ひとときの別れ
出立の朝は、思いのほか静かだった。
長期休暇を控えた学園は、
昨日までの浮き足立った気配をかすかに残しながらも、
朝の回廊にはまだ人影が少ない。
石床を踏む自分の足音だけが、やけに耳に残る。
ジャミーラは外套の襟を整え、
小さく息を整えてから、生徒会室の扉を叩いた。
「失礼いたします」
「入れ」
短い返答。
扉を開けると、
執務机の向こうにムスタファ。
その背後、少し下がった位置に——
アルテリスとライルが控えている。
いつもと同じ光景。
けれど今日は、
それがほんの少しだけ、遠く感じられた。
「殿下」
ジャミーラは一礼する。
「出立のご挨拶に参りました」
「ああ」
ムスタファはペンを置き、顔を上げた。
その視線が、
わずかに——いつもより長く留まる。
「予定通り、本日出立いたします」
「わかった」
一拍。
「道中、気をつけて帰れ」
それだけ。
けれど、それ以上の言葉を求めるのも違うと、分かっていた。
ジャミーラは静かに頷く。
そのとき——
アルテリスが、ムスタファへ何かを耳打ちする。
ごく短い動き。
だが、ムスタファは一度視線を伏せ、
小さく息を整えるようにしてから、口を開いた。
「出立の時刻になったら——見送りに行こう」
思いがけない言葉だった。
ジャミーラは一瞬、言葉を失う。
胸の奥が、わずかに揺れる。
「……ありがとうございます」
抑えた声で、そう返した。
「では、時間まで寮で過ごしますので、
一度失礼させていただきます」
「ああ。——ライル」
呼ばれたライルが、一歩前に出る。
「シャマル様、寮までお送りいたします」
「ありがとうございます」
一礼して、踵を返す。
背後には、何も言わないまま佇むアルテリスの気配。
振り返ることは、しなかった。
そのまま、二人は生徒会室を後にした。
⚜️⚜️⚜️
朝の光が、回廊の床に淡く差し込んでいる。
歩調を揃えながら、
ジャミーラはふと隣を見た。
「イルハン様も、本日出立されるのですよね」
「はい。
シャマル様をお見送りした後、そのまま出立する予定です」
変わらない声音。
それが、かえって距離を感じさせた。
「そうですのね。
お支度は、もうお済みですか?」
「ええ。滞りなく」
「では、安心ですわね」
それきり、言葉が途切れる。
何かを言えば、
この静けさが崩れてしまう気がした。
「シャマル様」
ややあって、ライルが口を開く。
「休暇中は、どうかお身体にお気を付けて。
一足先に戻って、お帰りをお待ちしております」
同じ国へ戻る。
けれど、同じ場所へ帰るわけではない。
その違いを、あえて言葉にすることはなかった。
「ありがとうございます」
短い返答。
その中に、わずかな名残を込める。
やがて、寮の前に辿り着いた。
「では、ここで」
ライルは立ち止まり、丁寧に一礼する。
「お気をつけて」
「ええ」
扉を開ける前に、
ほんの一瞬だけ振り返る。
だが、ライルはすでに踵を返し、
次の役目へと向かっていた。
その背中を、ただ見送る。
⚜️⚜️⚜️
正門前には、すでに馬車が用意されていた。
出立の刻。
ムスタファ、アルテリス、ライル。
三人が並び、ジャミーラを待っている。
その光景を目にした瞬間——
胸の奥が、静かに締め付けられた。
「お待たせいたしました」
「いや」
ムスタファは短く返す。
ジャミーラは一歩進み、三人へ向き直る。
ほんの一呼吸。
「行ってまいります」
「気をつけて行け」
短い言葉。
アルテリスは深く頭を下げ、
ライルは静かに微笑んだ。
それだけだった。
それ以上は、何も交わされない。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
合図とともに、車輪が回り始める。
窓越しに見える三人の姿が、
ゆっくりと遠ざかっていく。
——振り返らなかった。
前を向いたまま、
ジャミーラは静かに息を整える。
一度、学園を離れる。
けれど、それは終わりではない。
胸の奥に残るものを抱えたまま、
馬車は門を抜け——
新しい時間へと、走り出していった。




