23.おいで
「本当にこれでよかったのでしょうか?」
アンジェリカが訊ねると、ヴィルヘルムは立てた膝の上から顔を上げた。解かれたシルバーブロンドがはらりと流れる。
「不安なのか」
アンジェリカとヴィルヘルムは、ブロムステットの使者を退けるために一芝居打った。けれど、父王があの程度でおめおめ引き下がるとは思えなかった。
何か理屈を捏ねてきたらどうしよう。その時、この人に迷惑をかけるような結果になったら。
そう思って俯いたら、頭の上に大きな手が下りてきた。なんの変哲もない茶色の髪が、長い指に丁寧に梳かれていく。
「あれでだめなら、私が直接ブロムステットに出向く。だから、安心するといい」
「出向いて、どうなさるのですか?」
「それはまあ、魔力で牽制したり必要なら恐喝したり……色々な」
まるで明日の天気の話でもするような、なんてことない口ぶりだった。それはそれで、なんというか余計に心配になる。仮にも王と王太子だから、殴り合うことはないだろうけど。
「それに多分、君が思っているより事態は悪くはない。君の父上は君をただ心配しているだけだろうから」
続くヴィルヘルムの言葉にアンジェリカは目を瞠った。
心配? あの父がそんな? あり得ない。
きっとその気持ちそのままの顔をしてしまったのだろう。ヴィルヘルムは一度眉を下げてふわりと微笑んだ。
そうすると、硬質な美貌がひどくやわらかなものに変わる。十六歳の彼の奔放な笑みともまた違った何か。
「他国に嫁いだ娘を心配するのは当然のことだろう。別におかしなことではない」
「大して美しくも賢くもない娘なんて、気にかけたことなんてないくせに」
恨み言は息を吸うように口をついて出てくる。
父は、母を愛さなかった。大切にしなかった。
だから、そんな女の生んだ子なんてどうでもいいだろうに。
「お父上が真に何を考えているかは、私にも分からないことだが」
長い指は今度はむくれた頬をつつくようにしている。
「君は自分の頭で考えることができる美しい人だよ。そんな風に言うんじゃない」
アンジェリカの勘違いでなければ、弾むようなその手が、どこか嬉しそうに見えた。
「何が嬉しいのですか」
振り返れば、そこにあるのは変わらぬ端正な顔立ちだけである。けれど。微妙に表情の変化はあるのだ。アンジェリカはやっと、それが少しずつ分かるようになってきた。
「ああいや、君と普通に話ができるのが嬉しくてな」
そんな風に直截に返されたら、なんて言っていいのか分からなくなる。慌てて寝台に手をつくと、ヴィルヘルムの左手と重なった。
「はっ」
慌てて手を引っ込めようとしたら、きゅっとその手を握られた。灰青の目が真剣な色を帯びている。
「何もそんなに嫌がることはないだろう」
「別にいやがってる、わけじゃ」
そう、いやなわけではない。
互いにあったわだかまりのようなものは、緩やかに溶け落ちた。けれど、ふとした時に浮かび上がってくる気恥ずかしさだけは、まだ消化しきれていない。
手なんか何度も繋いでいる。というかもっと、それ以上のことだってしたのに。
どこかぎこちなく手だけが触れ合ったまま、見つめ合った。
「もっとゆったりと過ごしてくれていい」
「いや、でも」
ここはヴィルヘルムの居室だ。なんとなく所在なげで、アンジェリカは寝台の上でちんまりと正座をしていた。
「夫の部屋に妻がいても何の不思議もないだろう」
そう言われれば、確かにそうである。こんなやり取りを、前にもした気がした。
「はい」
アンジェリカは足を崩して寝台に座り直す。
さてこういう時、どうしていたんだろう。例えば十六歳のヴィルヘルムとは、と考えたところで、彼はこういう気まずさを少しも気にかけない人だったことに思い至った。
アンジェリカが呆然としていても、それを軽やかに飛び越えていつの間にかこの膝の上に寝転んでいたのである。
ああ、そうだ。この手があった。
「あの、膝貸しましょうか?」
これなら、きっとヴィルヘルムも喜んでくれるだろう。そう思って、自分の膝をとん、と叩いて示した。
けれど、夫は露骨に顔を顰めてしまう。ただ灰青の目は、じっと食い入るようにアンジェリカの膝へと向けられている。
「いや、ですか?」
今度は自分が訊ねる番だった。そもそも彼がどうしてあそこまで膝枕なるものに夢中になっていたのか、アンジェリカには分からないのだけれど。
「返さなくていいですよ?」
「違う。そうではなくてだな……」
ヴィルヘルムが首を横に降れば、光の粉でも散りばめたようにシルバーブロンドが輝く。
ゆったりとした夜着に着替えた夫を包む空気は、普段より幾分か砕けたものだ。下ろした髪はあどけなく、見えなくもない。
「大体、君に甘えすぎなんだ」
膝に頬杖をついて顔を背けたかと思えば、拗ねたようにそんなことを言う。まるで他人事みたいに。
「やれ眠れないだの、膝を貸せだの。やることが幼いんだ。子供じゃあるまいし」
「十六歳なら十分に子供だと思いますけど」
「それに、俺はもう十六じゃない」
「わたしは、甘えてもらえて嬉しかったですよ」
そう、アンジェリカは嬉しかったのだ。自分を真っ直ぐに慕ってくれる彼が、どうしようもなく愛おしかった。だから、今のヴィルヘルムに甘えてもらっても構わないのだけれど。
「えっと、殿下」
無意識にそう呼んでしまったら、顰められた顔がますます険しくなる。もっともそんな顔をしていてもその美しさは損なわれることはなくてむしろ研ぎ澄まされるような気さえするのだけれど。
「寝台の上でまで“殿下”はやめてくれ」
じゃあなんて呼べばいいのだろう。
「だんな、様?」
「それは、なかなかに魅力的だが」
この顔を見る限り、少し違うらしい。だったらやはり、
「ヴィル……?」
「なんというか、あれだな」
それだけ呟いて、ヴィルヘルムはぱたんと寝台の上に横になった。彼と手を繋いでいるアンジェリカも、自然と引っ張られて共に横になるようになる。
「そもそも、惚れた女に母親に呼ばれていた呼び名で呼ばせようとしたのが、俺はどうかしている」
「大事な呼び名なんですもの。別に構わないと思いますけど」
「全然良くはない。マザコンもいいところだ。俺は君に、母親を求めているわけじゃないんだ」
受け入れるように、ヴィルヘルムが両手を広げてみせる。
「俺も、君に甘えられたい」
わたしと同じことを、この人も思うのか。
「あとできれば、十二も年下の自分に負けたばかりでは、いたくない」
無心にその胸に飛び込むことを許されるほど、わたしももう幼くはないのだろうけど。
「おいで、アン」
続く言葉に、体が勝手に動いてしまった。見れば自分の小さな頭はヴィルヘルムの腕を枕にしたかと思うと、肩辺りに当然というような顔をして収まっている。
「俺をどう呼ぶかは、君が自分で何か考えてくれ」
「わたしが考えて、よいのですか?」
にやりと笑って、男は満足げにぎゅっとアンジェリカを抱きしめる。
「他に誰がいるんだ」
あたたかなその体温に包まれれば、懐かしささえ感じる陽だまりの匂いがする。それが彼が好んで纏う落ち着いた木々の香りとやわらかに混ざり合って、ひどく胸がときめいてしまう。
「どうせずっと一緒にいるんだ。ゆっくり考えるといい」
当たり前のようにヴィルヘルムが語ってくれる未来が嬉しい。
広い背に手を回して、確かな胸板に額を預けた。そのまま深く息を吸う。
「そうですね」
アンジェリカはうっとりと目を閉じて、惹かれてやまないヴィルヘルムの香りに存分に浸った。




