2.愛する者の口づけ
秘密裏に王宮の一室に集められたのは、侍従のグレンと宰相、そして魔術師団長だった。
何せ事が事である。情報を共有するのは限られた人の間で、ということになったのだ。
「それで、この方は本当に殿下なの?」
「だからずっとそう言ってんじゃん、おばさん」
アンジェリカの言葉に、ヴィルヘルムらしき男は不機嫌そうに頬を膨らませてみせる。
「オレはヴィルヘルムだって」
釣られて自分もむっとしそうになったが、ここは我慢だ。
「言葉を慎みなさい。あと、わたくしはまだ二十二歳です」
「うっそ、オレより六つも年上じゃん! ねえオレ、そんな年上趣味だったの?」
「殿下は現在二十八歳であらせますので、実際にはアンジェリカ殿下は六つ年下ということになられますが」
「あ、そっか。そうなるのか」
ぽん、と手を叩いて納得する様子も素直そのものだ。それは、アンジェリカが知るヴィルヘルムの姿ではない。
体だけそのまま、別人になってしまったかのようだった。
「殿下が十六歳、ということは、つまり……」
「ええ、そういうことになりますね」
「あの事も、ご存知ないということだな」
宰相とグレンが小声で囁き合う。そのまま探るように二人は視線を交わす。ただそれ以上彼らは何も言わなかった。
おもむろに口を開いたのは、魔術師団長だった。
「王宮に戻られてから、私が殿下の魔力を鑑定しました。こちらにおられるのは、間違いなくヴィルヘルム殿下です。また、王位継承の水晶が輝いたことからも、それは明らかです」
魔力にはその人固有の波動があるらしく、高位の者なら区別することは容易らしい。魔術師団長の鑑別ならそれは確かだろう。
なお、アンジェリカは魔力を持たないのでそれ知る由はないが。
そして、王位継承の水晶は王家の血を持つ者にしか反応しない。よって、この男はヴィルヘルムだと断定されたわけだ。
「ねえねえ」
ヴィルヘルムは、椅子の上であぐらを掻いている。退屈を持て余しているのか、ゆらゆらと体を左右に揺らす。
「オレちょっと腹減ったんだけどさ。なんか食べるもの、ない?」
グレンがそそくさと「承知いたしました。すぐにお持ちします」と部屋を後にする。その様を見て、宰相と魔術師団長が揃って呆れたように大きく溜息をついた。気持ちは分かる。
一体誰のせいでこんなことになっているのか。こいつには王太子としての自覚はないのか。
「いい加減になさい。こんな場でお腹が空いたなどと」
まるで子供みたいだ、と思ったところで、自分は十六歳の時、どんな風に過ごしていただろう。己のことだというのに、アンジェリカはうまく思い出せなかった。
そのままヴィルヘルムは、侍従が持ってきたサンドイッチを大きな口を開けて頬張った。そのままむしゃむしゃと、食べながら彼は喋る。
「だって空いたもんはしょうがないじゃん。何? おばさんもお腹空いてイライラしてんの? ならオレの分あげようか?」
「いりません!」
どうもこのヴィルヘルムといると調子が狂う。
元の彼とは、こんなことはなかった。何かを手づかみで食べているようなところも目にしなかったし、こんな行儀作法にそぐわないようなこともしなかった。
早く二十八歳のヴィルヘルムに戻ってもらわなければ。
そうしなければ、わたしでいられなくなる。
「魔術師団長、殿下の呪いを解く方法はないの?」
この状況で、実直そのもののような魔術師団長がただ手をこまねいているだけとも思えなかった。
それに、この手の呪いには大抵抜け道のようなものがある、気がする。
もっとも、アンジェリカがそれを学んだのはおとぎ話の中で、だけれども。
「こちらの呪いは大変複雑なものです。これをかけた魔女は非常に呪いの構成に長けた者だと考えられます。ただ、解呪の方法はあるかと」
必要なものは、森の奥深くに咲く伝説の花か、はたまた貴重な宝石か。
「考えられる最も確実な方法は」
「その方法はなに? 教えなさい」
けれど、そのどれでもヴィルヘルムは手に入れることができるだろう。だって彼はこの国の王太子であるのだから。
魔術師団長はちらりと気遣わしげにアンジェリカを見る。そして、こほん、とひとつ大仰に咳払いをしてから続けた。
「アンジェリカ妃殿下様。ヴィルヘルム殿下の解呪には愛する者の口づけが必要なのでございます」
「え、やだよ、オレ」
アンジェリカが何も返せずにいたら、横からヴィルヘルムが言った。取り囲む者達が狼狽えるように自分とヴィルヘルムを交互に見つめる。
率直な言葉に、傷つかなかったと言えば嘘になる。
「だってまだ会ったばっかじゃん……そんな」
ヴィルヘルムはそう言って、ぷいっとアンジェリカから顔を背ける。
「まだ本当に好きな人と、したこともないのに」
シルバーブロンドから覗く耳が赤い。本気で嫌がっているというよりは、照れているだけなのかもしれない。
「あんたはさ、オレと、そういうことしたの?」
「と、当然でしょう」
応えた声が、僅かに上擦った。そう、アンジェリカは二十八歳の彼の妻であるということからすれば、当然なのである。
「いいわ、あなたはそこでじっとしていて」
アンジェリカは立ち上がって、ヴィルヘルムの前に立った。
「いや、だからってさ、おばさん。あんただってやだろ」
「別に」
思い出したのは、婚姻の儀だった。純白のドレスとファーレンホルスト王家に代々受け継がれるティアラを身に着けたアンジェリカの前に、ヴィルヘルムはすっくと立った。
男の手が頬に添えられて、長身は覆いかぶさるように屈んだ。熱くて大きな手だった。
その目はまるで後悔するように伏せられた。
鼻先に吐息がかかって、その唇が触れると思ったところで、彼は留まった。
あの時、ヴィルヘルムはアンジェリカに誓いのキスをしなかった。大きな手は巧みにそれを隠し通した。
頭の中で鳴るのは、ひどく冷たく響いた拒絶。
『私は、君に触れることはない。だから、君もそのつもりでいてくれ』
四年も前だというのに、囁かれたその声を鮮明に思い出すことができる。できてしまう。
形だけはそうしたように振舞ったから、アンジェリカとヴィルヘルム以外にこのことを知る者はいない。
あの時、ヴィルヘルムは何を考えていたのだろう。目の前の十六歳の彼は知らない。今はどうしたって知ることは出来ない。
なんだっていい。この人を元に戻せるなら。実際はともかく、今はアンジェリカの方が彼より年上だ。ここは、自分がリードすべきだろう。
わたしは、この身の全てを捧げてこの国にいるのだ。
これが愛じゃないなら、何を一体愛と呼ぶのだろう。
両手でそっと挟むようにして、すべらかな頬に触れる。眼前で端正な顔が分かりやすく歪んだ。
突き刺さるような視線を感じる。この国の頂に立つ者達が皆、固唾を飲んでアンジェリカの成すことを見つめている。
王女だった頃から、人に見られることには慣れている。いつだって自分は消費される側の人間だ。
「いや、待って、心の準備が。オレ、はじめてで」
それを言うならアンジェリカだってそうだ。
あなたがキスしなかったから、わたしは男の人とキスしたことなんかない。
ぎゅっと目を閉じて、押し付けるようにして唇を重ねる。ヴィルヘルムがはっと息を呑んだのが分かった。やわらかなそれが怯えるように震える。
気負った割には、容易いことだった。鼻で笑ってしまいたくなるぐらいには。
一呼吸ののちに、そっと離れた。
ゆっくりと目を開けたら、まんまるになった青い瞳と目が合った。光が差し込む部屋では、この目はこんなにも明るく見えるのだなと思った。
ヴィルヘルムは顎に手をやって、そのまま確かめるように長い指で唇をなぞった。
「あー……」
投げかけられた声は軽い。そのままヴィルヘルムは鬱陶しそうに頭を振って、天井を仰いだ。
誰も何も言わない。けれど、何が起こったかは全員が理解している。明確な気まずさが部屋に満ちる。
「つまり二十八歳のオレはモテなかった、と」
殊更おどけたような調子は、ヴィルヘルムが未だ十六歳だということを明白に示している。
そして、このことが示すのは。
「あのさ、おばさん」
疑うように首を傾げてヴィルヘルムはアンジェリカに問う。その瞳は僅かに翳って、灰色が濃くなる
。
「ねえ、オレたち、本当に夫婦だったの?」
そうだ、呪いを解く条件は、愛する者の口づけだと魔術師団長は言った。
ヴィルヘルムはアンジェリカを愛してなどいなかったということだ。
たまらず、アンジェリカは逃げるように部屋を後にした。ばたん、とみっともなくドアを閉める音だけが、やけに大きく響いた。




