4. 一人になりたい
時々、無性に一人になりたい時がある。
けれど、王太子妃にそんな時はない。侍女が付き従い、着替えも入浴でさえも人の手が介される身だ。常に誰かの視線がアンジェリカに注がれている。それがどうしても息苦しくなってしまうことがあるのだ。
そんな時、アンジェリカはこっそりと寝台を抜け出す。要所要所に配置されている夜警の目だけ盗めればいい。夜着の上にやわらかなガウンを羽織って、月明かりの中へ繰り出した。
半分より少し満ちた月が、夜空にぽっかりと浮かんでいる。
行く当てがあるわけではなかった。どこに行くともなしに、気の向くままに足を動かす。誰も見ていないことをいいことに、大きく伸びをして深呼吸をする。
しん、と澄んだ夜の空気が心地よかった。
「何してんの」
頭の上から男の声が降ってきた。
「へっ」
見上げれば、中庭の木の枝の上にヴィルヘルムが座っている。あんな高いところ、どうやって登ったのだろう。
「殿下こそ、どうしてここに」
「いや、月がきれいだったからさ」
長い足をぷらぷらと揺らしながらヴィルヘルムは天を指差した。
「あ、あぶないですよ」
「大丈夫だよ。ここならよく見えるし。なんなら、あんたも来る?」
慌ててアンジェリカは首を横に振る。いつも着ているドレスからすれば随分と軽装だが、木になんか登ったことはない。登れるとも思えなかった。
あんな高いところからなら、きっとここから見るよりももっときれいに月が見えるのだろうけど。
「早く、降りてきてください!」
叫ぶようにそう言ったら、唇の前で人差し指を立てて「そんな大きな声出したら見つかるよ」とたしなめられた。
「それは、そうですけど……」
それでも、王太子の身に何かあったら大変だ。ただこういう時に、他になんと言えばいいのか分からなかった。
視線を落とせば、
「分かったよ、今降りるから。それでいいだろ」
言うがいなや、軽やかにヴィルヘルムは枝から飛び降りた。
ふわりと、シルバーブロンドが舞うように浮かび上がった。とん、と地面に足が着いたかと思えば、一呼吸遅れてそれが落ちる。まるで猫のようにしなやかだった。
「なあ、身長何センチ?」
そのまま、また顔を覗き込まれた。しげしげと灰青色の目が頭の先から爪先まで滑っていく。
「百五十五センチ、ですけど」
アンジェリカはとりわけ背が高いということもないが、低いということもない。この国でも平均的な身長だと思う。
「そっかあ。じゃあ、オレよりちょっと小さいくらいか」
「え」
ヴィルヘルムは確か百八十センチ近くあったはずだ。現に今も、見上げる程の長身だ。 アンジェリカの怪訝そうな顔を見て気づいたのだろう。
ヴィルヘルムは、
「ああ、オレずっと、百六十ぐらいだったんだよ」
そこではじめて、十二年という歳月を思い知った。十六歳のヴィルヘルムは、それぐらいの身長だったのだ。
「多分この後伸びるんだよな。チビなの嫌だったからそれはそれで嬉しいんだけどさ」
アンジェリカにとっての当たり前の毎日は、彼にとっては十二年後の未来なのだ。そのことを、やっと実感できた気がした。
「にしても大変だよな」
「はい?」
「こんな時間に夜警の確認もしなきゃいけないんだろ」
どうやらヴィルヘルムはアンジェリカが、警備の確認に来たのだと思い込んでいるらしい。散々彼の立ち振る舞いについて口を出した手前、ただフラフラしていたとは言い難い。
「え、ええ」
嘘だとも本当だともアンジェリカは言えなかった。
「なあ、あんたの部屋って、ここからどっち?」
基本的には妃と王太子の寝室は別だ。それはブロムステットでも同じだった。同室でともに過ごすほど仲がいい夫婦など、アンジェリカは今まで聞いたことがない。
「送ってくよ」
「はい?」
「だってあんたもこんな夜中に一人じゃ危ないだろ」
そのまま、アンジェリカの手を取ったかと思うとヴィルヘルムは歩き始める。包み込まれるように、手を握られた。
「ちっさい手だな」
この手に触れたことが、まるでないわけではない。ただそれはもっと微かな触れ合いだった。差し出された手に、アンジェリカはそっと手を重ねて、それだけだった。
大きな手がきちんと力の加減をしてくれていると感じる。
「こちらです」
長い足をぎこちなく動かして、ヴィルヘルムはゆっくりと歩いてくれる。子供のようだけれど、ヴィルヘルムはちゃんとアンジェリカのことを考えてくれている。
本来送ってもらうほどの距離ではない。アンジェリカの部屋の前には、すぐに着いた。 その手を離さなければと思った時、ヴィルヘルムがすっと顔を背けた。
「あの、さ」
空いている方の手で、銀色の髪を掻き上げる。言いあぐねたように、その目が揺れる。
「ここに、いていい?」
王太子のお召しがある時は先触れがあって、連れられるがままにアンジェリカがヴィルヘルムの部屋を訪れる、ということになっている。
だから、ヴィルヘルムは今までアンジェリカの部屋に入ったことはない。
なんて応えようかと悩んでいたら、
「あ、その、勘違いすんなよ! その、そういう意味じゃなくて」
取り消すように大仰に顔の前で手を振って、ヴィルヘルムは言った。ぱっとその手のぬくもりが離れて、途端にアンジェリカの手は宙ぶらりんになる。
「ただ、眠れなくて、さ」
零れるようにぽつりと呟いた声が掠れていた。
「目が覚めたら、オレ、またどうなってるんだろうって、思って」
気が付いたら、自分は突然二十八歳だと言われて。
たった一人、十二年後の世界に放り出されて、誰も彼も、妻だと言われた女でさえも好き放題に言う。
そんな世界でこのヴィルヘルムは、どれだけ不安だったのだろう。
叱るばかりでアンジェリカはそのことを何も考えられてはいなかった。
体の無事を喜ぶのと同じぐらい、彼の心を案じなければいけなかったのに。




