5.陽だまりの匂い
「どうぞ」
扉を開けて、促すように示す。
「……ほんとうに、いいの?」
「殿下であれば、問題はないかと」
王太子妃として、他の男を連れ込むなら咎められてしかるべきだが、ヴィルヘルムは間違いなく夫本人である。
「質素な部屋だな」
ヴィルヘルムは借りてきた猫のようにちんまりと座って、辺りを見回すように顔を巡らせる。
「そうでしょうか」
「女の部屋ってもっとこう、なんかごちゃごちゃしてるもんだと思ってた」
きょろきょろと切れ長の目だけが動いている。
アンジェリカは下に三人の母親の違う妹がいたが、皆ドレスや装飾品の類を競うようにして欲しがっていた。
ただ、自分はそういう気持ちにはならなかった。物は少ないが、一人で過ごすのならこれで過不足はない。
殺風景な部屋に、面影が蘇る。記憶の中の母は、いつも寂しそうな目をしていた。
アンジェリカを膝に乗せて、居室の扉を見つめている。
『ずっと、だれをまってるの?』
アンジェリカが訊ねると、母は静かに言った。やわらかな母の手が頭を撫でてくれる。
『お父様よ』
ブロムステットでは、王は三人まで妃を持つことができる。
一番目の妃は、由緒正しい家柄の娘だった。伯爵令嬢だった母は、己の若さと美貌を盾に見事第一王妃から王の寵愛を手に入れた。
そうして生まれたのが、アンジェリカである。
けれど、待っている間その扉が開くことはなかった。
人の心は移りゆくものだ。奪ったものは、奪い返される。王はまたより若い娘を第三王妃に迎えた。そして、母は広い王宮で独りぼっちになった。
悲しいとも切ないとも、漏らしたことはない。母もそれなりに分かっていたのだとは思う。
『おとうさまがきてくれないから、おかあさまはさみしいの?』
『そうね』
ただ会いたい人に会えないのは、寂しいのだなと思った。
それなら、会いたくなくなればいいのに。そんな風にずっと思っていた。
「……手に入れたと思っていたものを手放すのは、覚悟がいるので」
「へ?」
ふと口をついてしまった言葉に、ヴィルヘルムは目を瞬いた。
「失礼いたしました。殿下が来られるなら、これからは整えておきます」
どうせヴィルヘルムがこの部屋に来ることなどないと思っていたから、部屋を飾ることをしていなかっただけだ。
「あ、いや。そういうわけじゃなくてさ」
恥ずかしそうに頬を掻いて、また目を逸らす。宰相達の前ではあんなにも悠然としていたのに、ヴィルヘルムはどこか所在なげだ。
他の場所ならともかくここには今、アンジェリカしかいないのに。
「ごゆるりとされて構いませんよ」
そう言って、アンジェリカもカウチの隣に座った。特段深い意味があるわけではない。ただ他に座れるような場所もなかったし。
「いや、でも、あんたの部屋だしさ」
後ずさるように、ヴィルヘルムが距離を取る。拳一個分ぐらいの空間が二人の間に満ちる。
さて、これが本物の夫なら夜伽の一つでも命じられるところなのかもしれない。
けれど、相手は十六歳である。
元の彼ともそんなことをしたことはないし、そもそも自分はそういう魅力に欠けているのかもしれないが。
窓から差し込んだ月明かりが、端整な顔を半分だけ拾う。
少年のようなあどけなさが、大人のヴィルヘルムの相貌に宿っている。その様が何とも言えないほどに歪で惹きつけられてしまう。
この不安定さを、彼はずっと身の内に宿している。
そうだ。何も待っているだけでは、ないのだろうか。
わたしも彼も、今ここにいる。手を伸ばせば触れることができる。
「妻の部屋に夫がいても、何の問題もないかと」
空けられた分の距離を詰めて、骨ばったその手に触れた。ぴくり、とその手が震える。そのままその手をぎゅっと握った。
その手は確かに、あたたかな血の通った人の手だった。
「殿下はよく頑張っておられると、思います」
何が求められているかは分からないけれど、伝えなければと思ったから。
灰青色の目が見開かれて真ん丸になる。薄い膜が張ったようにその目が潤んでいって、淡い光の中でさざ波のように揺れる。
零れると思ったら、ぐっと何かに引き寄せられた。
それは、思いの外強い力だった。男の腕の中で、体が強張るのが分かる。目をやれば、床に落ちた自分とヴィルヘルムの影が一つに重なっていた。
しがみつくようにヴィルヘルムの腕が回される。すると、ふわりと香る陽の光と駆け抜けていく風の匂いに包まれた。
「アン」
こんな風に、誰かに愛称のようなもので呼ばれたことなんてなかった。そして、男の人に抱きしめられたことも、なかった。だから、すぐに返事ができなかった。
いつもヴィルヘルムが纏っていたあの凛とした硬質な香りはしない。こちらの彼は香水など付けないだろうから、当然か。
けれど、陽だまりのようなあたたかい匂いがする。きっと作られたものではない、彼自身の匂い。それにひどく惹かれてしまう。
「でんか」
かろうじて、その言葉だけが喉からついて出て。
「オレのことは、これからヴィルって呼んで」
こつん、と肩の上に頭が置かれる。首筋に触れる吐息が熱い。
「昔母さんが、そう呼んでくれてたんだ」
彼にとっては、アンジェリカも母に近いようなものなのかもしれない。なにせ自分はおばさんだ。けれど、そんな大切な愛称を呼んでいいとは、思えなかった。
ただ代わりに、広い背に腕を回して抱き締め返した。
宥めるようにその髪に触れる。鮮やかなシルバーブロンドはさらりとした手触りで、手のひらを流れていく。
すすり泣きの声が宵闇に吸い込まれていく。広い背は、時折震える。
自分に弟はいない。
けれど、いたらこんな感じだったのだろうかとそんなことをずっと考えていた。
そのままヴィルヘルムが眠りに落ちるまで、美しいシルバーブロンドをただアンジェリカは撫でていた。




