出発
夜明け前の学園は薄い霧に覆われ、
まだ色を持たない世界のように静まり返っていた。
寮の前に出たジャミーラの前に、
金色の髪を持つ、ひときわ整った立ち姿の人影が小さく一礼する。
「——おはようございます、シャマル様」
アルテリスだった。
驚いて目を瞬かせる。
「アルテリスさん……!わざわざ迎えに?」
「道中もまだ薄暗いですし、殿下からシャマル様の警護を仰せつかっておりますので」
変わらず丁寧で穏やかな声音。
過剰なほど誠実で、だからこそ胸の奥の緊張がひとつ溶ける。
「……ありがとう。心強いわ」
アルテリスは軽く頷き、隣に歩調を合わせた。
二人は霧を踏むように学院の石畳を進み、
やがて聖騎士団支部の裏門へたどり着く。
⚜️⚜️⚜️
裏門には、聖騎士団の紋章を刻んだ荷馬車が一台停まっていた。
その周囲には数騎の騎馬。
第三部隊の聖騎士たちが武具の点検をしながら静かに談話していた。
白い息を吐く馬の鼻面が、朝の光を受けて微かに煌めく。
その光景が、任務の重みを一層際立たせていた。
「おはようございます」
ジャミーラが声を上げると、
重い靴音とともに厳つい影が振り向いた。
「アルテリスと……君がオリヴィエの推薦できた子だな」
第三部隊隊長ピエール・デュシャン。
長身で鍛えられた体躯に鎧と外套をまとい、
鋭い眼差しの奥に経験の深さを思わせる静かな光が宿っていた。
アルテリスが深く頭を下げる。
「デュシャン隊長。本日はよろしくお願い申し上げます」
「ジャミーラ・シャマルと申します。よろしくお願いいたします」
ジャミーラが続いて礼をすると、デュシャンは短く頷いた。
「第三部隊隊長、ピエール・デュシャンだ。
君達の今回の任務は補給と支援が主だが——」
一拍置き、鋭い眼差しがわずかに細まる。
「瘴気の残滓も一部で確認されている。
崩れかけた建物には、近づきすぎるな」
「承知いたしました」
「道中は二時間ほどだ。揺れるが我慢してくれ」
そう告げてから、デュシャンは背後に控えていた軍馬の手綱を取った。
軽く鐙に足を掛けると、慣れた動作で鞍へと跨る。
第三部隊員たちもそれぞれ持ち場につき、
数騎の騎馬が荷馬車の周囲へ散っていった。
アルテリスと目を合わせ、ジャミーラは小さく息をつく。
「……いよいよ、ですわね」
「はい。参りましょう」
二人は荷馬車に乗り込んだ。
⚜️⚜️⚜️
荷馬車がごとごとと揺れ動き始める。
木製の車輪が土を踏む低い音が、規則正しく響いた。
幌の隙間から差し込む朝の柔らかな光が、
荷馬車の内部を淡く照らす。
しばらくは、揺れと音だけが続く。
やがてジャミーラが幌の隙間から外に目を向けて、小さく息を吐いた。
「……外に出るのは、本当に久しぶりだわ」
アルテリスが少し驚いたように首を傾げる。
「シャマル様は、あまり外出をされなかったのですね」
「ええ。学園に来る前も……ほとんど。
だから、見慣れない景色ばかりで……なんだか不思議な気分だわ」
その声音には、ほんのわずかな影。
アルテリスは静かに彼女を見つめた。
「では——馬車に乗っている間は、
景色をご覧になっていてください」
「そんな……呑気なことを言っていられる状況では……」
ジャミーラは眉を寄せかけたが、
アルテリスは静かな調子で続ける。
「張り詰めたままでいると、いざという時に疲れてしまいます」
「……」
「村までは少しあります。今のうちに、少し肩の力を抜いておかれてください」
「……それも、そうね」
ようやくジャミーラの頬がわずかに緩んだ。
幌の隙間の向こうには、朝光を浴びて白む草原が広がっていた。
遠く青く重なる山並みが、ゆっくりと流れていった。
だが——
荷馬車が進むにつれて、その景色は少しずつ変わっていく。
草原は途切れ、やがて背の低い木々が増え始める。
人の手の入らない荒れた土地が広がり、道は次第に細くなっていった。
やがて——
荷馬車は森の中へと入っていく。
頭上を覆う枝葉が光を遮り、周囲が一気に薄暗くなった。
鳥の声が、ふっと途切れる。
代わりに、枝葉の擦れる音だけが耳に残る。
「……空気が、重いわね」
思わず呟くと、アルテリスが静かに頷く。
「おそらく瘴気の影響でしょう。
この辺りから、村の被害圏に入ります」
その言葉に、胸の奥がわずかに冷たくなる。
森の奥へ進むほどに、空気はじわじわと沈んでいく。
息を吸うたび、どこか引っかかるような違和感。
見えない何かが、確かにこの場に満ちていた
⚜️⚜️⚜️
それからしばらくして——
がたん、と大きく荷馬車が揺れた。
「止まれ!」
御者の声が鋭く響く。
聖騎士たちの動きが一瞬で変わった。
鎧の擦れる音。
剣が抜かれる気配。
次の瞬間——
低い唸り声が林の奥から響いた。
黒い影が、飛び出す。
四足の獣。
だが普通の獣ではない。
毛並みは煤のように黒く、
身体の輪郭が揺らぐように、薄い瘴気をまとっている。
その目が、赤く濁っていた。
「あれは——」
言葉が喉で止まる。
見たことがない。
それでも本能が理解してしまう。
——危険なものだ。
「見習いは顔を出すな!」
外から聖騎士の声が飛ぶ。
ジャミーラは反射的に隙間から離れた。
胸の鼓動が速くなる。
「あれは、瘴気獣です」
アルテリスが静かに言った。
「瘴気獣……」
瘴気に当てられ凶暴化した獣。
その名は知識として知っていた。
だが、実際に目にするのは初めてだった。
獣は低く唸りながら、
まるで獲物を探すように地面を嗅ぎ回っている。
その身体から漂う瘴気は、
空気そのものを濁らせているようだった。
思わず、指先が震えた。
「ご安心ください、シャマル様」
柔らかな声音。
「見習いの私達は戦闘を許可されておりませんが、
団員の方々は皆、腕の立つ方ばかりです。
お任せしていれば大丈夫ですよ」
アルテリスの声は落ち着いていた。
「小さい群れだ。片付けるぞ」
デュシャンの低い声。
聖騎士たちが一斉に馬から飛び降りる。
次の瞬間——
獣が跳びかかった。
鋭い剣閃が朝霧を裂いた。
⚜️⚜️⚜️
荷馬車が再び動き出したのは、
戦闘の余韻がまだわずかに残る頃だった。
外では聖騎士たちが何事もなかったかのように持ち場へ戻っていく。
だが——空気だけが違っていた。
先ほどよりも、さらに重い。
まとわりつくような圧迫感が、肌に残っている。
ジャミーラは無意識に胸元へ手を添えた。
(……さっきより、ひどい……)
戦闘の名残なのか、
それともこの先がさらに深いのか。
理由は分からない。
ただ、確実に“奥へ進んでいる”感覚だけがあった。
馬車の揺れに身を任せながらも、心が落ち着かない。
やがて——
周囲の様子が、わずかに変わり始めた。
密集していた木々が、少しずつ間隔を空ける。
絡み合っていた枝葉の隙間から、淡い光が差し込むようになった。
閉ざされていた空が、わずかに開けていく。
(……もうすぐ、森を抜ける)
そう感じた、次の瞬間。
ふっと視界が開けた。
森を抜けたのだ。
同時に——
あれほどまとわりついていた空気が、わずかに緩む。
思わず、小さく息を吸い込んだ。
完全に澄んでいるわけではない。
それでも、森の中とは明らかに違う。
重く沈むような気配が、確かに薄れている。
(……浄化が、進んでいるのね)
その先に広がっていたのは——
半ば倒れかけた家屋。
黒く焼けた壁。
応急処置のように組まれた梁。
人の営みが、無理やり繋ぎ止められている光景。
「……ここが、魔物に襲われた村……なのね」
胸の奥が、ひやりと冷える。
焼け焦げた木の匂い。
そして、乾いた血のような鉄の匂い。
それらが、微かに空気に残っていた。
(……浄化は、されている)
そう分かる。
それでも——
完全には消えない“何か”が、ここにはある。
——あの夜と、同じ。
脳裏に蘇るのは、幼い日の記憶。
響き続ける悲鳴。
崩れ落ちる影。
迫る、赤い瞳。
視界が、ふっと白く霞んだ。
「……っ」
胸元を押さえ、小さく息を整える。
(わたくしは、あの頃のままではない……)
ゆっくりと、息を吸う。
(——今は、立ち向かえる)
その時。
「シャマル様……」
静かな声が、すぐ傍で響いた。
顔を上げると、アルテリスがこちらを見ている。
ただ、それだけ。
それだけなのに——
不思議と、胸の奥が支えられる。
「……ありがとう。大丈夫よ」
小さく微笑み、前を向く。
ちょうどその時、荷馬車が止まった。
先に降りていたデュシャンが、こちらを振り返る。
「これから避難所となっている教会へ向かう」
短く、的確な指示。
「物資を届け、全ての避難民に配布する。迅速に動け」
「はい」
「承知いたしました」
荷馬車を降りると、村人たちの視線が自然と集まった。
疲れた顔。
かすれた声。
それでも——
聖騎士団の紋章を見ると、彼らは静かに頭を下げる。
その仕草に、胸の奥がわずかに痛んだ。
朝の光が、ようやく村を照らし始めている。
その中を、ジャミーラたちは歩き出した。
避難所となった教会へ向かって。




