22.見せつけ
――私は一体、何を見せられているんだ?
ブロムステットの使者は、心の中でそう呟いた。本当は、その言葉が口から出てきてしまいそうなほどだった。
目の前には、ファーレンホルストが王太子ヴィルヘルムとその妃アンジェリカがいる。それ自体は何もおかしくはない。
アンジェリカがヴィルヘルムの膝の上に乗せられている、ということを除いては。
さすがに羞恥が全くないということはないのだろう。アンジェリカの白い頬は薔薇色に染まっていた。けれど、その手はしっかりとヴィルヘルムの首に回されている。
対して、ヴィルヘルムは強く引き寄せるようにアンジェリカの腰を抱いている。涼やかな顔は湖面のように凪いでいて、何を考えているのか読み取れなかった。
その様は、先に使者が王宮を訪れた時とは随分と異なっている。あの時、アンジェリカはただ控えるようにして夫の後ろに立っているだけだったはずだ。
「さて、先日の件だが」
ヴィルヘルムはその姿勢のまま、ゆっくりと口を開いた。どんな言葉が続くのか、使者は内心慄く思いだった。
「貴国の申し入れは承服しかねる」
ぴくりと、アンジェリカが肩を震わせる。
「理由はただ一つ。私は、我が妃を愛しているからだ」
王太子の低い声には、何とも言えない響きがある。人を従わせることに長けた、支配者の側の声だ。それは妙な説得力を込めて、この広い大広間に響く。
だからといって、これはなんだ。
アンジェリカとヴィルヘルムはただの政略結婚だったはずだ。国と国との結びつきに、婚姻は一番手っ取り早い。そこに必要なのは利権と政の駆け引きであって、愛だの恋だのではない。ないはずだ。
「聞こえなかったのか」
切れ長の目は突き刺さるような鋭さで、使者たる自分に向けられる。背筋を冷や汗が伝っていくのが分かる。なまじ容貌が整っているだけあって、それは彫像がごとく人間味がなかった。
「しかし」
「貴国の根拠は、私とアンジェリカが“白い結婚”であるということだったな?」
口を開いた使者を一刀両断するように、ヴィルヘルムは言った。
その通りである。
この国に忍び込ませブロムステットの間者は、ヴィルヘルムとアンジェリカが真に夫婦でないという話を掴んでいた。
「けれど、それをどうやって知り得た? まさか閨を覗き見たということもあるまいし」
情報源を明かすことはできない。けれど、この二人は確かに冷え切った仲だったはずだ。
「もう一度言う」
ヴィルヘルムは静かにそう言って、アンジェリカの頬に手を当てた。紫色と灰青の瞳の視線は交わり、熱く見つめ合った。
「私は、アンジェリカを愛している」
言うが早いか、王太子は迷いなく妃の唇に己のそれを重ねた。
「なっ!」
使者は息を呑んだ。漏れ出た声は自分のものだったのか、それとも控える他の者達のものだったのか、分からない。
誰が冷え切ったなどと言った?
人前で恥ずかし気もなく口づけを交わす夫婦の、何が冷え切っているというのか。
そう思う間もまだ、二人の姿は重なったままだった。ヴィルヘルムの大きな手は押し付けるようにアンジェリカの後頭部に添えられている。
やがて焦れたように、アンジェリカがヴィルヘルムの胸をとんとんと叩いた。
一瞬だけ、ヴィルヘルムは形のいい眉を寄せる。けれど、そっと長い口づけを終えた。
「こういうことだ。貴殿に覗きの趣味があるのだというのなら、このまま我らの閨をご覧にいれようか?」
いい加減にしてほしい。今でも十分見せつけられているのに、これ以上などたまったものではない。
「恐れながら」
膝を突いたまま、使者は顔を上げる。しかし自分とて、ブロムステットを背負ってこの場にいるのである。「はいそうですか」と帰ることができるような、子供の使いではない。
「私の言葉を伝えていただけないのならば、こちらにも考えがある」
ヴィルヘルムは右の人差し指をくるりと回した。
ひゅん、と風の音がする。使者の耳の後ろで風が逆巻くのを感じる。
「できれば私も、手荒なことをしたくない。貴国は大切な、妃の故郷であるから」
項の辺りが、ひんやりと冷たい。
ひた、と空気の刃が押し当てられている。このままヴィルヘルムはほんの少し身じろぎするだけで、使者の首を刎ねることができるだろう。
そうだ、この王太子は卓越した魔法の使い手だった。その力でファーレンホルストは長く他国の侵略を退けてきた。だからこそ、当初はブロムステットも婚姻による和平を望んでいたわけで。
「承知、つかまつりました」
自然と頭が下がる。これは儀礼ではなく、確かな畏怖によるものだ。
「アンジェリカは確かにこの私が幸せにする。何の心配もないと、ブロムステット王にしかと伝えよ」
頭の上から降り注ぐ言葉に、使者はただただ平伏することしかできなかった。




