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Jardin miniature 神々の箱庭で、少女たちは軌跡を紡ぐ  作者: kitty
第3章 厭う地で志を繋ぐ
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独りでないのなら

扉が閉まり、侯爵夫妻が二人きりになると、室内には深い静けさが落ちた。


先ほどまでの会話の余韻が、まだ空気の中に残っている。

誰もいないはずの応接間が、どこか息苦しく感じられた。


天井にかすかに響く、時計の秒針の音。

その規則正しい刻みだけが、やけに大きく耳に届く。


先に口を開いたのは、夫人だった。


「……ジャミーラは」


柔らかな声。

だがその奥には、長く張り詰めていたものが、わずかにほどけた気配があった。


「周りに、恵まれましたわね」


侯爵は、何も言わずに耳を傾ける。


「ムスタファ殿下に、イルハン様……それに、あの少年も」


視線を落とし、微笑む。

その表情には、穏やかな安堵が滲んでいた。


「あの子は、ひとりではございません」


少し間を置いて、夫人は続ける。


「わたくしは、ずっと恐れておりました」


言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「あの子は、本当の家族を失って——

生きていながら、まるで心を閉ざしてしまったようでした」


声が、かすかに震える。


「ようやく、少しだけ心を開いてくれるようになったのに——

また独りになって、あの時が繰り返されるのではないかと……」


言葉が途切れる。


「それが、何よりも恐ろしかったのです」


静かな声音の奥に、長く押し殺してきた感情が滲んでいた。


侯爵の拳が、膝の上で強く握られる。

骨が軋むほど力が込められているのに、それでも言葉は出ない。


「……ああ」


低い返事。

それは同意というよりも、同じ恐れを抱えていた者の肯定だった。


「ですが」


夫人は続ける。


「もし、あの子が——独りではないのなら」


顔を上げ、夫を見る。


その瞳には、迷いよりも“確信”が宿り始めていた。


「支えてくれる人がいるのなら——

どのような困難があろうとも、あの子は立ち向かえるかもしれませんわ」


侯爵は、しばらく黙っていた。


言葉が見つからないのではない。

言葉にしてしまえば、自分の中で何かが変わってしまうと分かっているからだった。


やがて、重く口を開く。


「夢を応援することが——

それが、守ることになるのか」


その問いは誰に向けたものでもない。

長年抱えてきた“父としての正しさ”に、自ら刃を向けるような響きだった。


夫人は、そっと微笑む。


「守るだけが、愛ではありませんわ」


その声音は揺るがない。


「信じて送り出すことも——きっと、愛ですわ」


侯爵は目を閉じる。


長い沈黙。


その中で、これまでの恐れと、今目の前の現実とが静かにぶつかり合っていた。


やがて、低く息を吐く。


それは何かを手放すような——

同時に、何かを受け入れるような息だった。


「……あの子は——

我々が思っている以上に、もう前を向いているのかもしれんな」


夫人の瞳が、わずかに潤む。


「ええ」


小さく、しかし確かな声。


「だから——明日、もう一度話しましょう」


侯爵は、ゆっくりと立ち上がった。


その動作はいつもと変わらないはずなのに、どこか決意を帯びて見えた。


結論は、まだ出ていない。

だが——心は確かに前を向き始めていた。


⚜️⚜️⚜️


翌朝。


応接間には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。


昨夜の重苦しさは薄れている。

だが、完全に消えたわけではない。


——決断の直前にある、静かな緊張。


シャマル侯爵夫妻が並び、向かいにジャミーラ、ライル、そしてムスタファとアルテリスが座っていた。


誰も口を開かないまま、わずかな時間が過ぎる。


その沈黙を破ったのは、侯爵だった。


「……昨夜、妻と話をした」


低く落ち着いた声。

だがその奥には、確かな決意が宿っている。


視線は、まず娘へ向けられる。


「お前の夢について。

そして——我々が、何を恐れてきたのかについてだ」


ジャミーラは身じろぎもせず、その言葉を受け止めていた。


逃げることも、逸らすこともない。

ただ真正面から、父の言葉を受け止めている。


「我々は、お前を守るつもりでいた。

世間から、噂から、危険から」


侯爵は一度、言葉を区切る。


「だが——」


低く、確かな声。


「我々のしたことは、必ずしもお前のためになるとは限らないのかもしれない」


その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに変わる。


夫人が、そっと頷いた。


「ジャミーラ」


優しい声。


「あなたが独りでいたのなら——

わたくしたちは、最後まで反対していたことでしょう」


ジャミーラの指が、わずかに強張る。


「でも——

あなたには、共に考え、支え、止めてくれる人たちがいる」


その視線が、ゆっくりと巡る。


ライルへ。

ムスタファへ。

そしてアルテリスへ。


「それを見て——わたくしたちは、ようやく気づきました。


あなたは——もう独りではないのだと」


夫人はジャミーラに微笑みかけた。


ジャミーラの胸がそっと軽くなる。


「だから」


侯爵は深く息を吸い、決断を言葉にする。


視線を、まっすぐに娘へ。


「聖騎士見習いは、続けてよい」


侯爵の声は、父のものだった。


ジャミーラの瞳が、揺れる。


「だが——条件がある」


その一言は拒絶ではない。

むしろ——歩み寄るために差し出された言葉だった。


「何があっても、独りで抱え込むな。

困ったことがあったら、必ず誰かを頼りなさい」


夫人が静かに頷き、言葉を紡ぐ。


「それから——


あなたがどこで、何を思い、何を学んでいるのか。

それを、わたくしたちにも教えてちょうだい。


あなたからの便りを待っているわ」


しばらく、沈黙。


やがてジャミーラは立ち上がり、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


声は震えていたが、迷いはなかった。


「必ず、お約束いたします」


顔を上げ、真っ直ぐに両親を見る。


「わたくしは、独りではないことを。

そして、帰る場所があることを——

決して忘れません」


夫人の目に、涙が滲む。


侯爵は、静かに頷いた。


「それでいい」


一拍置いて、低く付け加える。


「——自分で選んだ道を、貫きなさい」


それは命令でも条件でもなく、ただの祈りだった。


その言葉に、ライルは深く一礼する。


ムスタファも、静かに頷いた。


——こうして。


“拒絶”は、“見守る覚悟”へと。

確かに、姿を変えた。


シャマル家の朝は、新しい選択と共に静かに動き出していた。


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