新しい朝
空が、ようやく白み始めた頃。
夜と朝の境目にある学園は、
まだ息を潜めているようだった。
裏庭に差し込む光は淡く、
石畳には、夜露が薄く残っている。
その中央で、
アルテリスは黙々と洗濯物を干していた。
動きは丁寧だが、
今日はどこか、ぎこちない。
腕を伸ばすたび、
ふらりと重心が揺れるのを、
自分でも自覚していた。
「……今日は、ずいぶん早いわね」
背後から、聞き慣れた声。
振り返ると、
洗濯場を任されている年配の女性が立っていた。
籠を抱え、アルテリスの顔を一目見るなり、
眉をひそめる。
「……顔色、悪いわよ」
「問題ございません」
即答だった。
だが、女性は納得しない。
「そうは見えないわ。
元々白いけど、今日は一段と青白いし」
一歩近づき、
干しかけの布へと手を伸ばす。
「私がやっておくわよ」
アルテリスは、反射的に首を振った。
「いいえ。
これは、私の仕事ですので」
その言葉に、
女性は小さく息を吐いた。
「……“私の仕事”、ねえ」
物干し台と、
アルテリスの細い肩を、ゆっくり見比べる。
「本来ね、これは生徒の仕事じゃないのよ」
穏やかな声。
だが、逃がさない調子。
「存じております」
「それに——
倒れられる方が、よっぽど困るんだから」
「それは……」
アルテリスは、言葉を失う。
女性は、わずかに声を強めた。
「だから、今日くらいは——
私たちに任せておきなさい」
一瞬、
アルテリスの指先が止まる。
拒否の言葉が、
喉元までせり上がる。
だが、視界が一瞬揺れ、
自分の体調を誤魔化しきれていないことを、
否応なく突きつけられた。
「……承知、いたしました。
よろしくお願いいたします」
渋々と、間を置いて、
アルテリスは洗濯物を差し出す。
女性はそれを受け取り、
ようやく頷いた。
「そうしなさい」
アルテリスは一礼し、
一歩、物干し台から下がった。
朝の光の中で、
干されるはずだった布だけが、
風に揺れている。
自分の手を離れたその光景を、
アルテリスは、
ほんの少し居心地悪そうに見つめていた。
⚜️⚜️⚜️
鐘が鳴るには、まだ少し早い時刻。
女子寮にも、すでに目覚めている者がいた。
足音を抑え、回廊を静かに降りていく人影
——ジャミーラだ。
艶やかな漆黒の長髪が背に流れ、深紅の瞳は夜明けの静寂の中で静かに光を宿していた。
夜の名残を含んだ冷たい空気を感じながら、
彼女は迷いなく、聖堂へと向かっていた。
庭園の中心に立つ大聖堂は、
白い石の壁に淡い朝光を受け、
静かにその輪郭を浮かび上がらせている。
重い扉を押し開けると、更にひんやりとした空気が肌を撫でる。
内部は静まり返り、天井の隙間から落ちる光が白黒の石床を優しく照らしていた。
ジャミーラは一歩、また一歩と歩み寄る。
響く足音が、まるで聖堂そのものに吸い込まれていくようだった。
女神アウロラの石像の前で膝をつき、胸の前で手を組む。
石像の穏やかな眼差しは、それだけで心のざわつきを鎮めてくれる。
瞳を閉じると、昨夜の景色が静かに浮かんだ。
——闇に呑まれかけたハウゼン。
——自分を庇いながら戦うアルテリスの背中。
——喉が震える程の恐怖。それでも祈りを捧げた瞬間。
ジャミーラは静かに息を整え、小さく祈り始める。
「……女神アウロラ様」
その声は静かで、もう震えていなかった。
「どうか、ハウゼン様が再び闇に囚われることなく、自らの力で前へ進めますように。
心の痛みを——どうか癒して差し上げてください」
一呼吸置き、祈りを続ける。
「そして……悩みを抱える全ての者に——
光の導きと安らぎをお与えください」
朝の光が、返礼のように石像を照らす。
ジャミーラが静かに立ち上がったその時——
聖堂の扉が軋む音がした。
振り返れば、柔らかい朝光の中に人影が姿を現す。
近づいてきた影の輪郭が鮮明になり、ジャミーラは小さく息を呑んだ。
金糸の髪が朝光に透け、琥珀色の瞳が温かく微笑む。
アルテリスだった。
彼は静かに一礼する。
「おはようございます、シャマル様」
「おはようございます。
アルテリスさんも……お祈りに?」
それに、アルテリスは少しだけ肩を竦め、柔らかく微笑む。
「お恥ずかしながら、気づけば足が向いておりました」
「では……今朝こうしてお会いできたのは、
女神様のお導きね」
ジャミーラの言葉に、アルテリスも静かに笑う。
「そうかもしれませんね」
だがその声音には、どこか微かな疲労の影があった。
アルテリスはふと視線を落とし、告げる。
「ハウゼン様の一件は、
聖騎士団の命により、公には“過労による意識消失”として処理されたようです。
いつもご一緒に居るご学友方には、そのようにお伝えしております。
既にお見舞いにも来られたようです」
「そう……なのね。ご学友がそばにいるなら、私達にできるのは、祈ることくらいね」
ジャミーラはふと、遠慮がちな仕草で、アルテリスの顔色を伺う。
「アルテリスさん……昨夜、ほとんど眠っていないのではなくて?
私が寮に戻った後も、後処理があったのでしょう」
アルテリスの睫が一瞬だけ揺れた。
しかし次の瞬間には、すぐに柔らかな微笑が戻っていた。
「ご心配痛み入ります。
ですが、問題ございません。
シャマル様こそ、お疲れではございませんか?」
「わたくしは……そうね。まだ気持ちが落ち着かなくて」
言葉を濁した彼女を、アルテリスは静かな眼差しで受け止める。
「昨夜のような出来事の後では、無理もございません。
本日の当番はムスタファ殿下のご配慮で、
他の生徒会員が引き受けてくださることになりました。
シャマル様も、どうかゆっくりお休みください」
「……そうなのね。では、お互いに今日は休息をいただきましょう」
聖堂の高窓から差す光が、二人の足元に淡い影を落とす。
アルテリスは姿勢を正し、深く一礼した。
「それでは——私はこれで失礼いたします。
どうか、良い一日をお過ごしくださいませ」
「ええ。アルテリスさんも……穏やかな一日を」
アルテリスは静かに歩み去る。
聖堂の扉が閉まる直前、ジャミーラはその美しい横顔をそっと見送った。
その背中はどこまでも穏やかで——
けれど、ほんの一瞬だけ影を落としたように見えた。
一人残された聖堂で、ジャミーラは胸の前でそっと手を組む。
(今日一日が……どうか、皆にとって穏やかでありますように)
朝光は変わらず優しく、女神の石像の足元に淡い光の輪を描いていた。




