愛というもの
応接間の扉が、静かに閉じられた。
夕食の支度を理由に席を外したシャマル侯爵夫妻の足音は、廊下の奥へと遠ざかっていく。
残されたのは——
ジャミーラと、ムスタファ、アルテリス、ライルの四人だけだった。
先ほどまで張り詰めていた空気は、形を変え、重さを帯びて室内に沈殿している。
圧迫感は確かにある。
だが、息が詰まるほどではない。
まだ、言葉を紡ぐ余地が残されている沈黙だった。
その微妙な均衡を破ったのは、
ムスタファだった。
「……悪かったな」
唐突な一言に、ジャミーラが顔を上げる。
「押しかけてきたはいいが——
どうやら、俺では役不足のようだ」
「そんな——」
思わず声をあげかけたジャミーラの言葉を、
ムスタファは制するように、少し沈んだ声で重ねた。
「俺には、親の愛情というものが分からない」
その一言で、
室内の空気が僅かに張る。
「殿下……」
ライルが口を挟みかける。
だがムスタファは、静かに首を振った。
「誤解するな。
同情を買いたいわけではない」
淡々とした声。
だが、その裏にある距離感は、誰の目にも明らかだった。
「愛情をもつ親の気持ちが分からないから、
説得の言葉が見つからない、という話だ」
三人は何も言わない。
それは彼の言葉を受け止めようとする沈黙だった。
「役回りで考えるなら」
ムスタファは視線を上げ、
はっきりとライルを見た。
「今回は、寧ろライルが一番適任だろう」
「……俺、ですか?」
ライルは一瞬、目を瞬かせる。
ジャミーラはその横顔を見つめ、
アルテリスは——
ムスタファの意図を察し、ゆっくりと頷いた。
「今日ここに来た三人の中で、
お前だけが、両親から愛を受けて育った」
自嘲気味に、口元が歪む。
「正直に言う。
俺には、シャマル侯爵夫妻の言葉が理解できない。
“娘のため”だと言われても、素直に信じられない」
それは責めではない。
事実の告白だった。
「……殿下」
ジャミーラの声が、かすかに震える。
だがムスタファは、視線を逸らさない。
「だが、ライルであれば——
彼らの恐れも、迷いも、愛情も、
俺よりずっと近い距離で理解できるはずだ」
一拍置く。
「どうだ?」
ライルの喉が、わずかに鳴った。
(愛を受けて、か)
否定はできない。
両親は仲睦まじく、
家にはいつも温かな空気があった。
——ただ。
その二人は、よく家を空けた。
外交、視察、時には半ば旅行のような遠征。
広い屋敷で、灯りの少ない食卓に向かう夜も、少なくはなかった。
静まり返った食堂。
用意された料理。
向かいの席には、誰もいない。
(寂しい、と言えば)
きっと二人は、予定を変えただろう。
だが——
それを望んだわけではない。
ただ、
口にしなかっただけだ。
そして、いつの間にか。
その席には、
小さな弟や妹たちが増えていった。
不安げにこちらを見る視線。
無理に明るく振る舞う声。
——同じ思いを、させたくはなかった。
だから、あの子たちが笑っていられる時間だけは、
せめて自分が守ろうと決めた。
(家族愛について、偉そうに語れる立場じゃない)
だが。
殿下の境遇。
そして、孤児として生きてきたアルテリス。
二人を思えば——
自分が“理解できる側”であることは、
否定できなかった。
ライルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……適任かどうかは、分かりません」
少しだけ、苦い笑みを浮かべる。
「でも——
どうしてそこまで必死になるのかは、
想像できるつもりです」
そう言って——
ライルは、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「説得できるかは分かりません」
だが、はっきりと。
「それでも、出来る限りのことはいたします」
ムスタファは、しばらく黙っていた。
やがて、短く息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
「なら、この件」
ムスタファは視線をジャミーラへ移す。
「貴女が構わないなら、ライルに任せたい」
ライルは、迷いなく頷いた。
そして、
真っ直ぐにジャミーラを見る。
「わたくしは——」
ジャミーラが、ゆっくりと口を開く。
「両親の気持ちが、分からないわけではありません。
ランデュートの現状も、承知しております」
言葉を選びながら、続ける。
「だからこそ——
学園に入る前は、神聖術師への憧れも、神聖術のことも、ひた隠しにしてき参りました」
一瞬、唇を噛む。
「でも……わたくしは」
顔を上げ、はっきりと。
「少しでも可能性があるなら、学び続けたいのです。
周囲の視線を理由に、自分の夢を諦めたくはありません」
ムスタファは、静かに頷いた。
「それでいい」
立ち上がり、彼女の前に立つ。
「俺は、貴女を聖騎士見習いに推薦した人間だ。
このまま、何もせず帰るつもりはない」
一瞬、視線をライルへ向ける。
「もっとも——頼みの綱は、お前になるがな」
「誠心誠意、努めさせていただきます」
ライルは深く一礼した。
「……殿下、イルハン様」
ジャミーラも、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
ムスタファは、わずかに目を細めた。
アルテリスがひとり沈黙を貫く中。
——それでも。
この場に集まった想いは、確かに同じ方向を向き始めていた。




