11.問いかけ
「聞きたいことが、あるんだけど」
公爵が下がってから、ヴィルヘルムはその場にいた者に訊ねた。
宰相と侍従のグレンと魔術師団長と、アンジェリカ。
つまりは、彼が十六歳であることについて知る全員である。
「ずっと、おかしいとは思ってたんだよな。なんで、王宮に兄上がいないんだろうって」
その声は低く地を這うようで、十六歳の彼の常とは異なる響きを帯びていた。まるで己の知らない一足先の闇に打ち震えるみたいに。
「本当に、兄上はもう……いらっしゃらないのか」
グレンが自分の責任として言った。長年仕えた侍従のほかには誰も、それを口にできる者はいなかった。
「はい」
「それは、一体いつなんだ」
「殿下が、十七歳の時です」
「……そっか」
己の身の上に一年後に降るそれを噛みしめるように、ヴィルヘルムは短く呟いた。
「なんで、誰も教えてくれなかったの」
「殿下はこの十二年間の記憶を持たず、混乱されておられました。ですから、少しずつお伝えしていこうと皆で判断した次第です」
次に口を開いたのは、宰相だった。おそらく、それ自体に嘘はないのだろう。十六歳のヴィルヘルムに一度に全てを伝えることは不可能だった。
ヴィルヘルムがちらりとアンジェリカを見遣る。澄んだ青色の瞳に自分の姿が映る。
そして、この純粋そのものの十六歳の少年を曇らせることは、皆が望まなかったはずだ。
「あんたは、知ってたの?」
誰もが、伝えずに終わることができればいいと思っていたはずだ。けれど、呪いを解ける女は見つからない。
「いいえ」
アンジェリカは何も知らなかった。
これも、嘘ではない。
ヴィルヘルムの兄が死んだ時、アンジェリカはまだブロムステットにいた。他国の状況はそこまで詳細に入ってはこない。
「そっか」
二度目の「そっか」も吸い込まれるように溶けていく。
「兄上はどうして亡くなったんだ」
一呼吸ののちに、魔術師団長が口を開いた。
「ご病気でございます」
どう問われてもそう答えると決めていた、そんな声音だった。
「嘘つき」
アンジェリカが気づいたように、ヴィルヘルムもそれに気づいている。灰青色の目が不穏な色を宿す。
「すみませんが、殿下」
宰相が一度片手を上げる。様子を窺っていた衛兵達がヴィルヘルムを取り囲んだ。そのまま彼らは、ヴィルヘルムを取り押さえようと一直線に向かっていった。
ヴィルヘルムは左右をちらりと見た。
掴みかかられる寸前のところで身を捩って一人目を躱したかと思うと、拳を鳩尾に叩き込む。
そして、二人目と三人目を蹴り倒した。
瞬きするほどの間に、立っているのはヴィルヘルムだけになる。
見事な手際だった。騎士団にいたというのは本当らしい。決して褒めるような時ではないと分かっているのに、アンジェリカは内心拍手をしてしまいそうになる。
魔法が使えないから、おそらく誰もが彼を侮っていた。
けれど、そうしている間にヴィルヘルムは、二十八歳の体を使いこなせるようになった。本当は、二十八歳の彼と同じように扱わなければならなかったのだ。
「手足が長いのは助かるな。戦うなら断然、こっちの体の方がいい」
ぱたぱたと手を払いながら、ヴィルヘルムは言った。
そしてすっと、テーブルクロスを引っ張る。皆が呆気に取られている間に、ヴィルヘルムは傾いだグラスを床に叩きつけた。
光の粒のようなガラスが飛び散る。
砕けた中で一番大きい欠片を鷲掴みにしたかと思うと、ヴィルヘルムはそれを己の首筋に当てた。
「本当のことを、話してもらう」
大きな手から血がぽたりぽたりと流れていく。
「来るな!!」
駆け寄ろうとした魔術師団長を、ヴィルヘルムは鋭い声で制す。ほんの少し、彼は首元のガラスを動かした。
すっと伸びた首筋に、赤い線が流れる。
もしこれをあと少し、動かしてしまったら。
「兄上がいないのなら、オレのほかに父上の御子はいない。このことの意味が分かるだろう?」
ヴィルヘルムはこの今、己を懸けている。そうして真実に差し迫ろうとしている。
宰相と魔術師団長が顔を見合わせた。これにどう対処すべきか考えあぐねているようだった。
「一時間、時間をやろう。それでどうするか考えてくれ」
そう告げるヴィルヘルムを見て、思った。
彼を一人にしては、いけない。
根拠があったわけではない。けれど、その広い背を見て唐突に感じたのだ。
一歩足を進めて前に出る。毅然とした相貌が崩れて、途端に少年の面影が覗く。
「アン、一体何のつもりだ」
ヴィルヘルムは眉を顰めて後ずさった。詰めたつもりの距離が、また開く。
「人質は、一人より二人の方がよいのではないでしょうか」
アンジェリカは顔を上げて真っ直ぐにヴィルヘルムを見つめた。歩を進める度に、靴がしゃりっとガラスを踏みしめる。
王女でありたいと思ったこともないし、正直かの国が自分にそこまでの価値を見出してくれるとは思えない。けれど、今だけはこの生まれに感謝しておこう。
「わたくしはブロムステット王が三女、アンジェリカです。わたくしに何かあれば、祖国は黙っていないでしょう」
そして、アンジェリカに他に差し出せるものもなかった。
「いかかでしょう? わたくしでは、至りませんか?」
あとははったりだ。自分の要求を飲ませるためには重みがいる。アンジェリカは、手近なガラスの欠片の一つに手を伸ばした。
けれど、触れると思った指先はガラスには触れなかった。
「おいっ」
代わりに男の手が、アンジェリカの手に触れている。まだ血の流れる大きな右手。ぽたりと、また血が床に落ちる。
「怪我でもしたら、どうするんだよ」
とんでもないことのように、ヴィルヘルムが言う。自分だってその手を怪我しているくせに、アンジェリカのことはそんな風に窘めるのだ。
けれど、こうなってしまえば、こちらのものだ。
アンジェリカはその手をぎゅっと握った。
わたしはもう、この手を離す気はない。
その意を込めて長身を見上げれば、
「分かったよ。あんただけはここにいて、いい」
降参したようにヴィルヘルムは頭を振った。その仕草は十六歳の彼にしてはひどく大人びたように見えて、二十八歳にしては子供じみてる。
揺れた銀髪がはらりと光の粉を孕んだように輝くのを、アンジェリカは今までで一番近くで眺めていた。




