20.やり直し
あれから兄の夢を見なくなった。
代わりに、女の夢を見る。
『アン!』
いくらか幼い己の声が呼びかける。すると彼女はくるりと振り返る。
茶色の髪が流れて、その目が自分の姿を認める。
張り詰めていたような顔が、ふっと緩む。そして、彼女は花が綻ぶように微笑むのだ。
まるで知らない女のようだった。
いや、顔かたちはよく知っている。それは、間違いなくこの四年間隣にいた自分の妻だった。
けれどヴィルヘルムは、そんなあたたかな笑みを浮かべたアンジェリカを一度だって見たことはなかった。
またある時は、ヴィルヘルムは彼女の膝に頭を置いて寝そべっている。なんとも言えない満足感のようなものが、胸に広がる。
小さな手が、さわりと髪を撫でてくれる。その感触すら愛おしい。
この今、自分はこの女を独り占めしているのだと、ヴィルヘルムはその感覚に酔いしれている。
そして、目覚める度に襲うのは、嫉妬にも似た痛烈な何かだった。朝の薄い光が天蓋を透かしていた。どこかでまだ彼女の指先の感触が燻っているような気さえする。
そんな女は幻のようなもので、自分の手は空を掴むだけだ。
現実では紫色の目は、怯えるように、探るように、ヴィルヘルムを見遣る。
例えば、夢の中で微笑みかけているのが別の男だったのだとしたら、まだ許せたのかもしれない。
けれど、アンジェリカの目が向けられているのは間違いなく自分なのだ。
記憶の全てはおぼろげで、確実ではない。だが、忘れるにはあまりにも鮮明だった。
極めつけは机の引き出しに入っていた一枚のメモだった。
『悔しかったらオレに勝ってみろ』
間違いない。自分の字ぐらい見れば分かる。そして、それは今のヴィルヘルムのものよりひどく幼い。
これは十六歳の自分が書いたのだろう。落ち着きのなさが僅かに擦ったようなインクの滲みに見て取れた。
自分の知らない自分の痕跡がこの世にあるのは、不可思議を通り越して不快でしかなかった。同時に、胸の奥がひどく疼くような気がした。
何より、アンジェリカはこのヴィルヘルムを愛している。魔女との取引がそれを明確に示している。
何を話したのだろう。何を考えていたのだろう。
口を開けばそんなことばかり出てきてしまいそうだった。そうして、ますます己の口ぶりは素っ気なくなった。
愛されるべきは自分であって、自分ではない。
アンジェリカが愛した男はもう、この世界には存在しない。
だから、彼女を国に返そうと思った。
どこか遠く、己の手の届かないところで、幸せになってほしかった。
それ以外にヴィルヘルムにできることなど、なかったのだから。
*
訪れると思っていた痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
「怪我は!?」
呼ばれて肩を揺さぶられて、目を開ける。
「は、はい?」
我が身は、地面に激突することなくここにある。見たところ、大きな怪我はないと思う。
「怪我はないかと聞いているんだ」
灰青の瞳にはいつにない焦りが滲んでいる。アンジェリカと一緒に落ちてきたのだろう、輝くばかりのシルバーブロンドにいくつもいくつも、木の葉が落ちている。
ヴィルヘルムが自分を受け止めてくれたのだと、そこでやっと気が付いた。
「ありません」
背中に回された男の腕に、ぎゅっと力が込められる。
「よかった……」
首筋に頬が寄せられる。高い鼻梁が肌を掠めて、ヴィルヘルムはアンジェリカの肩に顔を埋めるようにする。それはまるでアンジェリカの存在そのものを確かめるように。
隙間ないほどに強く抱きしめられる。いつも遠くに感じていた、深い森の奥のような静謐な香りに包まれる。
こんな風にされたことなんて、なかったのに。
「どうしてこんなことを、したんだ」
くぐもった声が糾弾するように言う。どうしてと言われても、
「全部あなたのせいじゃないですか」
ついそう零してしまったら、ヴィルヘルムは顔を上げた。形のいい眉を顰めてみせる。
「俺が、一体何をした」
その言い方は、いつもの彼とは異なっていた。
いつも上辺を撫でていくだけだった声に、確かな焦燥が宿っている。そして、苛立ちを隠さないままに軽々とアンジェリカを肩に担ぎ上げた。
「ひゃっ」
一度ちらりと振り返ったかと思うと、ヴィルヘルムは何かを示すように顎をしゃくって見せた。すると、立ち尽くしていたクレアがはっとして、木の根元に置かれたアンジェリカの靴を取り、慌てて後に続く。
そのままヴィルヘルムはずんずんと長い足を使って歩いていく
「あの、わたし歩けます」
じたばたと手足を動かしたら、灰青の目は鋭くなってアンジェリカを見た。
「落とされたくなかったら大人しくしていなさい」
もっとも、アンジェリカの力では振り解けないほど強くその腕に捕らえられている。
恭しく抱えられるよりも、荷物のように抱えられる方がなんだか気安い気がする。それほど余裕がないのだけなのかもしれないが。
連れて行かれたのは、ヴィルヘルムの部屋だった。
こちらも、入ったことなど一度もない。どこにあるかだけは、かろうじて知らされていたけれど。
アンジェリカを抱えたまま、片手で器用にヴィルヘルムは扉を開けてみせる。
手近な椅子にアンジェリカを下ろしたかと思うと、彼は控えていたグレンに命じた。
「出来るだけ早く湯と、あと何か布を持って来てくれ」
長く仕えていた侍従であっても、その意図を一瞬では理解できなかった。
「殿下……?」
聞き返したグレンに、ヴィルヘルムの冷たい声が飛んだ。
「早く、と言ったのが分からなかったのか?」
灰青の瞳がまるで睨み付けるようにすれば、侍従は弾かれたように駆けて行く。
アンジェリカはこのやり取りの全てに既視感があった。この後、ヴィルヘルムがどうするかも、察しがついた。
「ありがとう。全員、下がっていい」
案の定、ヴィルヘルムはそう言った。
はっ、とクレアが息を呑んだのが分かった。
いち早く事態を理解したクレアがそっとアンジェリカの靴だけを置いて部屋を後にして、それに何かを感じたのか、グレンも続いた。
残されたのはアンジェリカとヴィルヘルム、二人きりである。
どうしていいのか分からなかった。
失礼にならない程度にちらりと辺りを見渡せば、自分の居室ほどではないが、王太子の部屋とは思えないほどに質素だった。
重厚な家具と政務に必要であろう本と。彼自身を象徴するような、飾り気のない部屋だった。
ただ机の上に、くしゃりと丸められた紙が置かれている。捨てればいいのに、彼はそうしなかった。
整然とした部屋の中でそれだけが異質に見えて、ひどく居心地が悪くなる。まるで、見てはいけないものを見てしまったような。
目を伏せれば、己の手に傷やら血やらが滲んでいた。
飛び降りた時に枝にいくつかひっかけたのだろう。スカートは中途半端にまくり上げられていて、ところどころに破れて見るも無残である。
少しでも隠すように、アンジェリカは膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
ヴィルヘルムは、アンジェリカの前に跪く。
ここまでは、記憶の中と変わりなかった。
ただヴィルヘルムはそのままぴたりとも動かなくなった。それはずっと眺めていたいほど美しかったけれど、整った相貌はもはや彫像のようで、何を考えているのか底知れない。




