さざめきの裏で
翌朝の教室には、柔らかな陽光が差し込み、
ざわめきが穏やかに満ちていた。
——その中心にいながら。
ジャミーラだけが、少し遠い場所に立っているような感覚を覚えていた。
席に座り、静かに指を組む。
目の前の机は昨日と同じ。
けれど胸の奥は、一晩経ってもなお揺れている。
(……たった一日なのに……ずいぶん遠くへ行っていたようだわ)
ジゼルの背中。
痛みに耐える少年の横顔。
救いたくても、届かない光。
胸の奥に残る鈍い重み。
(わたくしも——もっと強くならなければ)
窓に映る自分の赤い瞳を、ひとつ瞬く。
その時だった。
「ねえ、聞きまして?」
前方から、ひそやかな声が漂う。
「シャマル様、正式に聖騎士見習いですって」
「まあ……どうしてあの方が?」
「ランデュートの方でしょう?」
声が、わずかに低くなる。
「前々から生徒会にも出入りしていらしたとか」
「正式な一員でもないのに?」
小さな笑い。
「婚約者という立場は、便利ですわね」
「聖騎士見習いも、殿下のお口添えでしょう?」
「……取り入るのがお上手なのかしら」
悪意は、決して大きな声にならない。
だからこそ、耳に残る。
ジャミーラの睫毛が、かすかに震えた。
——本来なら、この程度の噂話は珍しくもない。
ランデュートの民として、
囁かれ、羨まれ、疑われることには慣れてきた。
(いつものことよ……)
そう言い聞かせる。
けれど——
なぜか、今日は聞き流す気になれなかった。
その指先が、わずかに強く組まれる。
胸の奥に、
あの少年の苦しげな呼吸がよみがえった。
椅子がきしむ気配もなく、すっと立ち上がる。
靴音を抑え、彼女たちの机の前へ。
影が落ちた瞬間、囁きは止まった。
顔を上げた先に——赤い瞳。
「お話の途中、失礼いたしますわ」
穏やかな声。
教室の空気が、すっと張り詰める。
「な、なんですの?」
「わたくしの名が聞こえましたので、少しだけご一緒してもよろしいかしら?」
ジャミーラは柔らかく微笑んだ。
どこまでも上品で、どこまでも容赦がない笑み。
その瞳だけが、氷のように冷たい。
「生徒会に“出入りしている”ことが、ご不快でしたのね」
女生徒たちの顔がこわばる。
「生徒会室の利用は、殿下の正式な許可をいただいております。
それは個人的な厚意ではなく、公務の一環としての許可ですわ」
淡々と続ける。
「そして——聖騎士見習いの任命は、
聖騎士団と学園の連名による正式な決定。
王子殿下お一人の裁量で左右できるものではございません」
静かに理を積み上げる。
「にもかかわらず“お口添え”と評されるのであれば——」
わずかに、視線が細められる。
「公的な決定を、私情による不正と疑っている、
と受け取ってもよろしいでしょうか」
「ち、違いますわ!」
「そう。でしたら安心いたしました」
わずかな間。
それから、静かに告げる。
「わたくしは、ランデュート王国シャマル侯爵家の娘。
そして——第二王子ムスタファ殿下の婚約者にございます」
声はあくまで穏やか。
「その立場を軽んじることが、
どなたの御名に影を落とすか——
ご想像はおつきになりますでしょうか」
一瞬の沈黙。
「この学園は、各国の貴族子弟が学ぶ場。
発せられたお言葉は、思いがけぬ形で社交界へと流れてゆくもの」
やわらかな笑み。
「それが波紋を呼び、
ご実家の御名に触れることも、ございましょう」
女生徒の顔が蒼白になる。
「……申し訳、ございません……」
深く頭を下げる。
ジャミーラは数秒見つめ、やがて小さく頷いた。
「学園での振る舞いは、家の名そのもの。
心にお留めくださいませ」
そして、ほんのわずか声音を柔らげる。
「わたくしの立場に疑問がおありでしたら、どうぞ正面から。
陰で囁かれるより、ずっと誠実ですわ」
優雅に一礼。
「失礼いたします」
席へ戻る。
——今度は、誰も視線を向けなかった。
⚜️⚜️⚜️
「……あああああああぁ……!」
生徒会の自習室に、ジャミーラの押し殺した悲鳴が響いた。
分厚い資料の山の前で、ジャミーラは机に突っ伏し、肩を震わせている。
(やってしまいましたわ……
平穏な学園生活を望んでおりましたのに……!?)
そのすぐ横で——
一連の顛末を聞き終えたアルテリスが、本から目を離し、肩を震わせた。
「シャマル様らしいですね」
「らしくないわよ!
もう……消えてしまいたい気分だわ……!」
ジャミーラは顔を両手で覆い、机にぐりぐり押しつけて悶絶する。
その時、扉がノックされた。
ジャミーラは反射的に跳ね起き、姿勢を正す。
凛とした足音とともに入ってきたのはムスタファ。
その後ろにはライルが続く。
整えられたムスタファの制服とは対照的に、
ライルは外套を肩から落とすように羽織り、
襟元もわずかに緩めた気楽な装いだった。
「待たせたな」
その後ろから、軽やかな声が続く。
「こんにちは、シャマル様」
「ご、ごきげんよう。
ムスタファ殿下、イルハン様……」
耳まで赤く染めたジャミーラを見て、ムスタファは静かに眉を寄せた。
「……何かあったのか?」
「い、いえ……その……」
(申し上げたくありませんわ。
でも殿下に隠し事は……)
ジャミーラが言い出せずにいると——
「実は——」
「だめ!!!」
ジャミーラはアルテリスの声を力強く遮った。
アルテリスはぱちぱちと瞬きをし、柔らかな笑みを浮かべる。
「折角の武勇伝ですのに……」
「武勇伝ではございませんわ!
お忘れくださいませ!」
そんな二人を眺め、ムスタファはわずかに息をついた。
「アル。……からかうのはやめて差し上げろ」
その声音は柔らかく、驚く程穏やかだった。
「副団長が貴女のことを心配していたが、問題はなさそうだな」
「オリヴィエ副団長……が?」
「ああ。昨日、任務に同行したそうだな」
「はい。修道院へ同行させていただきました」
「修道院とは、神聖術の治療か?」
「ええ。瘴気に当てられて発熱した方、心を蝕まれた方……
それから、リフルマの方の治療も見学させていただきました」
——その瞬間。
ムスタファの表情が、わずかに硬くなる。
空気が、ひやりと沈んだ。
「初めてでそこまで見学させるとは、珍しいな」
ライルが控えめに言葉を添える。
「オリヴィエ副団長が、シャマル様を信頼されている証拠でしょう。
心に触れる場面もあったかもしれませんが、
有意義な経験だったはずです」
「ええ。とても勉強になりましたわ」
ムスタファは小さく頷き、声を落とす。
「巡回には慣れたか?」
「ええ。お陰様で」
ムスタファは頷く。
「であれば、今後は少しずつ他の者とも組んで慣れておくといい。
——今日の巡回はライルと組んでもらう。
問題はないか?」
「はい、ございません。
イルハン様、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ライルはジャミーラに一礼し、ムスタファの方を向く。
「では、殿下」
「ああ。頼んだぞ」
「御意」
ライルが軽く会釈。
「お先に失礼させていただきますわ」
ジャミーラが後に続く。
「お気を付けて」
ムスタファとアルテリスに見送られ、二人は部屋を後にした。
扉が閉まる。
——室内の空気が一変し、張りつめた沈黙が落ちた。
ムスタファは低く呟く。
「……副団長は、気づいていると思うか」
アルテリスは本を閉じ、静かに頷いた。
「オリヴィエ副団長は、優秀な聖歌騎士であらせられます。
お気づきでも、不思議はございません」
「だとしたら、手の込んだ真似をしてくれたものだな」
「純粋なご配慮であれば良いのですが」
ムスタファの声音が、より深く沈む。
「他者の心の内は計り知れないものだ。
彼女について、調べてみるか?」
アルテリスはそっと首を振った。
「ご婚約者の件とは、状況が異なります。
無闇に動かない方がよろしいでしょう」
「そうだな」
アルテリスはムスタファへ向き直り、静かに微笑んだ。
「私はこれ以上、殿下の枷になりたくありません」
ムスタファは目を細めた。
「……アル。
俺は、お前を枷だと思ったことは、一度も無いぞ」
その言葉は低く、揺るがない。
アルテリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「ありがとう存じます」
静かな微笑み。
その笑みは穏やかで——
どこまでも従順だった。




