憎悪の行きつく先
ほとんどの生徒が寮に戻った後の学園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む夕陽が廊下を赤く染め、
伸びた影が床をなぞる。
ジャミーラは教室の扉を静かに開けた。
蝶番がかすかに軋む。
机の上に置き忘れた本は、夕陽の中にぽつりと取り残されていた。
(よかった……やっぱりここに忘れていたのね)
本を胸に抱え、踵を返す。
その時——
ふと、空気の流れが変わった。
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
窓の外。
何かの“気配”が、確かにこちらへ近づいている。
黒く。
重く。
粘つくような——。
(……この気配……まさか)
脳裏に、忌まわしい夜の断片が蘇る。
焼け落ちる梁の音。
焦げた匂い。
崩れ落ちる家。
胸がきゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
ジャミーラは唇を噛み、意を決して教室の外へ踏み出した。
⚜️⚜️⚜️
校舎裏へ回った瞬間、世界が変わった。
そこだけ、夜が早く訪れている。
空気は重く淀み、まるで水の中に沈んだように呼吸が苦しい。
土と石の匂いに混じり、鼻を刺す焦げたような臭気が漂っている。
(……これは、瘴気……)
しかも、ただの瘴気ではない。
肌を針で刺すような冷気。
耳鳴りのような低い振動。
地面の奥で何かが蠢く、嫌な気配。
闇が、呼吸している。
その中心に、人影が立っている。
いや——“人の形をした何か”。
夕陽の残光に照らされ、異様な輪郭が浮かび上がる。
爛れた皮膚。
黒く膨張した腕。
不自然に隆起した筋。
「……どなた、ですの?」
声をかけた瞬間、影がゆらりと動いた。
真紅に光る瞳が、ぎらりとジャミーラを射抜く。
「あなたは——」
声は、思ったよりも小さかった。
影がゆらりと揺れる。
次の瞬間——
真紅の瞳が、ぎらりと光った。
その光は、夕陽の赤とは違う。
もっと濃く、濁り、底の見えない血の色。
だが、その姿は確かに見覚えがある——
「あなたは——」
近づくにつれ、かつての面影が浮かび上がる。
整えられていたはずの茶の髪は、瘴気に濡れたように黒ずみ、
穏やかな光を宿していた茶色の瞳は、血を流し込んだかのように赤く染まっている。
だが、その輪郭、その声——
「ハウゼン様……?」
入学式典でアルテリスの隣に立っていた青年。
ハムザ・ハウゼン。
呼びかけに、彼の肩がぴくりと跳ねる。
しかしその瞳には、もはや理性の灯はない。
赤い光が、獣のように揺れている。
「……ジャミーラ・シャマル。
お前も……“あいつ”の味方か」
その声は二重に響いた。
彼のものと、もうひとつ——低く濁った響きが重なる。
「え……?」
「孤児の特待生……あいつの何がいい!
お前らはいつも……上辺だけだ。
俺の努力も、俺の苦しみも、誰も見やしない!」
叫びと共に、瘴気が爆ぜる。
黒い靄が腕へ巻きつき、肉が軋む音がする。
皮膚が裂け、指が異様な角度に伸びていく。
空気が震え、砂利がかたかたと鳴る。
「……おやめください、ハウゼン様!
それ以上は——!」
一歩踏み出した瞬間、圧力が襲った。
胸を押し潰すような重み。
肺が空気を拒む。
次の瞬間——黒い衝撃が爆ぜた。
砂利が舞い、地面が抉れる。
「止める?なぜだ!
俺はようやく“力”を得たんだ……ッ!」
瘴気が脈打つたび、地面が軋み、空気が震える。
その腕は、もはや人間のものではなかった。
「誰も俺を認めなかった……!
両親も、兄も、教師も!
だが今は違う——俺は選ばれたんだ!」
「ハウゼン様、それは……悪——!」
言葉は最後まで届かなかった。
衝撃。
ジャミーラの体が宙に浮き、地面へ叩きつけられる。
「くっ……!」
背中に走る痛み。
視界が揺れ、空が歪む。
再び瘴気がうねる。
黒い波が押し寄せ、喉を締めつける。
冷たい闇が肺へ入り込むような錯覚。
そして——
焼け崩れた屋根。
割れる窓。
家族の叫び。
——あの夜。
瘴気はその記憶を抉り、心の奥へ爪を立てる。
(いや……!)
神聖術を使おうとするが、喉が震えて、詠唱できない。
呼吸が浅くなり、視界が赤く滲む。
「ケケ……ケケケケッ……」
ハウゼンの喉から、歪んだ笑いが漏れる。
瘴気が渦を巻き、空間を黒く塗りつぶしていく。
ジャミーラの意識が闇に沈みかけた、その時——
「《火の精霊よ。
この場に満ちる瘴気を、祓いたまえ》」
澄んだ声が、夜気を貫く。
次の瞬間、赤と橙の閃光が奔り、
瘴気だけを正確に焼き尽くす炎の柱が、立ち上った。
「——ご無事ですか、シャマル様」
穏やかで、けれど揺るぎない声。
その響きに、ジャミーラの瞳が大きく見開かれる。
月光を背に、ひとりの少年が立っている。
ふわりとした金の髪が、月光を受けて淡く輝く。
その髪は夜の闇を拒むように柔らかく揺れ、
琥珀色の瞳が、静かに敵を見据えていた。
(アルテリスさん)
名を呼ぼうとするが、震えて声が出ない。
「シャマル様、一旦お下がりください」
瘴気が再び空間を満たしても、
アルテリスは一歩も退かない。
ジャミーラを庇い、前に立つ。
その背中を見つめる瞬間、
恐怖に囚われていたジャミーラの心が
ほんの僅かに——ほどけていった。




