夕映えの進言
夕暮れ。
生徒会室には沈みゆく陽の赤が満ち、机上に積まれた書類の影が、細く、長く伸びていた。
ムスタファは最後の報告書に署名を終えると、静かにペンを置いた。
深く息を吐けば、指先に残るインクの匂いが、今日一日の重さを物語る。
その漆黒の髪の一房の編み込みが、沈黙の中でわずかに揺れた。
「お疲れ様でございます。
お茶をお淹れいたしましょうか」
控えめな声が、沈黙を崩す。
アルテリスだった。
金色の髪が光を受けてふわりと揺れ、澄んだ琥珀色の瞳がそっと主の様子を伺う。
机を整えながらも、わずかに肩を丸めるような仕草で緊張を滲ませていた。
「いや、茶はいい。少し休んだら、寮に戻ろう」
疲労を隠さぬ声音。
それでも、その奥にある張り詰めた気配は、なお解けてはいなかった。
アルテリスは、書類の束へと目を走らせる。
「……本日だけでも、生徒間の争いがかなり増えておりますね」
「瘴気の影響だろう。増え方が、あまりにも急だ」
ムスタファはこめかみに指を当てた。
瘴気——悪魔がもたらす負の気。
人の心に巣食い、些細な不安を疑念へ、疑念を争いへと変えていく。
結界石が破壊されて以来、その影響を受ける者は急増していた。
小さな口論は容易く暴力へと変わり、そのたびに、生徒会と聖騎士団の名を持つ彼らが、裏で火消しに走っている。
「学園内の団員だけでは……限界がございますね」
「……支部長の意向も、理解はしている。
だが、これは無茶な命令だ」
事を公にせず、秘密裏に対処せよという指示。
団服を着た団員は学園に入れず、動けるのは学園と聖騎士団、両方に籍を持つ者のみ。
——火種だらけの学園を、わずかな人数で抑え込めというのだ。
短い沈黙が落ちる。
やがて、アルテリスが口を開いた。
「……殿下。ひとつ、お願いがございます」
ムスタファは目を閉じたまま、その声に耳を傾ける。
「なんだ」
「一度、ジャミーラ・シャマル様の神聖術を、ご覧いただけないでしょうか」
ムスタファは深紅の瞳を開いた。
眉間に、深い皺が刻まれる。
「……何故だ」
「その上で、もし適任とお認めいただけましたら——
シャマル様を、聖騎士団の“見習い”として推薦していただきたいのです」
生徒会室に、わずかな沈黙が落ちる。
その間に、ムスタファはアルテリスの意図を悟っていた。
「……なるほど。
確かに、彼女が戦力となれば助かる。
神聖術を扱える者が増えることは、今の状況では歓迎すべきことだ」
視線を、再び書類へと落とす。
「お前は、彼女の神聖術を見たことがあるのか」
「はい。入学式典の日に、拝見いたしました」
アルテリスは、慎重に言葉を選びながら続ける。
「シャマル様の神聖術は、独学とは思えぬほど、洗練されております。
何より——シャマル様は、学びを怠らず、他者に手を差し伸べることを躊躇なさらない。
神聖術師の資質が、おありかと存じます」
ムスタファは小さく笑った。
皮肉めいたその笑みの奥に、かすかな安堵が滲む。
「お前は、彼女を買い被りすぎだ」
「買い被りかどうかは——
実際にご覧いただければ、お分かりいただけるかと」
揺らぎのない声音。
真っ直ぐすぎるほどの誠実さに、ムスタファはしばし目を閉じる。
そして、静かに息を吐いた。
「……分かった。
彼女の実力を確認しよう。
放課後に訓練場を押さえておけ」
「承知いたしました」
アルテリスは深く一礼する。
髪の先が軽く揺れ、光を受けて金色の線が一瞬光った。
「それと——オリヴィエ副団長にも、声をかけておけ」
「よろしいのですか」
思わず顔を上げたアルテリスの琥珀の瞳が、わずかに見開かれる。
「お前の判断は信頼している。
悠長に構えている状況でもない。
事は、一度に運んだ方がいい」
「……ありがとう存じます。承知いたしました」
深く頭を下げるその横顔に、安堵と、かすかな希望が灯る。
ムスタファはその姿を見つめながら、胸の奥に渦巻く複雑な思いを、静かに押し殺した。
窓の外では、赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく。
やがて訪れる夜の気配が、生徒会室を、音もなく満たしていった。




