21.時間の連なり
ちゃぷん、と水の揺蕩う音がした。
ヴィルヘルムは桶に張られた湯に手を入れて温度を確かめていた。小さく頷いてから、ヴィルヘルムは拭き布を浸す。ぎゅっと、硬く絞ったかと思うとさざ波を立てるような声が言う。
「手を」
迷いの滲んだ灰青色の目が、アンジェリカの膝の上の手に向けられる。
そうだ、二十八歳の夫は不躾に触れてくるようなことはしなかった。そこだけは、少し違う。
「でも」
応えれば、ヴィルヘルムは諦めたように一つ息を吐いた。そして、そっとアンジェリカの手を取る。
やわらかな布が傷だらけの手を拭っていく。長い指が手のひらに触れた。
ぴくりと肩を震わせてしまえば、ヴィルヘルムが顔を上げた。窓からの光が青い瞳に差し込んで、きらりと宝石のように輝いた。
「痛いか?」
「いえ」
こんなに丁重に触れられて痛いわけがない。ただ掠めた指先の温度に心臓が跳ねただけだ。
「覚えて、らっしゃるのですか」
舞踏会の時の全てを繰り返すように、ヴィルヘルムはアンジェリカに触れる。
それに彼は先ほど呼んだのだ、「アン」と。
「覚えている、と言えるほどではない」
次にもはやドレスとは呼べない布きれをそっとたくし上げて、ヴィルヘルムはまた顔を伏せた。汚れることも厭わずに、己の立てた膝にアンジェリカの左足を乗せる。大きな手が足首に触れる。
「……夢を、見るんだ」
「夢?」
「毎夜毎夜、君の夢を見る」
汚れたアンジェリカの足を拭っていく指先に、ためらいが宿る。
「君の膝で眠ったことなんてないのに、どうしてだか知っている。この手が触れたことさえなかったのに」
ヴィルヘルムは己の手を見つめて呟いた。その手が僅かに震えている。
ああ、そうか。やはり全部なくなったわけでは、ないのだ。
たとえ頭の中からその記憶が失われてしまったとしても。ヴィルヘルムの体は、覚えている。だからきっと、それを夢に見る。
「ヴィル」
呼びかければ、次に手は右足に触れた。また同じように大きな手が足を拭っていく。
「あんな顔をしている君を、はじめて見た」
わたしだって、そんな拗ねた声をはじめて聞いた。
これで終わりとばかりに、ヴィルヘルムはぼろぼろになったスカートを丁寧に下ろした。そんなことをしてももう、このドレスが元に戻ることはないのに。
「けれど、君が好きなのは俺じゃない」
もう一度、ちゃぷんと水音がした。
使い終わった拭き布が、湯をたたえた桶に吸い込まれるようにして沈んでいく。空いた右手をヴィルヘルムはぎゅっと握りしめた。
「あれは俺じゃない。俺は、“ヴィル”じゃないんだ」
長身がすっと立ち上がり、アンジェリカを見下ろす。
ヴィルヘルムの手は肩に降りる。そのまま強く掴まれた。乱れた髪が梳かれて耳にかけられる。露わになった耳朶にヴィルヘルムは囁いた。
「俺の方が先に、君に出会ったのに」
掠めた吐息に火傷するかと思った。
「君を最初に抱きしめたのも」
顔を上げれば流れた銀髪の間から、灰青の目が覗く。
ぎらぎらした、燃えるような目だった。
「君に最初にキスしたのも」
長い指は咎める様にゆっくりと唇をなぞっていく。ヴィルヘルムが触れたところが火を灯されたように、熱くなるのを止められない。
「どうして、俺じゃないんだろう」
男の腕はアンジェリカを閉じ込めて、逃さないとばかりに強く抱きしめた。
「あの、」
広い背に腕を回そうとしたら、ヴィルヘルムが首を横に振った。
「俺は、これを手放せない。これからもずっと君を縛る。だから、君を国に返そうと、思うんだ」
上がった体温がすっと冷えた。アンジェリカの手は半端に宙に浮いたままになる。
「育った国なら、君も安心だろう。存在しない男のことなんか、忘れて、国元で自由に生きてほしい。この国に無用に縛られていることもない」
ああ、どうして。
どうして、こんなにも、勝手なのだろう。
この勝手さこそがそっくりだった。記憶がなくても、唐突に理解した。
わたしに何の断りなく、消えてしまった“ヴィル”。今目の前にいるのが、その人だと。
いつもそうだ。
この人は全部一人で決めてしまう。わたしの想いも何もかも、置き去りにして。
「きっと、それが一番君も幸せになれる」
アンジェリカを抑えつけていた何かが、木から飛び降りた時でもかろうじてまだ残っていたそれが、弾け飛んだ気がした。
変わらず飾られていたリラの花。その花が、ずっと頭の中で揺れている。
「幸せって、なんですか」
「アン、ジェリカ……?」
ヴィルヘルムがゆっくりと顔を上げる。灰青の目は怪訝な色を宿してアンジェリカを捉える。
「ですから、幸せとはなんですか、とお伺いしております」
「それは、俺にもよく分からないが……」
狼狽えたように顔を背ける。その肩に手を置いて、こちらを向けさせた。
「よく分からないのに、こんなことをなさるのですか!」
「けれど、ここにいても、俺は君を不幸にするだけだ」
「幸せが分からないのなら、不幸も何もないのでは?」
嘘のように言葉がすらすらと出てきた。頭に血が上っているせいかもしれない。だって、十六歳の彼は有無も言わさずいなくなってしまったから。
「こんなかっこつけたことだけ言って、逃げて、わたしが幸せになれるとでも」
だから駄目押しのように、こう告げた。
「二度もわたしを、捨てるのですか」
ヴィルヘルムの切れ長の目が、真ん丸になった。
痛いぐらいの沈黙が満ちて、部屋の中で二人見つめ合った。
「……ごめん」
恐々と探るように手の甲が頬に当てられる。そのままその手は頬を滑って、流れた涙を拭っていく。
そうされてはじめて、自分が泣いていることに気が付いた。
「君を傷つけたいわけじゃなかった」
今度はそう、包み込まれるような抱擁だった。頭の後ろに手が回されて、その胸に顔を埋める。宥める様にゆっくりと髪を撫でられた。
ぎゅっと強張るほどにヴィルヘルムの服を握りしめてしまっていた。
軽妙な声が、踊るように言う。脳裏で銀色の髪が跳ねる。
――何回だって、あんたのこと、好きになるよ。
「何回だってわたしを好きになる、って言ってくれたじゃないですか」
それなのにこれじゃああんまりだ。わたしはまた、独りぼっちだ。
「それは、できない」
ヴィルヘルムの腕の中で、アンジェリカは硬直した。その否定は、凍るように冷たく響く。けれど振り解こうとしたら、言葉とは裏腹に引き寄せられた。
続く告白に今度は自分が目を見開く番だった。
「俺は、最初から君のことが好きなんだ……」
「へっ、うそ」
信じられずに二度瞬きをした。けれど真っ赤に染まった耳元を見ればそれは嘘ではないと分かった。
「本当は最初に会った時から惹かれていたんだ。一目惚れだった。でもどうすればいいのか、ずっと分からなかった」
甘えるように肩の上に頭を乗せてくる。そんなところまでそっくりだった。そもそも本人なのだから当然なのかもしれないが。
「だから、兄上が生き返ればそれでいいと思った。俺が兄上になれば、兄上が君を幸せにしてくれる。そう思って、十六歳の自分になることを受け入れたのに」
だとしたら、アンジェリカが“ヴィル”を愛したことは誤算だったのかもしれない。
「わたしは、お兄様を好きになりたいわけじゃ、ありません」
それでも、か細い糸は繋がっていたのだと思う。
深く息を吸えば造り物の整った香りの向こうに、あたたかな陽だまりと風の匂いがする。ずっと探していた体温の匂い。
誰も別人になんてなれはしない。ちゃんとあの“ヴィル”の先に今のヴィルヘルムがいると信じられる気がした。
そうだ、何度生き直したって、きっとここに辿り着く。あなたがあなたであるという、そのたったひとつに。
彼は何も答えなかった。代わりに、背中に回された腕の力が強くなった。
「分からないなら、探してくれませんか」
問い掛ければ、夫は静かに顔を上げた。
「何が幸せかを、わたしと一緒に探してください」
「いいのか、俺で」
アンジェリカはそれに微笑んでみせる。
わたしが愛したのはこの、十六歳のあなたから二十八歳のあなたに続く時間の連なりだ。
「わたしはずっと、あなたのことがすきだって、言ってるんですよ」
「ああ」
短い返事の後に、すらりとした指先が掬い上げるように顎に伸びてくる。
灰青の目と見つめ合った。視線が絡み合えば、何をしようとしているかは訊ねるまでもない。
これは呪いを解くためでも、永久の愛を誓うためでも、何でもない。けれど、夫婦であるのなら何もおかしくはないのかもしれない。
ぴたりと頬を合わせれば、吐息が混ざり合って眩暈がするほどだった。
白銀の長い睫毛が伏せられていくのを、永遠のように長く感じた。世界の音が一つずつ遠ざかっていって、満ちるのは苦しいばかりに高鳴る己の鼓動だけになる。
「ずっと、こうしたかった」
やり直すのでも、巻き戻すのでもない。
もつれて絡まって、また解いて。けれど、途切れず続いていく。
最初からこんな風にはじまっていたのだと、アンジェリカは思う。
憧れた物語は、ちゃんとここにあったのだ。
「わたしもです」
アンジェリカもゆっくりと目を閉じる。
そして、一呼吸のちに夫の唇が唇に触れた。




