癒せぬ痛み
白く静かな廊下の奥へ向かうほど、
空気はわずかに重く、張りつめていく。
石床に落ちる足音さえ、
この奥では吸い込まれるように小さくなっていった。
先を歩くジゼルの背には、
いつもの柔らかさではなく——“覚悟”の気配が漂っている。
扉の前で、ジゼルは小さく息を整えた。
そして——扉が開いた瞬間。
ふるり、と空気が震えた。
微弱な“マナの揺らぎ”が波紋のように広がり、
ジャミーラの胸の奥を微かに押す。
反射的に息を呑んだ。
部屋の中央のベッドには、幼い少年。
苦しげに胸を押さえ、
浅い呼吸を繰り返している。
肌の血色は悪く、脈も弱い。
少年の周囲では、空気そのものがわずかに歪んでいるように感じられた。
ただそこにいるだけで、
周囲のマナが微かに乱れている。
「この方は……?」
問いかけに、ジゼルは落とした声で答えた。
「——“リフルマ”の患者よ」
その響きには痛みがあった。
「リフルマ……?申し訳ございません、存じ上げなくて……」
「大丈夫よ。学園ではまだ扱わないから」
ジゼルは少年に目を向けたまま、説明を始めた。
「リフルマはね——
“自分のマナが、自分自身を攻撃してしまう病”なの」
ジャミーラは息を詰める。
「自分の……マナが?」
「ええ。本来マナは持ち主の意思に従うはずだけれど、心が深く傷ついたり、マナを酷使したり生まれつき調和が弱かったりすると——
マナが持ち主を“敵”だと誤認してしまうことがあるの」
「そのような病が……。
治癒は、神聖術で可能なのですか?」
ジゼルの表情にわずかな陰が差す。
「原因によるわ。
神聖術で“鎮める”ことはできる。けれど——」
言葉はそこで途切れた。
ジゼルはゆっくりと少年に歩み寄り、
その手をそっと包み込む。
「《アウロラの御名において——
乱れしマナを収め、
彼の者に、安らぎの時を与えよ》」
金色の光が少年の胸へ吸い込まれていく。
固く結ばれていた眉が、わずかにほどけた。
浅く乱れていた呼吸も、ほんの少しだけ落ち着いていく。
けれど——
ジャミーラの視界の奥で、何かがかすかに揺らいだ。
少年の胸元。
神聖術の光に包まれているにもかかわらず、
そこにはまだ微かな“燻り”が残っている。
淡い光の下で、
黒い影のようなマナが、わずかに蠢いていた。
乱れたマナが、完全には消えていない。
まるで——
押さえ込まれた火の下で、
小さな火種だけがまだくすぶっているかのように。
ジャミーラは息を呑む。
少年の指先は、まだ布を握りしめたままだった。
眠りに落ちかけながらも、
胸の奥で何かから逃げるように、かすかに震えている。
閉じられたまぶたの奥で、
まだ悪夢が続いているかのようだった。
金色の光が収束し、
ジゼルはそっと少年の額へ触れる。
ほんのわずかに息を吐くと、
静かに立ち上がり、部屋を出た。
扉が閉まったところで、ジャミーラはそっと問う。
「オリヴィエ副団長、彼は……」
「今の私では、完全に治癒できないの」
ジャミーラは息を呑む。
「彼の心には、深い傷がある。
その原因を取り除かない限り、マナはまた彼を攻撃してしまう。
今できるのは、一時的に暴走を鎮めることだけなのよ」
「彼はどうして、心を壊してしまったのでしょうか」
ジゼルは遠いものを見るように語った。
「彼はね……周囲から虐げられ、両親も亡くしたの。
理由は、“リフルマの子だから”」
ジャミーラの胸が強く揺れる。
「彼は、生まれつきマナの回路が乱れていて、リフルマを発症していた。
本来なら、回路を整えてあげれば治るはずの症状だったのに……」
ジゼルの声が沈んでいく。
「リフルマは“咎人の病”とも呼ばれているの。
神々から授かったマナが攻撃をするなんて、
“見放された証だ”と考える者もいるのよ」
(そんな……)
「周囲の偏見に追い詰められて、
彼の両親は無理心中を計ってしまった。
たまたま通りかかった修道女がそれを見つけて、彼だけが助けられたそうよ」
ジャミーラは震える手で口元を押さえる。
「他者の言葉は、時に病よりも深く誰かを傷つける。
その傷こそが、彼のマナとの調和を更に壊してしまっているの」
ジゼルはそっとジャミーラを見つめた。
「神聖術は魔を鎮め、痛みを癒す術。
だけど“心そのものを変えること”はできないわ」
「……」
「彼が“ここに居ていい”と思えるようになるには、時間が必要。
もしかしたら、一生向き合うことになるかもしれない。
それでも、寄り添い続けるしかないの」
そして、少しだけ苦しげに微笑む。
「……時々思うの。
何が“この子にとっての救い”なのか……
分からなくなる時があるわ」
ジャミーラははっと顔を上げる。
ジゼルは続けた。
「治せない病もある。
寄り添うしかできない痛みもある。
そんな現実の前に立つとね、
“自分が何をしているのか”
分からなくなりそうになるの」
ジゼルは胸の前で手を組み、静かに言った。
「……シャマルさん。
救いたいと願う人ほど、
追い詰められやすいの。
その果てに——
道を踏み外してしまう者もいるわ。
そのことを、どうか忘れないでね」
ジャミーラは胸に手を当て、
深く頷いた。




