王の子
ムスタファにとって王宮は——
幼い日に追われて以来、初めて足を踏み入れる場所であった。
それでもなお、そこは記憶と寸分違わぬ姿で在り続けている。
何も変わらぬまま、まるで彼の不在など最初からなかったかのように。
磨き上げられた回廊に、二人分の足音だけが静かに響く。
黒を基調とした正装に身を包んだムスタファは、
第二王子としての威厳を纏い、無言のまま歩みを進めていた。
その一歩後ろ——
同じく礼装に身を整えたアルテリスが、影のように従う。
無駄のない所作と、正確すぎる距離。
そのすべてが、主従の関係を雄弁に物語っていた。
やがて、重厚な扉の前でムスタファは足を止める。
「殿下」
背後で、アルテリスが一礼する。
「ここからは——」
「分かっている」
ムスタファは振り返らない。
「待っていろ」
それだけを告げ、扉へと向かう。
扉が開き、
そして閉じた。
——そこには、国王しかいなかった。
玉座に座る国王オルハンは、
視線を上げ、無言で息子を見据える。
ムスタファは、深く跪いた。
「ランデュートの太陽、国王陛下へご挨拶申し上げます」
形式的な挨拶。
だが、その声はわずかに硬い。
「おもてを上げよ」
低く、疲れを含んだ声。
ムスタファは従う。
視線が交わる。
国王は、年齢を重ねた分だけ深みを増した、端正な顔立ちをしていた。
漆黒の髪は整然と後ろへ流され、
その奥に覗く深紅の瞳は、冷ややかな光を湛えている。
引き締まった体躯。
一切の隙を見せぬ姿勢。
王としての威厳が、その存在そのものに染み付いていた。
——そして何より。
その顔立ちは、
否応なく、ムスタファ自身と酷似していた。
彫りの深さも、
瞳の色も、
纏う空気すらも。
鏡を見ているかのような錯覚。
(……似ている)
胸の奥に、わずかな不快が走る。
肌の色だけは、違う。
——それでもなお、
血の繋がりを、嫌でも突きつけてくるその姿を——
ムスタファは、心の底から好ましく思えなかった。
「久しぶりだな」
国王は、鼻で小さく息を吐いた。
冷淡な声が、広い室内に響く。
「お前が学園へ留学すると言い、
何処の馬の骨とも分からぬ孤児を共に入学させたいなどと言ってきた日以来か」
鋭い視線が突き刺さる。
「相変わらず、傍に置いているのだな」
ムスタファは表情を動かさない。
「はい。私に必要な者です」
淀みのない、はっきりとした声音。
その答えに、国王はわずかに眉をひそめた。
「……変わらん」
吐き捨てるように言う。
「お前は昔から、生意気なやつだった」
重い沈黙。
「国に戻るなら、なぜ便りを寄越さなかった」
声が低くなる。
「王子が王宮を素通りし、
侯爵家に身を寄せ、
周囲に臆測を与える行動を取る。
その意味が、分からぬほど愚かではあるまい」
一段、言葉を区切る。
「“反逆”と取られても、仕方のない振る舞いだ。
しかも——よりによって、第一王子の生誕祭が行われる、この時に」
空気が、凍りついた。
久方ぶりの再会。
だがそこに、
体調を気遣う言葉も、
無事を喜ぶ声も、
父としての温度は一切なかった。
「……申し開きはいたしません」
ムスタファは静かに答える。
「すべて、承知の上です」
国王の表情が一段と険しくなった。
「ならば、尚更だ」
冷然と告げる。
「王太子の地位を、脅かすな」
その言葉は、はっきりとした“釘”だった。
「余計な行動は憶測を生む。
憶測は、派閥を生む。
お前が学園で何を学ぼうと構わん。
だが——」
視線が鋭く突き刺さる。
「王太子の立場を揺るがすような振る舞いは、断じて許さん」
まるで、最愛の息子の“障害”を見るかのような目。
「王太子は今、重要な時期にある。
余計な政争の火種は不要だ」
その言葉の裏にあるものを、ムスタファは痛いほど理解していた。
——心配しているのだ。
だが、対象は自分ではない。
「ゆえに、今後しばらく」
国王は淡々と続ける。
「ランデュートへの入国を制限する。
用のない限り、近づくな」
それは命令だった。
王子でありながら、
国から遠ざけるという露骨な排除。
「……承知いたしました」
ムスタファは、声色ひとつ変えずに答える。
国王は、ほんの一瞬だけ息子を見た。
だがそこにあったのは、
愛でも、迷いでもなく——
「立場を弁えろ、ムスタファ」
それだけだった。
その言葉が、
何よりも雄弁に、
この父が何を恐れ、何を守ろうとしているかを物語っていた。
ムスタファは、深く頭を下げる。
「御意のままに」
国王と王子。
父と子ではない。
謁見室に残ったのは、
冷え切った沈黙だけだった。




