2.生まれた意味
真っ白な紙を前にして、唸る。
けれど、素晴らしい文面が天から降ってくるというようなこともない。
王侯貴族の手紙の代筆を請け負う商売もあるとは聞いたことがあるが、これだけは自分で書かないといけないということは、さすがのヴィルヘルムにも理解ができた。
どんなことを書けばいいだろう。
例えば、そう。アンジェリカの好きなところ、というのはどうだろう。
つり目がちな紫色の瞳が好きだ。
あのふわふわとした茶色の髪も好きだ。
それに、抱き寄せるとひどく甘いいい匂いがする。なんならずっと引っ付いていたいぐらいだ。
「だめだ、気持ち悪いにもほどがある」
紙の上に溢れ出た己の変態性にヴィルヘルムは辟易せざるを得なかった。くしゃりと丸めて何も見ずに後ろへと投げ捨てる。
次の紙を広げて、また考える。
『笑っているあんたが好きだった。
怒っているあんたが好きだった。
なんでもいい、その目がオレに向けられているのがたまらなく嬉しかった。
だからずっとばかをやって、あんたに叱られていたかった』
それだけ書いてしまったら、ぽたりと水滴が文字の上に落ちた。
「あ」
ヴィルヘルムは手紙を書きながら泣いていた。
「くそ、かっこ悪ぃ」
咄嗟に顔を覆って上を向いた。それでも、流れてくる涙は止まらない。
本当は記憶をなくしてしまうのが、心の底から恐ろしかった。
どうしてこんなことになったのかも分からない。夢幻のように消えてしまうのなら、自分が生まれた意味は一体何だったのだろうと。
手の隙間から己が書いてしまった文が覗く。読み返してしまって、はっとした。
なんてことはない。
自分はずっと、年上の妻の気を引きたくて仕方なかったのだ。だから「おばさん」と呼び掛けてみたり、ふざけてみたりもした。
そして、それを理解して己の幼さにさらに絶望した。それは、まさしく十六歳の子供に、ほかならなかったから。
どう考えてもあの美しい妻の隣に立つに相応しい男の姿では、なかった。
「あーーーもう自分がいやになる」
ヴィルヘルムはたまらず椅子から降りて、床に寝っ転がった。妻にも侍従にも間違いなく叱られる振る舞いだが、まあ今は一人なのでいいだろう。
床には無数の書き損じの便せんが散らばっている。広げてみたが、どれもこれも紙くず同然でばかみたいなことしか書いていなかった。
本当に手紙を残すとしたら、アンジェリカはその後、これを何度も読み返すことになるはずだ。
例えば、覚えていてくれと言えば、アンジェリカは死ぬまで自分を覚えていてくれるだろう。
けれど、たとえ忘れてくれと書いても、彼女は自分を忘れられないだろう。
ヴィルヘルムが愛しているのはそういう、アンジェリカだった。
どちらにしても彼女を苦しめることはあれ、救うことはない。
どんなことを書いても笑って読んでくれる妻を想像することはできなかった。だとすれば、残るものなんて何もない方がいい。
いなくなる方は、さっさと消えてしまう方がいいに決まっている。
「背が高くて落ち着いてて、ちゃんとリードできる大人の男になりたかったな……」
それはそのまま、アンジェリカと一緒に年を重ねたいという、ヴィルヘルムの願いだったけれど。
呟いてしまってから、また、はたと気が付いた。
もう一度、天井に向かって手を伸ばす。やはりこの手は、記憶の中よりずっと大きい。
なにせ、この身は二十八歳である。まごうことなき立派な大人だ。
そして一応、ヴィルヘルムは「冷静沈着で頭脳明晰な完璧な王太子」ということになっているのだ。半分は理想を手に入れている。話は早い。
なんとかすべきは妻ではない。オレの方だ。
ヴィルヘルムは、見えない何かを掴み取るようにぐっと手を握りしめた。
白い結婚について、向こうにも言い分はあるのだろう。けれど、それはヴィルヘルムの側の事情であって、アンジェリカを蔑ろにしていい理由にはなりはしない。
そして、真の意味でどうして己が若返ったのかが、分かった気がした。
全てはもう一度、まっさらな自分でアンジェリカと巡り合うため。
そうやって、また彼女と出会うためだけに今の自分はいたのだ。
それさえ分かればもう、何も恐ろしくはなかった。先の見えない世界にぱっと光が差した気さえした。
「よし」
急に力が湧いてきた気がして、もう一度椅子に座りなおす。ぱちん、と両手で頬を叩いて、幼稚な文が書かれたところだけを破り捨てる。
半分に千切られた便せんと向き合った。
考えろ、考えるんだ。
これはヴィルヘルムだけが果たすことのできる責任だ。二十八歳のヴィルヘルムが本当に今の自分の延長線上にいるとするならば、何を言われれば最も嫌なのか。
自分のことは自分が、一番分かっているはずだ。
考えて、考えて、やっと納得できるものが仕上がった。
『悔しかったらオレに勝ってみろ』
間違いない。これだ。紙に残っていた涙で文字が滲んだのはご愛敬ということで。
「見るからに腹立つもんな、うん」
記憶が残らないのなら、彼はこれの意味するところを推察するしかない。大人の自分は必死に想像するだろう。いやでも、してしまう。
自分はどんな風に己の妻と話したのか、触れたのか。
そして、妻はそれをどこまで受け入れ、許したのか。
そうして実感すればいいのだ。大人の自分がどれほど恵まれているのか。
どれほど大切なものを手にしているのか。
それはそのまま、今のヴィルヘルムが抱いている嫉妬と同じだ。鏡に映った自分自身。同じものに苛まれればいい。
オレが得られなかった全てを、そうやって思い知ればいいのだ。
けれど、自分が残すのはこのちっぽけな後悔も未練でもない。
まぎれもない、この恋心ひとつだ。
ああ、神様。
いやこの際、悪魔でも、それとも呪いをかけた意地悪な魔女でも、なんでもいい。
どうか、ひとつだけ。
この想いだけを、この体に残してください。
それさえかなうのなら、今のオレはいなくなって、構わないから。
そうやって、未来の自分に賭けるしかない。
どうか幸せでいて。
どうか笑顔でいて。
そして、時々。本当に時々でいいから、オレのことを思い出して。
書けなかった手紙の内容を呟いて、ヴィルヘルムは静かに笑みをこぼす。もう一度こぼれそうになった涙を一つ息を吐いて留めた。
これから先、アンジェリカが思い出す己の姿は最高に格好よくあって欲しかった。二十八歳の自分に負けないくらいに。
どうせ虚像なのだ。めいっぱい虚勢を張って何が悪い。
「待っててね、アン」
今からヴィルヘルムは成長して、ちゃんとアンジェリカを愛するのだ。消えてしまうものなど、恐れることなど何もない。
自分はただ大人になって、存分に妻を愛する。ただそれだけなのだから。
オレちゃんと、あんたに会いに行くから。
言えなかったこと全部言うからさ。
それまでもう少しだけ、オレのことを待っていて。
十六歳の憂鬱。
ということで、これにて全て完結です!
そういえば、十六歳ヴィルヘルムの視点では何を考えていたのか書かなかったなとふと思い。
覚悟ガン決まりの彼も思うところが色々あったんだ、というようなことを少し掘り下げてみたくて書きました。
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番外編までお読みいただき、ありがとうございました。
また次のお話でお会いできれば嬉しいです。




