10.幸せのお守り
「はあ」
アンジェリカは窓際に頬杖をついてひとつ溜息を吐いた。けれど、すぐ傍にいたクレアはそれには何も言わなかった。
「今日は『幸せが逃げる』って言わないのね」
「ええ。もちろん言いませんよ」
あの時はあんなに叱るように言ったのに、今の彼女はただにこにことしている。この違いは、なんだろう。
「幸せをお迎えする時につく溜息もあるのだと、私は知りましたので」
クレアとは、家族よりも長く、近しく過ごした。
自分のことを一番分かってくれているのは、この侍女だと思う。
そのクレアが、最近はずっと嬉しそうだ。いそいそと花瓶の水を変えて、花を生け直す。こんな彼女はブロムステットでも見たことがない。
そこに揺れているのは薄紫色のリラの花だ。
「ねえ、その幸せは裸足なのかしら?」
「あら姫様。当然靴を履いておりますよ。だって素敵な王子様が靴を履かせてくださいますもの」
それは、そうなのかもしれない。物語の中の王子様は、いつも姫君に合う靴を履かせてくれるのだ。
アンジェリカの頭の中で可愛らしい靴を履いた幸せが、ぴょこぴょこと踊っている。
でも、十六歳のヴィルヘルムは違ったなと思った。
あの人は、アンジェリカの履いた靴を、そっと脱がせてくれたのだ。
ヴィルヘルムの手当てがよかったのか、捻挫した足は二、三日もすれば腫れも引いた。これならすぐに元のように過ごせると思っていたのに。
彼は、足が完治するまでアンジェリカが部屋を出ることを許さなかった。いや、その言い方は正しくないのかもしれない。
『ああ、どっかに行きたかったらオレを呼んで』
『わたし、ちゃんともう、一人で歩けます』
『あんたそうやってすぐ無茶するだろ。いいから、また担いでやるって』
『け、結構です!』
『いいじゃん。別にそれぐらいさ』
あんなことを何度もされたらたまったものではない。控えた侍女たちまでが、自分とヴィルヘルムの会話に笑いを嚙み殺していたのをアンジェリカは知っている。
恥ずかしさが極限に達してもうどこかへ逃げ出したいとまで思ったのに、当の本人はふてぶてしいまでに本気の顔をしていた。
代わりに彼が持ってきたのがこの花だ。これでも一応、見舞いのつもりらしい。
『あれ、きらいな花だった?』
両手いっぱいの花を抱えていたヴィルヘルムは訊ねてきた。こういう時はちゃんと嬉しそうな顔をしないといけなかったのに。
『ああ、いえ、そういうことでは、なくて』
この花が苦手ということではない。強いて言えば、花というもの自体が苦手なのかもしれない。
自分のために摘まれた花。それは嬉しさよりも先にいたたまれなさを呼んでくる。
『根を張ったままなら、もっと長く咲いていられたんでしょうか』
そんな風に考えずにはいられない。それは返事というよりは、ほとんど独り言に近いようなものだったけれど。
『どうだろう。オレには花の考えることは分からないけど』
アンジェリカの言葉に、ヴィルヘルムはそっと花に手を伸ばす。
『長く咲いてることだけが幸せだとは限らないんじゃないかな。永遠に咲いている花なんてないんだからさ』
俯いた横顔に流れた銀髪の影が落ちる。そこには十六歳には似つかわしくない思案が満ちている。
『オレは、咲いていることを覚えていてくれる人がいたらそれだけでいいよ』
誰も咲いていたことを知らないのなら、その花は存在しないのと同じだと、彼は言いたかったのだろうか。
『なんてね』
途端に年相応の顔に戻ったヴィルヘルムはおどけるようにそう言うものだから、それ以上何も訊ねられなかった。
そうして、この花は今もこの部屋にある。殺風景な部屋の中で、そこだけ火が灯ったかのように明るく見える。
アンジェリカは、あの時ヴィルヘルムがそうしたのを真似るように、指先でそっと花びらを撫でた。
常のリラの花と違い、この花の花びらは五枚だ。
『知ってる? 五枚の花びらのリラは幸せのお守りなんだって』
聞いたことはある。けれど、アンジェリカは本当に目にするのははじめてだった。王宮の庭園でも、五枚のものは見たことがない。
ヴィルヘルムは一体どこから、この花を摘んできたのだろう。聞いても「内緒」と返すだけで、彼は教えてくれなかった。どうやら他の誰も幸運のリラの咲いている場所は知らないらしい。
日常のふとした時に頭の片隅や真ん中で、ヴィルヘルムが少年のように笑う。
そして、その度に溜息が零れる。
ほのかに色づいたような気さえする己の吐く息はふわふわと漂うようにそこにあって、掴もうとすればするりと手から抜け落ちていく。
そこで花というのは随分と厄介なものなのだと思った。咲いている間、目に入る度に、それを贈ってくれた人のことを考えずにはいられないのだから。
このくすぐったいにも似た気持ちがなんなのか、アンジェリカには分からない。けれど、浮かび上がってくるのは恥ずかしさだけではなかった。
ただこんな日がずっと続けばいいとだけ、漠然と考えていた。
ひとつだけ、引っかかっていることがある。
あの十六歳のヴィルヘルムの延長線上に、二十八歳のヴィルヘルムはいるはずなのに。
――私は、君に触れることはない。
脳裏から離れない冷たい声と髪を梳いてくれた優しい手が、アンジェリカにはどうしても、連なっているようには思えなかった。
そしてそれは、のどに刺さった小骨のように、時折ちくりと首をもたげてくるのだった。
*
「いやあ、ヴィルヘルム。この間の舞踏会は、圧巻だったよ」
午餐の席で、公爵殿はえらくご機嫌だった。豪快な笑みを絶やさない男を前に、ヴィルヘルムは「恐れ入ります」と微笑んでみせる。この辺りは、十六歳なりに上手くやっている。
「妃殿下と仲がいいことは何よりだ」
そう言って、公爵はアンジェリカにも目を向ける。その目が何かを見極めるように、すっと細められる。
この者は現王の従兄弟に当たる者で、ヴィルヘルムに何かあれば王位を継ぐ可能性もある。
アンジェリカとヴィルヘルムの仲は王宮の中では知られた話だ。自分達がずっと“白い結婚”だったことを彼が知らないことはないだろう。
「この様子だと、色々と期待もできそうだし」
ただ彼は純粋に喜んでいるようだった。言いたいことは、分かる。世継ぎを期待しているのだろう。
けれど、今のヴィルヘルムの真実は、公爵にも知らされてはいない。アンジェリカはただ曖昧な顔をしていて席に着いていることしかできなかった。
「コンラートが身罷ったと聞いた時は、どうなることかと思ったがね」
その名前を聞いた時、隣に座る男がびくりと肩を震わせたのが分かった。
「今や陛下の御子は、お前一人だ。やはり血統が保たれるに越したことはない」
見れば、ヴィルヘルムの顔は蒼白だった。握っていたカトラリーが手から滑り落ちて、甲高い金属の音がする。
「どうかしたかい、ヴィルヘルム」
問いかける公爵に、この時問い質さなかったことは正しかったと言える。
「いえ、なんでもありませんよ」
少なくともヴィルヘルムは一時は己の内に浮かんだ疑問を飲み込むことには成功していたのだった。
半分しか見えない夫の顔では、一体何を考えているのか掴み切れなかった。




