ケンカの後味
主サイド視点
久しぶりにマヒルと喧嘩した。言い合いの理由なんて、とっくにおぼえていない。
それでもなお、お互いに吐いてしまった言葉だけが喉の奥に刺さった小骨の様に残っている。雨上がりの湿気みたいに、胸の奥でじとりと張りついて離れてくれない。
あんな酷い事言うつもりじゃなかったのに。そう思っていても売り言葉に買い言葉で。私たちは喧嘩が下手だとわかっていたのに心にもない言葉を口から出してしまったのだ。
マヒルはあれからずっと沈黙を貫いている。何も言わずただソファに身を沈め、そっぽを向いたまま腕を組んで眉根を寄せている。その姿勢のまま一度たりともこちらを見てはくれない。
いつもこうなるから、喧嘩をするのは避けていたのに。久しぶりに会えてお家デートでゆっくりするつもりだったのに。
そもそも喧嘩をしたら落ち着くまで距離を取るのはいいけれど、その件に関しては言及を許されない。勝手にマヒルの中で消化して、勝手に機嫌を直して私に『ごめんな、兄ちゃんが悪かった。仲直りしよう』と言ってくるのだ。
私は怒りの感情をぶつけあって、二人で納得できるまで話し合いたいのに。モヤモヤしたまま甘やかされて、いつの間にか彼のペースになってしまう。
……このままじゃ、いつものパターンになるだけだ。私は以前の様に手のかかるわがままな妹に成り下がる気はない。生活を共にしてきてもわからないことがあまりにも多すぎる。これからずっと一緒にいたいなら、これはいい機会だ。
ポケットに手を入れて、飴玉をひとつ取り出す。忘れていたそれは少し湿気て、包み紙がやわらかくなっていた。
包みをほどき、口に放り込むと恐ろしいほど特徴的な香りが広がった。同僚のあの子が配っていた『面白いネタ』だったということを今更ながらに思い出したのだ。
舌の上にじわりと苦味が広がる。だけど、捨てる気にはなれない。むしろちょうどいいだろう。私は講義の意味を込めてイタズラを決行すると決めた。
私は息を潜めてマヒルの隣へ座り、そっと彼の頬に触れる。彼がゆっくりとこちらを向いた、その瞬間迷いなく口づける。
マヒルの唇がわずかに震えて、私を受け止める。飴玉ごと私の気持ちをそっと押し込むように舌を重ねていく。
彼は舌の奥で飴を転がし、やがて砕いた。
パキリ、という小さな音。それはたぶん、私の意地を丸ごと飲み下した音だった。
しばらくして、マヒルは唇を離す。目を細め、得意げな顔をしているだろう私を睨め付けてきた。
「……ほんと、お前ってよくそんないたずらを思いつくよな。パクチーの飴なんてどこで買った?」
「もらったの、随分前だけど」
「はぁ……火に油を注ぎたいのか?それとも、復讐か?」
「喧嘩するとだんまりになって、私のことなんか目にも入れてくれないマヒルへの抗議だよ」
「あれ以上きつい言葉を言いたくなかったんだ。ヒートアップしたら酷い事を言いそうで……怖かった」
「それでもいいって言ってるの。何でもかんでもそうやって我慢して飲み込んで、私を甘やかさないで。聖人にでもなるつもり?」
「聖人になんかなれるわけないだろ。オレは、」
「マヒルは自分の事を大切にしてくれないわからずやで、いつまでも怖がってばかり。私が何回好きって言っても信じてくれないの?」
「そうじゃない。お前が大切だから傷つけたくないだけだ」
「私が大切なら、自分の考えてる事をちゃんと言って。嫌なものを飲み込まないで。あなたが大切だと思う〝私の気持ち〟はわかってくれないの?」
「…………」
「小さな喧嘩でも自分だけでどうにかしないで。私と全部半分こするんでしょう?
ちゃんと喧嘩して、ちゃんと仲直りできる様にしたい。何が悪かったのか話し合うことは、これから先もずっと一緒にいるなら必要なの」
「お前……」
語尾は飲み込まれて、続く言葉は要らないとでも言うように彼はゆっくりと喉を鳴らす。
窓を叩く雨の音が室内に響き、開いては閉じる彼の唇はやがて弧を描く。
眉間に寄せられた眉、いつもよりも少し垂れた眦。
困った様な笑顔になった私の恋人は、自分の膝の上に陣取ったケンカ相手に手を伸ばした。
マヒルはひとつため息をついて、視線を外す。言葉は紡がれないまま伸ばされた手は腰に回って体を支えてくれる。
暖かな体温は伝わってくるのに、どうして何も言ってくれないの?
……私の抗議は失敗してしまったのだろうか。どう言えばわかってくれるだろう。
あなたが私を想う様に、私だってあなたを想っている。些細な生活の中に起こる全部は、マヒルの幸せと共にありたい。
あなたがいつも言うとおり、私自身も『マヒルが帰る場所』でありたい。
彼自身が犠牲になっていたら、そんな家には意味がない――と、それだけを伝えたかったのに。
思い悩んでいるうちに顎を突然摘まれた。腰に回った手に力が籠り、今度はマヒルから静かにくちづけて来た。
さっきよりも深く、ためらいのない動きで……苦味も、甘さも、ぜんぶひとつに溶かすような、深い長い口づけだ。
何も言わず、ただそれだけで頑なだったお互いの蟠りが溶けて行く。
唇が離れる直前、かすかに彼が笑う。
「俺の口の中に残ったのはお前だけだ。パクチーなんか気にならないくらいに」
「バカマヒル。そういう事じゃないの」
「そういう事だよ。お前がするイタズラも、意地悪も全部オレの為のものだ。
でも……我慢なんかしなくていいって事が言いたいんだよな?じゃあ、お言葉に甘える事にしよう」
再び唇が触れる。今度は熱のこもったキスだった。リップ音が響くたび、幾度となく繰り返したキスで潤みを帯びた柔らかさが触れ合うその度に、胸の奥から優しい気持ちが溢れてくる。
飴の味も、喧嘩の理由も、とっくに薄れていた。
──残っていたのは、ただ。
どうしようもなくお互いが好きだという、ケンカの甘い後味だった。