歓声。
門前には、王宮が用意した馬車が控えている。
漆黒の車体に王家の紋章。
御者は深く頭を垂れ、恭しく待機していた。
「殿下、お戻りでしたら——」
ムスタファは、足を止めた。
視線は馬車から外れ、
周囲の兵へ、御者の手元へと流れた。
ほんの一瞬、観察するように目を細め——
静かに告げた。
「……不要だ」
御者が顔を上げる。
「しかし、本日は生誕祭にて道も混雑を——」
「だからだ」
淡々とした声。
「馬車では余計に時間がかかる」
嘘ではない。
だが、それが理由のすべてでもなかった。
アルテリスは何も言わない。
ただ、周囲へと意識を巡らせる。
王宮の端。
一定の距離を保ち、歩調だけを合わせる影。
「徒歩で戻る」
ムスタファは階段を下りた。
馬車の車輪が軋むことは、ついになかった。
⚜️⚜️⚜️
王宮を離れ、大通りへ出た瞬間。
音と光が押し寄せた。
色とりどりの旗が風に揺れ、
露店が並び、
甘い菓子の香りと香辛料の匂いが混ざり合う。
子どもたちは笑い、若者たちは歌い、
人々は皆、空に掲げられた第一王子の紋章を仰いでいる。
祝福の夜。
「……随分な賑わいだ」
ムスタファは足を止めずに言う。
羨望も、皮肉もない。
ただ事実を述べる声音。
アルテリスが低く告げた。
「尾行が四です」
「分かっている」
人波の中でも、視線は消えない。
不自然に歩調を合わせる影。
視線だけがこちらを追う男。
祝祭に紛れながらも、
殺意は静かに浮いていた。
「王宮を出た直後からか」
「はい」
ムスタファは小さく息を吐く。
「露骨だな」
だが焦りはない。
むしろ——
「好都合だ」
花火の一発目が夜空を裂いた。
眩い光。
地鳴りのような歓声。
その瞬間。
ムスタファは進路を変えた。
賑やかな大通りから、灯りの少ない横道へ。
⚜️⚜️⚜️
石畳は湿っている。
祭りの喧騒は遠ざかり、代わりに夜の冷気が肺へ沈む。
花火が上がる。
閃光が路地を一瞬だけ昼のように照らし——
次の瞬間、闇が落ちた。
その刹那。
ムスタファとアルテリスの姿は消えた。
「……どこだ」
追手の声に焦りが混じる。
影が揺れる。
背後。
アルテリスが滑り込むように現れ、
無駄のない動きで男の側頭を打ち抜いた。
鈍い音。
男は崩れ落ちた。
息はある。だが意識はない。
(……一人)
残り、三。
二人が即座に剣を抜く。
最後の一人が、小さく詠唱した。
「《火の精霊よ。
血を啜る紅蓮の礫となりて、彼の者を穿て》」
空気が震える。
路地の奥に紅い火球が灯る。
祝祭の花火とは違う、殺意を孕んだ炎。
(精霊術士……)
アルテリスは一歩下がる。
火球が弾け、アルテリスに迫る。
だが、その中心で低い声が重なった。
「《火の精霊よ。
奴の炎を奪い、灼き払え》」
ムスタファの声だった。
アルテリスを焼くはずだったの炎が、
見えない手に掴まれたかのように揺らぐ。
火球は霧散し、逆に術者の足元へと集束した。
「な——」
男が後退る。
だが遅い。
炎が絡みつく。
悲鳴は花火の炸裂音に呑まれ闇に溶けた。
術者は崩れ落ちる。
残り、二。
同時に、剣士二人が間合いを詰める。
刃が闇を裂いた。
金属音。
ムスタファが一人を受け止める。
その横。
アルテリスも、別の刃を受け止めた。
速い。
重い。
「……っ」
押し込まれる。
男の剣筋が鋭い。無駄がない。
王宮仕込みの剣ではない。
殺すためだけに研がれた動き。
袖が裂ける。
浅い。
それでも、格の差は隠せない。
(強い……)
連撃。
防ぐので精一杯。
足が半歩下がる。
体勢が崩れかけた、その瞬間。
ムスタファの刃が横から割り込んだ。
一閃。
軌道を逸らす。
「下がれ」
短い命令。
アルテリスは退き、呼吸を整える。
ムスタファが二人を同時に受けた。
一合。
二合。
三合。
四合目。
刃が一人の手首を打ち抜いた。
剣が宙を舞い、石畳へ転がる。
男の足元が崩れる。
その隙を、アルテリスは逃さない。
踏み込み。
体当たり。
腕を絡め、捻り上げ、膝裏を払う。
鈍い衝撃。
男は地に叩きつけられた。
喉元へ刃。
制圧。
残るは、最後の一人。
男は一歩退く。
逃げるのではない。
間合いを測る冷たい目。
先ほどアルテリスを圧倒した男だ。
踏み込み。
一直線。
速い。
今度はムスタファが受ける。
金属音。
重い。
技で崩しに来る。
鋭い突き。
紙一重で避けた。
それでも肩に、熱い痛みが走る。
「……なるほど」
ムスタファの目が細まる。
強い。
だが。
花火が路地を照らす。
その光に、男の重心がわずかに流れた。
その“わずか”。
ムスタファは見逃さない。
踏み込み。
柄で肘を打つ。
刃を滑らせ、喉元を一閃。
男は音もなく崩れ落ちた。
石畳に倒れる四つの影。
静寂。
アルテリスが押さえ込んだ男に問う。
「どなたの差し金ですか?」
低く、冷たい声。
くくくと含み笑い。
「王にも王妃にも捨てられた忌み子」
その瞬間、アルテリスの指に力がこもる。
空に、ひときわ大きな花火が咲いた。
黄金の光が、路地の入口まで差し込む。
一瞬だけ、三人の影が長く伸びる。
祝福の光の中で。
「ぐっ……第二王子は……消えるべきだ」
ムスタファは男を見据える。
刃が、一閃する。
正確に。
迷いなく。
男は崩れ落ちた。
花火が散る。
光が消える。
闇が戻る。
石畳に落ちた血。
その上に、花火の赤と金が儚く反射する。
まるで祝福の残光のように。
アルテリスが問う。
「宜しかったのですか」
ムスタファは剣の血を払う。
炎の名残が、夜気に溶けていく。
「奴らはプロだ」
静かな声。
「死ぬまで口は割らない」
「そうですね」
アルテリスは静かに納得した。
「足手まといとなり、申し訳ございません」
指先に力が入る。
「いいや。十分だ」
戻るぞ。そう言いかけて、ムスタファは足を止めた。
石畳。
倒れ伏す影。
血の匂い。
遠くで、花火が弾ける。
一瞬の光が、赤を照らす。
ムスタファは静かに目を伏せた。
そして、低く詠唱する。
「《火の精霊よ。
この場に残る痕を喰らいつくせ》」
空気が、ひやりと揺れる。
音もなく、ただ、赤い燐光が石畳を這う。
血が、蒸気も立てずに消えていく。
倒れた男の衣も、肉も、影さえも。
炎は荒れない。
暴れない。
静かに、均一に、存在だけを奪う。
まるで最初から何もなかったかのように。
花火が上がる。
夜空では、黄金の大輪が咲き誇る。
祝福の炎。
路地裏では、無音の炎。
やがて、燐光は消えた。
残ったのは、湿った石畳だけ。
血の匂いもない。
焦げ跡すらない。
ムスタファは夜空を見上げる。
一瞬で咲き、
一瞬で散る光。
「……見事だな」
それは花火への言葉か。
それとも。
祝われる者がいる。
祝福の影で、消される者もいる。
どちらも同じ夜の下。
「行くぞ」
二人は再び人波へ溶ける。
背後では、まだ祝祭の光が空を彩っている。
だがその光は、路地裏までは届かなかった。




