夜の取り決め、仮面の歓迎
夜更けのイルハン家は、静まり返っていた。
昼間は使用人の足音や子供たちの談笑で満ちていた廊下も、
今は深い眠りに落ちたように音を失っている。
——屋敷全体が、呼吸を潜めているようだった。
応接間の奥にある小さな客間。
厚い石壁に囲まれた室内は、昼間の熱をわずかに残しながらも、夜の冷気が静かに入り込みはじめていた。
窓の外では、砂を含んだ風が庭木の葉をかすかに鳴らしている。
その音は規則性もなく、まるで落ち着かぬ胸の内をなぞるようだった。
卓上では、灯された蝋燭の光が影をゆらりと揺らしている。
揺れる影は三人の輪郭を歪ませ、静かな室内にわずかな不安定さを落としていた。
卓を囲むのは三人だけだった。
ムスタファ。
アルテリス。
そしてライル。
三人の前には、手を付けられていない茶器が並んでいた。
湯気はすでに細くなり、冷め始めている。
それでも誰一人、茶に口を付けようとはしなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、
最初に口を開いたのはムスタファだった。
「確認しておこう」
指を組み、淡々と言う。
「明朝、“婚約者”として——シャマル家を尋ねる」
「ええ。
書簡は先方に届いております」
ライルの言葉は低く、いつもの軽さが影を潜めていた。
「表向きは、盛大に歓迎されるでしょう」
「歓迎せざるを得ない、だろうな」
ムスタファが鼻で笑う。
短く、乾いた笑いだった。
「ええ」
ライルも苦笑する。
「シャマル家は、特に体面を重んじる家門ですからね」
非公式といえども、一国の王子であるムスタファの訪問を拒み、ぞんざいな扱いをするなど、あり得ない。
だが——
「問題はその先、ですね」
ライルの声が、更に低くなる。
「歓迎はされても、本音は隠される可能性が高い。
シャマル様ご本人に、すぐにお会いできない可能性もございます」
ムスタファは頷いた。
「体調不良。あるいは、令嬢としての身支度。
どれも、相手を遠ざけるには十分な口実だ」
蝋燭の炎が、小さく揺れる。
誰もが、その“可能性”を具体的な光景として思い描いていた。
「まずは当主と話す」
ムスタファの低い声。
「当主を刺激しすぎないよう注意が必要です」
ライルが静かに補足した。
卓の端に控えるように座りながらも、
その声には迷いがない。
「分かっている」
ムスタファは即答した。
「強く出るつもりはない。
だが、引く気もない」
沈黙。
その言葉の重みを、
三人とも理解していた。
蝋燭の火が、ぱちりと小さく音を立てた。
誰もそれ以上、言葉を重ねなかった。
⚜️⚜️⚜️
翌日。
シャマル侯爵邸は、
早朝から慌ただしかった。
侯爵令嬢の婚約者の来訪。
しかも、この国の王子殿下。
“非公式”という建前とは裏腹に、その重みは決して軽くない。
正門には赤い絨毯が敷かれ、
使用人たちが整然と並ぶ。
その一糸乱れぬ配置は、歓迎というよりも“準備された舞台”を思わせた。
誰一人として無駄な動きを見せず、視線の配り方ひとつにまで統制が行き届いている。
馬車が止まった。
先に降りたのはムスタファ。
続いて、ライル。
最後に、アルテリス。
その足が地に触れた瞬間、空気がわずかに引き締まる。
迎える側の緊張と、迎えられる側の威厳が、静かに拮抗した。
「ようこそお越しくださいました、ムスタファ王子殿下」
一歩前に歩み出たのは、
ジャミーラの父——シャマル侯爵家当主。
深々と頭を下げるその所作は、無駄なく洗練されている。
過不足のない礼。だが同時に、一切の隙も見せない“計算された礼節”でもあった。
ランデュート特有の漆黒の髪に、深紅の瞳。
年の頃は壮年に差し掛かっているが、
よく手入れされた髭と整えられた髪が、厳格さと威厳を強く印象づける。
ややふくよかな体格。
だがそれは弛緩ではなく、
長年この家を背負ってきた者の“揺るがぬ重み”を感じさせるものだった。
「この度は、
我が家へお運びいただき、誠に光栄に存じます」
「顔をお上げください」
低く、穏やかな声。
ムスタファは一歩も引かぬ立ち位置を保ちながらも、あくまで礼を崩さない。
アルテリスやライルに向けるそれとは異なる、“王子としての対外的な顔”。
「このように丁重なお迎えをいただき、感謝いたします」
声音は柔らかい。
だがその実、
相手の出方を測る余地を残した、極めて均整の取れた応対だった。
整然と並ぶ使用人たち。
行き届いた庭。
一分の隙もない出迎え。
——だが。
その場に、ジャミーラの姿はなかった。
用意された“完璧な迎え”の中で、ただ一つ欠けている存在。
その不在は、あまりにも自然に織り込まれており、逆に不自然さを際立たせていた。
ムスタファはわずかに視線を巡らせ、
何事もないように口を開く。
「ご令嬢は、いかがなさっていますか」
ほんの一瞬の間。
当主の瞳が、ごくわずかに細められる。
その沈黙は短いはずなのに、妙に長く感じられた。
「……ただいま、身支度を整えております」
淀みのない返答だった。
用意されていた言葉を、そのまま差し出したかのように。
ムスタファはそれ以上は追及せず、
小さく頷いた。
その判断の速さが、逆に“理解している”ことを示している。
「そうですか。急ぐ必要はありません」
一拍。
「本日は、ゆっくりお話を伺えればと思っております」
「ええ、もちろんでございます」
当主はにこやかに応じる。
その笑みは崩れない。だが、その奥に踏み込ませる気配もない。
「どうぞこちらへ」
静かに手が示される。
案内に従い、一行は屋敷の中へと足を踏み入れた。
磨き上げられた床。
配置された調度品。
無駄のない給仕の動き。
歩を進めるたびに、視線が注がれる。
だがそれは露骨なものではなく、あくまで“管理された視線”だった。
すべてが、“歓迎”を演出している。
だが——
その奥にあるものを、
誰もが感じ取っていた。
ここは客人を迎える場であると同時に、互いの出方を測る場でもある。
やがて応接間へと通される。
上座へと案内されるその動線すら、
あらかじめ用意されていたかのように淀みがない。
一歩たりとも迷いのない誘導が、この場の主導権がどちらにあるのかを静かに示していた。
静かな空間に、茶の香りが満ちていく。
その席で交わされる言葉が、
どこへ向かうのか。
——まだ、誰にも分からなかった。




