the apple of my eye
まるで、暖かな陽だまりのような人生だった。
彼女がオレに触れるたび、心の海に漣が立ち、波間に太陽の光がきらめく。
彼女がオレの名を呼ぶたび、自分が大切なもののように思える。
彼女が微笑むたび、雲の上に立ったようにふわふわの雲みたいな幸せが訪れる。
「マヒル、気分はどう?」
「あぁ、気持ちいいよ。ここは空がよく見えるんだ」
「じゃあ専用特等席だね!あっ、今日のお昼は何にする?」
「いつもと同じ、甘いものがいいだろ?昨日……誰かが持ってきたりんごジャムがあったはずだ」
「ええと、カイトさんの何番目の孫だったかな。マヒルレシピのジャムを持ってきてくれたから、アップルパイにしよっか」
「いいけど……お前、忘れっぽくなったな」
「マヒルもね」
車椅子のロックをかけて、彼女は隣の椅子に腰掛ける。お互いに空を見上げ、透き通るような青空の色に瞳が染まった。
雲は遥かな青に溶け、その色は優しい天色だ。
オレは20代で右腕を失い、肉体改造を多数施していたから50を過ぎてから歩けなくなった。
義腕を使う人は、健側の手に頼る動作が増える。長年そうした姿勢や動きを続け、腰や膝に負担がかかって骨が変形したのが原因だそうだ。だが、テクノロジーが発展した今、電子サポーターをつければ簡単に動かせる。
左手も年々おかしくなる。皮肉なことに偽物のオレの右手は歳をとっても昔と変わらないから、日常生活には苦労がない。
だけど、彼女と一緒に家にいるときは車椅子に乗って世話をしてもらう。
それは小さな頃からしてきたオレのおせっかいに対して『恩返しをさせろ』という、誰よりも長く人生を共にした人のわがままだ。
こんな可愛いわがままを聞けるのも、後わずかだろう。体の痛みを止める薬をもらっているから、最近は寝てばかりだった。こうして急に調子が良くなったのは〝もうすぐ全ての終わりが来る〟と言う事だ。
若かりし頃は常に痛みと共に生きた。それを癒すのは彼女だけが出来る事で、もっと強い痛みをくれたのも彼女だけだ。
生まれてから数年のことはほとんど覚えていないが、彼女に出会ってからの数十年は何一つ色褪せず、思い出は脳にも心の中にも鮮やかに刻まれている。きっと、魂にも。
いつからかオレの奥さんは長かった髪を切ってショートカットが常になった。風呂も大変だからな、歳を取ると。
オレたちに子供はいないけれど、なぜかカイト夫婦やその子供、孫たちがよくうちに来るんだ。おかげで子育ての真似事もさせて貰った。
もっとも、オレは妹であり奥さんの世話で、すでに子育ては味わわせて貰っていたけど。
彼女も歳をとった。頬に刻まれた皺、笑うと目尻に浮かぶカラスの足跡、短いシルバーヘアも……何もかもがいつまでも愛おしい。
若い時よりも見つめ合う時間が短くなったが、瞼を閉じなくてもこうしてそばにいれば、お互いがどうしてるのかわかるんだ。
それでも、つい目で追ってしまう。空の色に溶けそうな瞳を見ていると、昔と同じように胸の鼓動が速くなった。
「なぁに?そんなにじっと見て。見惚れた?」
「あぁ、綺麗だなって見惚れてる。オレが死ぬ時目に映したいのはお前だけだ」
「ふふ、昔なら『縁起でもないこと言わないで!』って怒ったけど、今は『そうしてください』って言えるようになったかも」
「そうだな、二人ともかなり長生きしたもんな」
「うん」
穏やかなひと時、何度も交わしたキスの痕跡をなぞる。触れ合う唇や肌は歴史が刻まれていたが、二つの体が一つになる瞬間はいつでもあの時に戻れるんだ。
「そろそろご飯作ろっか」
「あぁ、腹が減ったな。今日はオレも一緒に作りたい」
「はいはい、アップルパイはマヒルが作った方が美味しいもんね」
「そりゃ間違いないな」
「得意げな顔しちゃって!よいしょっと」
車椅子を押されて自宅に戻り、2人でキッチンに立つ。長年住んだ花浦の自宅は、全て再建した時のままだ。
サポーターを身につけ、ゆっくり立ち上がると冷蔵庫から出したジャムの瓶がカウンターに置かれる。あぁ、塩気がある物も食べたいのか、手羽先も出てきた。
なにを言わなくても今日のメニューが2人の間で決定される。
「ここの家、生前贈与しておいてよかったね」
「あぁ、カイトはびっくりしてたけど。俺たちが居なくなっても、この家は残る」
「ふふ、嬉しいなぁ……。あっ、コーン書い忘れちゃった!手羽先の煮物には必要だったのに」
「いいよ、にんじんを多めに入れよう」
「レイが聞いたら卒倒しそうだけど」
「ふ、既に卒倒しただろ。オレが病院で死にたくないって言ったから」
「そうだねぇ、怒ってたねぇ」
昔話に花が咲き、調理は穏やかに進んでいく。賞味期限が近いものばかり見つかって、彼女の好みのおかずを作沢山ってしまった。まるでパーティーだな。
手羽先の煮込み、トマトの卵炒め、冷凍しておいた餃子を焼いて……こうなったら白飯が欲しいから炊いちまおう。
あとは、アップルパイが焼き上がるのを待てばいい。
自分の死に際は自分で決めたいと言った時、レイは少しだけ怒った。『彼女のために延命装置をつけて、長く生きるつもりはないのか』と。
オレたちはもう『そう言う機械に触れるのは懲り懲りなんだ』と言ったら、複雑そうな顔をしていた。
今では訪問診察に来てくれるが、自宅で死ぬならそれが必要なんだ。他の奴には頼めないから、レイには我慢してもらうしかない。
食事が終わってからキッチンに行くと、甘く香ばしい香りがする。
焼きたてのそれを皿に乗せる前に、アップルパイはサクリと音を立てて齧られた。
「こら、行儀悪いぞ」
「んふ、焼きたてが一番美味しいんだもん」
「そりゃそうだけど。お茶は何にする?」
「たまにはコーヒーが飲みたいな、なんとなく今日はそんな気分なの」
「眠れなくなるぞ。『マヒル、歳をとるとカフェインが効きすぎるよ!』ってこの前愚痴ってたのに」
「また私の口真似して!眠れなかったら、2人で夜更かしすればいいと思う。最近してなかったしね」
しょうがない奴だな、と呟いて小さな皿に2人分のアップルパイを乗せた。一つは歯型つきだ。こっちのは、オレが食うことになるだろう。
リビングに目線を移すと、部屋の中に木漏れ日が差し込んでくる。大きな窓から立派な大木になった槐の木が見えた。
――もうすぐ、あの花が咲く季節がやってくる。オレはもう一度誕生日を迎えることができるだろうか。
風に揺れる槐からは、なにも返事をもらえなかった。
━━━━━━
「……マヒル?」
「…………」
「マヒル、どうしたの?」
彼女の声が、聞こえる。瞼を開けたはずなのに暗いままの室内で焦ったような声だけが響く。
ベッドに横になっていたはずが、枕の感触も、マットレスの感覚もない。
――あぁ、そうか。今日だったのか。
こう言う瞬間が訪れるのは、突然だとレイが言っていた。事故での経験はあったが、自然に訪れる時は前触れもないんだな。
「…………ごめん」
「今日、いくの?」
「そうみたいだ」
短く息を吸い込んだ彼女は、たっぷり一拍置いてからもう一度ベッドに横たわる。衣擦れの音が、その動きを教えてくれる。
「抱っこしててあげるよ。マヒルの死に場所はここだから」
「いいのか?……嬉しいけど」
「うん。もしマヒルが行っても、その後の30分は私のものだから。他の誰の声も聴かせないし、誰にも触らせないけど。マヒルは、それでもいい?」
感触はないものの、鼻先に嗅ぎ慣れた甘い香りが漂う。自分の体から勝手に力が抜けて、瞼を閉じた。
年々強くなっていった奥さんの独占欲に浸されて、これ以上ない幸福感に頭からどっぷり浸かったような気持ちになる。オレは、最期まで最愛の人のそばに居られるんだ。
「泣いてるの?マヒル」
「わからない。なにも見えないし、感じられないんだ」
「今ねぇ、私の胸にマヒルの顔がすっぽり埋まってるよ。腕枕をして……昔、寝かしつけてくれたみたいにお話をしてあげる。あなたが眠りにつくまで」
「あぁ……」
漆黒の闇の中、柔らかい声が脳裏に沁みていく。枯れ枝のように干からびた体が潤いに満ち、心臓が最後の鼓動を打ちはじめる。
いつものように恨み言から始まった昔話は、抑揚がこもり過ぎていて聞き取り辛い。時々『それはお前の解釈だろ』と突っ込みたくなったが、口がうまく動かないからやめておいた。
「熱が上がったみたい。冷やそうか?」
「いや、いい。お前と離れたくないんだ」
「うん、わかった」
生ぬるい空気の中、だんだんと早くなる自分の呼吸。それに反比例するように彼女の声はゆっくりになっていく。
『マヒルのバカ』を挟みながら、次第に寝かしつけの話は『ありがとう』や『愛してる』ばかりに染まっていく。
――友達と喧嘩して、気分転換にお祭りに行った時のこと。
大学で彼女のふりをした時のこと。
臨空タワーで一緒にワンダラーと戦った時のこと。
執艦官時代に経験した、沢山のすれ違いと喧嘩、そしてオレの告白。
2人が初めて舟の上でキスをした日のこと。
恋人になって初めて迎えた誕生日のこと。
小さな島で難破しかけて、空を飛んで帰ったこと。
それから、それから……
だんだんと声は小さくなっていき、2人きりであげようと思っていた結婚式に、カイトやモモコさんが待ち伏せていた話が……笑い声と共に終わる。
そして、今までの小さな幸せを積み重ねた日々が語られた。
やがて話が終わりに近づくと、涙の雫が溢れ落ちる音がする。
左手を握りしめると、わずかながら使い古した結婚指輪の感触が感じられるような気がする。そろそろ、覚悟を決めよう。
「……オレ、も……お前に言いたいことがある」
「いいけど、悪口はやめてよね。あと、口真似も禁止だから」
「はは、わかってるよ」
乾いた笑いの音を聞き、精一杯息を吸う。ずっと、この時のために用意していたセリフを伝えなければ。
「オレが、宇宙にばっかりいたから……子供ができなかったんだ。ごめんな」
「……」
「いつも、心配ばっかりかけて、ごめんな」
「お前を守るつもりがうまく出来なくて、ごめん」
「オレたちが兄妹になって、お前を好きになって……でも、あの爆発事故がなければ、この想いをずっとしまっておこうと思ってたんだけど、」
「バカマヒル」
「そうだな、バカだよな。お前もずっとオレのこと好きだったんだろ?」
「ふん、そういう事にしておいてあげる」
「ふふ……うん、そうしてくれ」
「オレは幸せだった。届かない場所にいたお前が、手を差し伸べてくれたから2人でいられたんだ。……本当にありがとう。
オレが死んだら、オレのことを忘れてくれていい。お前は寿命が尽きるまで生きて、幸せになってくれ」
「……っ、マヒル……」
「こんなこと、今更言ってごめん……でも、お前は自由な鳥でいて欲しい。本当はずっとそう思ってたよ」
沈黙が訪れ、鼻を啜る音が聞こえる。もう一度『バカマヒル』と呟いて、彼女が唇を重ねてくる。
「私も言わなきゃいけないことがあるの。……子供ができなかったのは、マヒルだけのせいじゃないよ」
「えっ?」
「私がそう望んでいたからだと思う。マヒルと、私は家族でしょ?それ以外の人を……たとえ子供でもその輪の中に入れたくなかった。
マヒルと、私だけの家族でいたかったから」
「…………」
「マヒルがいなければ、私はきっと生きていけない。あなたに雨覆羽を差し出したんだもん」
「オレがブレーキになってやるって、言ったからか?」
「うん、そう。もう一人じゃ飛べないの。
でも、自分で死んだら望む場所に行けないって聞いたから……少しだけ頑張る。でも、すぐに追いかけるから。先に逝くんだから、私たちのお家を用意しておいてね」
あぁ、と返事をしたつもりだった。それは音にならず、ただただ自分の眦から熱が溢れ出す。
「死んだら2人だけの生活が始まるんだよ?海外だと天国とか地獄とかあるみたいだけど。よかったね、この国に生まれて」
「ここみたいな……花浦のおうちみたいなのがいいな。槐の木があって、エンドレスサマーとカイドウを植えて。
屋根裏部屋もほしいな。あ、でも鍵はつけないでね。また閉じ込められるのはごめんだから」
「寝室は分けないで。長年一緒に寝てきたから、1人じゃ寝られない。キッチンには最新式のオーブンが必要だよ。アップルパイが美味しく焼けるやつがいい」
「それから、冷凍庫も大きくしてね。レモンとりんごのシャーベット、また食べたいの」
「…………ねぇ、マヒル。わたし、あなたへの挽聯は作れないよ。その代わりに……もう一度誓いの言葉を捧げます」
荒くなった呼吸が緩やかになっていき、わずかに光が戻ってくる。
目の前いっぱいに愛おしい人の柔らかな肌があった。
顔が見たい。オレを精一杯愛してくれた、誰よりも愛おしい彼女の顔を。
必死で腕を動かすと、右腕が勝手に持ち上がり、彼女の頬に触れた。ぼやけた視界の中でもわかる。この頬はオレのための涙に濡れていると。
「私は、もう一度あなたに誓います。私はマヒルに自分を永遠に捧げます。
共に助けあい、尊重し、私たちは死んでからもずうっと……一緒にいます」
『オレも、そう誓うよ』
声にならない言葉に頷いた彼女のエクボにオレの指が落ちる。額が合わされて、間近に吐息が触れた。
「私はマヒルを手放さない。楽園に行くのに、他の人を連れて行けるわけないでしょ?
私たちはやっと2人きりになれる。楽しみにしてるからね」
『うん……わかった。花浦の家を作り直したからな、ノウハウがある。安心しろ』
「うん。マヒル……ずっと、ずっと大好きだよ。私だけの兄さん」
『あぁ、お前だけの兄ちゃんだ』
「それから、私だけの旦那様だよ。浮気は許さないんだから」
『そんな事、絶対しない』
途切れ途切れになる意識の中で、オレの右手はネックレスを持ち上げて唇で最期のキスを捧げた。
彼女はそれを奪い、もう一度オレの乾いた唇に唇を重ねる。
触れ合った唇の間に落ちた『愛してる』の言葉。それは甘く優しく、オレの命を溶かして行った。
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カイトside
「…………壮絶な葬式だった。お前ら、本当にお互いのことしか見えてないんだな。今更ながら思い知ったよ」
腕の中に抱えた二つの骨壷を眺め、大きなため息をこぼす。
一つは、マヒルの骨。もう一つは、マヒルの妹であり奥さんだった彼女のものだ。
マヒルを火葬して三日とたたず、彼女も亡くなった。たった1人、花浦の家でマヒルの骨を抱きしめて……眠るように槐の木にもたれて亡くなっていた光景は生涯忘れる事はないだろう。
骨壷は、旅立ちを待っている。見送り人として選ばれたからには願いを叶えなければならない。人生で2人きりだった家族は、最期まで誰も受け入れなかった。
あんなに盛大な葬式だったのに、奥さんは送り出す句じゃなくて結婚式の誓いの文句しか書かなかったから、俺が書くハメになった。二人の葬式が一緒にできたからいいが。他に書く奴がいないって言うなら、まぁ、仕方ないし。
泣き女なんかマヒルの顔を見てガチで泣いてたぞ。歳をとってもイケメンだったしな。
それから、妹さんのハンター時代の友人たちもみんな会場に入る前から泣いていた。
葬式に流して貰った涙は亡くなった人の徳になる。俺もすこしだけ泣いてやったんだから、感謝してくれ。
そうそう、先に燃やしたマヒルの棺には奥さんが今まで描いた『マヒルの遺書』だけが入れられたらしい。花もなく、由来のあるものは何も入れずに。そして、葬式もさせなかった。
奥さんにどうしてか聞いたら『葬式をしたら他の人に見られるし、触られるから嫌なの。遺書は私宛のラブレターなんです』って言ってたが……どう言う事なんだろう?
奥さん以外はマヒルに触れることは叶わず、死に顔も見られなかった。死んだことを知って駆けつけたら、もう骨になってたから。
二人並んだ遺影は、同じ笑顔をしていたと思う。
まるで『世界には2人だけしかいない』と言っているようだったな。結婚式と言ってもおかしくなかったんじゃないか?あれは。
二人とも骨壷で葬式するとか……初めてだったぜ。
「――準備できてますよ!教官!」
足を踏み入れた公園の芝生の上に立つ若者たちは、俺を出迎えて沸きたっている。マヒルに騙されて、名誉教官になんてなるんじゃなかったな。あんなふうに呼ばれると尻が痒くなる。
「やめろ、教官なんて言うな。マヒルが笑うだろ」
「…………はい」
「マヒル老師は、もう伝説ですよ。僕たちが宇宙に送れるなんて……本当に名誉でしかありません」
「ま、そうだな。俺もそう思ってんだから。
さぁ、2人を宇宙に送ってやろう」
「「はい!!」」
骨壷を乗せたロケットが地上から放たれ、高く高く登っていく。その軌道に白い雲を残し、やがて大気圏を抜け、宇宙に到達した。
ロケットにつけたカメラが星の輝きを見せてくれる。久しぶりに見たな、宇宙なんて。
そっとスイッチを押すと、ロケットの扉が開き、そこから2人の骨粉がふわりと宇宙に広がっていく。
「ようやくお前も引力から解き放たれたな。ふわふわとんで、2人だけの宇宙を楽しんでくれよ……親友」
二人が漂い仲良く飛んで行く様子を見つめる。
そこに、マヒルの笑顔と奥さんの笑顔が重なって見えたような気がした。
マヒルはDAAの訓練飛行服を着て、彼女はハンター制服を着用している。
色気のない服装だな、相変わらず。
背筋を伸ばし、敬礼を贈る。
後輩たちも同じようにして、しばらく画面を眺めた。
全てを貫き通し、たくさんの人を救い続けた2人の英雄の最期を。




