1.いってらっしゃいませ
お読みいただきありがとうございます。楽しんで頂ければ幸いです。
「いってらっしゃいませ」
別に心の底からそう思っているわけではない。これは必要な儀礼というものだ。
自分はそのためのお飾りだ。ちゃんと分かっている。だから、アンジェリカは見事美しい礼をしてみせる。
こういう時、何も考えずとも作法に則った振る舞いができることには育ててくれた祖国に感謝しなければいけないと思う。いい思い出なんて、数えるほどしかないけれど。
「ああ」
頭の上から降ってくる声は、素っ気ない。けれど、この男はたった一人、アンジェリカの夫。
どうしてだか、この人の声は妙に耳に響くような気がする。銀色の髪が揺れればはらりと香る、すっと背筋が伸びるような冷たい木々の香り。
名を、ヴィルヘルム=ファーレンホルスト。この王国の王太子である。
「ご無事のお帰りをお待ちしております」
「いってくる」
それだけ告げて、ヴィルヘルムは去っていく。男の足音はすぐに遠ざかる。
ヴィルヘルムは一度も振り返らないと、アンジェリカはよく知っている。
だから、頭を上げない。
それだけの、話だ。
*
婚約したのはいつだったのかも覚えていない。それぐらい幼い頃だったと思う。
ファーレンホルスト王国とアンジェリカの祖国ブロムステットは、和平のために王太子と王女の婚約を結んだ。所謂政略結婚である。
「はあ」
アンジェリカは窓際に頬杖をついて盛大に溜息を吐いた。
「どうされました、姫様。そんなに溜息を吐いたら幸せが逃げますよ」
侍女のクレアが言う。彼女はブロムステットから唯一ついて来てくれた者で、今もアンジェリカを姫様と呼んでくれる仲である。
「どうもこうもないわよ。これ以上逃げるものもないわ。どんな幸せも、裸足で駆けてった後じゃない」
だからつい、こんな物言いが口を吐いてきてしまう。
「ヴィルヘルム殿下は立派なお方ではありませんか」
「誰も、立派ではないとは言ってないわ」
ひとつに束ねた長めのシルバーブロンドに、灰青色の瞳。
切れ長の目元は涼やかで、ひどく端整な顔立ち。
加えてこの国随一というほどの強い魔力で風の魔法を自在に操る。剣技にも優れているようで、腰にはいつも使い慣れた長剣を佩いている。柄に一つ鮮やかな青い石が輝いているのが印象的だった。
それが、ヴィルヘルムだ。
一目見た時、その姿から目が剥がせなかった。当時十八のアンジェリカには、ヴィルヘルムはまるで物語の中から飛び出してきたかのように思えたほどだ。
「殿下は、そろそろお着きになられた頃でしょうかね」
クレアはアンジェリカの悪態を聞き流し、テーブルにあたたかな茶を置いてくれる。
「そうね。着いたんじゃないかしら」
どんなに目を凝らしても、かの辺境の地は見えない。ヴィルヘルムはそこで、国境付近に出没する魔物を退治するのだという。
会ったこともない相手に嫁ぐ。この時代ではままあることだ。
それでも幸せになれる夫婦はいるらしい。結婚式でヴェールを上げたところを見て一目惚れするとか、ないわけではない。
見目麗しく武芸にも優れた夫は、一度たりともアンジェリカを求めたことはない。嫁いで来てから四年、アンジェリカとヴィルヘルムの間にあったのは白い結婚だ。
あの目はアンジェリカに向けられたことはない。多分、これからもきっとそれはそうだろう。
ただ、自分はそちら側ではなかったというだけの話なのだ。
魔物討伐のための遠征は、年に何度か行われる通例行事のようなものである。勿論王太子も参加するのであるから大がかりなものだが、ヴィルヘルムはいつもそれを難なくこなしてみせる。
以前も長期間の遠征を終えた後だというのに、ヴィルヘルムはその彫像のような顔に疲れひとつ見せなかった。一分の隙もなく燦然と、王太子としてそこに立っていた。
だから、今回も彼は平然と帰ってくるのだとアンジェリカは疑いもしなかった。
出立から二週間後。
帰って来た夫を、この目で目にするまでは。
「その……アンジェリカ王太子妃殿下。大変申し上げにくいことなのですが」
大広間で迎えの用意をする中、王太子の侍従のグレンがアンジェリカの顔色を窺いながら言う。彼は一足先に使者からの報告を受けていたらしい。
「どうしたの」
一体何があったのだろう。すぐにでも尋ねたいところだが、思っていることを顔に出すようでは王太子妃など到底務まらない。頭の中で一瞬で「はてな」が踊るが、抑えた口調でアンジェリカは返す。
「その、ヴィルヘルム殿下のことなのですが」
「きちんと報告なさい。殿下がどうされたの?」
「殿下は辺境の地で、魔女に呪いをかかられたようでして」
その言葉に、まるで頭をガツンと殴られたような気がした。足元がぐらついて、途端にうまく息が吸えなくなる。
振り返りもしなかった広い背中だけが脳裏に蘇る。あれが最期になるなんてあんまりだ、と頭のどこかで声がする。
「お加減は! ご容体はどうなの?」
気が付いた時にはもう、グレンを問い質していた。
慌てた侍従が、
「ご安心ください。命に別条はございません」
そこまで聞いて、体から力が抜けた。ほとんど地面にへたりこむようになって、アンジェリカはほっと息をついた。祈るように握りしめていた手を、そっと開く。
「よかった」
自分の絞りだすようなつぶやきとは反して、快活な声が大広間に響く。
「ねえ、あんたがオレの奥さんってほんと?」
顔を上げれば、眩いばかりのシルバーブロンドの長身が、すぐそこにいた。男はその美しい髪をわしゃわしゃと掻き上げてみせる。
「なんだよ、おばさんじゃないか。オレ、ちょっと無理なんだけど」
とてつもなく失礼な言われ様である。わたしを一体、誰だと思っているのか。
「あなた、誰。わたくしはヴィルヘルム王太子が妃、アンジェリカよ。口の利き方に気を付けなさい」
「誰って……」
男は結わえた髪を指先で弄びながら呟く。瞳はきょろきょろと落ち着かない。
見かねたようにグレンが口を開く。
「ヴィルヘルム殿下は、お体にはどこも、悪いところはございません」
そこまで言われて、アンジェリカは思い至る。
浮かんでいる表情は、どこかあどけない。けれど、顔かたちは間違いなくヴィルヘルムだ。双子の兄弟でもいたのか、というほど目の前の人物と夫のヴィルヘルムはよく似ている。
「ですが、殿下は呪いで、十六歳に戻っておられます」
「へっ」
とうとう喉から声が漏れた。
「こちらは、ヴィルヘルム殿下、その人でございます」
ヴィルヘルムらしい人物が、肩を竦めて呆れたように笑う。
「そういうこと」
それはまるで本物の少年のようで、そんな顔をした彼をアンジェリカはこの目で初めて目にしたのだった。




