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9記憶よりも確かなもの


「マヒル!早く部屋から出てきて!!」

「…………」

「待ち合わせの時間に遅れちゃうでしょ!早く早く!」

「そんなに急かすな。……と言うか、 何だっていいだろ、服なんて」

 

「ダメ!」




 マヒルが自室から出てきた途端、彼女は腰に手を置き鼻息荒く兄の服装を眺める。すでに起きてから4度目の着替えだ。最初のリラックスしきった姿よりはだいぶマシになった。

 黒い半袖のワイシャツ、白いパンツ……セットのアクセサリーは一切していないがまぁいいだろう、と数回頷く妹に、マヒルはほっと胸を撫で下ろす。


 

「あっ!サングラスは置いてきたでしょうね?」

 

「うっ……パイロットはサングラスが必要だ」

「もぉ〜、ポケットから出して!今日はパイロットじゃないから!!初デートにサングラスする人なんか居ないでしょ?あなたの最大の魅力はその目なんだから。バッチリ決めてきなさいよ!」


「ハァ……別にデートじゃないのに……」





 肩を落としたマヒルからサングラスを受け取り、彼女は手に持った香水を彼に吹きかける。パーティーの時につけたあの香りだ。

 それは甘く、芳しく彼を包み込む。


「これでよし!なんなら泊まってきてもいいからね!」

「な、何言って……バカ妹!」

「行ってらっしゃい、バカ兄さん!」



 顔を真っ赤にした兄は昔と意味の変わってしまった()()を残し、玄関のドアを閉める。

 静かになったリビングで彼女は一人のしのしと歩き、秘密の実験室へと向かう。眦に、小さな朝日の光を宿して。


 ━━━━━━


 

「はーい、ご飯ですよー。順番にね、喧嘩しないの!」


 研究室の明るい光のもとへ集まってくる生き物たち。それは一様に身体に黒く、結晶のようなものを浮かばせている。岩のような姿のそれは『ワンダラー』と呼ばれる外的生命体で、この世界を害する敵だ。


 だが、今朝切ったばかりの新鮮なフルーツをワンダラーに与える彼女には笑顔が浮かんでいた。そして、ワンダラーには表情があるのかすらわからないが、ぴょんぴょんと跳ねている様子は心なしか浮ついて見える。




 

「君にはいつも悩まされてるよ、鹿型さん。毎回必殺技出そうとすると無効化してくれちゃうんだから」

「ピィ」

 

「わ……お返事ができるんだね。私が今まで戦ったワンダラーとも意思疎通ができていたら良かったのに。いや、でもできてたら良心が痛むかも」

「ピィ?」



 ツノを生やし、しなやかな筋肉を備えた鹿型のワンダラーは首を傾げた。鼻先をツンと寄せ、リンゴを咥えて軽やかに跳ねる。


 


「――いいんですか、妹さん」

「ひゃっ!?り、リアムさん!?いつからそこに……」

 

「先ほどです。ワンダラーに与える食料をレーション(戦闘食料)からフルーツに変えたのですね」

「はい。レーションは美味しくないし、これから研究所に閉じ込められることもなくなるなら、美味しいものを食べるのがセオリーです」

 

「そう、ですか」


 

 副官リアムがいつの間にか彼女の背後に佇み、眉根を寄せて話しかけてきた。彼は隠密のスキルでも持っているのだろうか……などと埒もないことを考えながら、彼女は差し出された紙袋を受け取る。

 中にはぎっしり、新品のチューリングチップとセベシングが入っていた。


 

「うわ……こんなにたくさん?今日は試しに1匹だけですよね?」

「はい、一度にやった方が効率が良いので。壊さないでください」

「わかってますよ!さすがリアムさん、こんなに盗めるなんて盗賊(シーフ)になれますよ」

「なりません」




 妙に明るい声音で話す彼女の、ほんのり赤くなった瞼をリアムが見つめる。これはおそらく、涙を拭って擦った痕だろう。

 

 マヒルは先日のパーティーで出会った、妹によく似た女性と会うために出かけた。要するにデートだ。

 執艦官として大きなワンダラーの巣を潰してきた彼の地位は、おそらく上がったのだろう。帰還後はひっきりなしに祝いの品が届いていた。


 そして、満を持して相手方から顔合わせに誘われたらしい。そう仕向けたのはリアム自身だったが、彼の胸には後悔が募っていた。


 マヒルはまだ、彼女についての記憶だけを補完していないのだ。




「研究がうまくいけば、我々はチューリングチップの呪縛から解き放たれます」

 

「そうですね、チューリングチップの支配が世の中に平和をもたらすかもしれません。ワンダラーがこんなに穏やかにしてるのはセベシングのおかげですし。Everの研究もたまには役に立ちますね」

 

「研究についてはプロというだけです。……その、もしかしたら、マヒル執艦官の記憶が戻られないのはチップの影響によるものかもしれません」

 

「どうなんでしょうかね?マヒルの記憶は戻らなくてももう、大丈夫だと思います。仕事も完璧だし、私も晴れてハンターに戻れます」

 

「――もう一度お聞きします。本当に、このままでいいんですか?」


「マヒルが幸せになるなら、私は構いません。リアムさんこそ、そう望まれていたのでは?

 私みたいなハンターよりも、関係ない人の方が彼が安らげると思ったんでしょう?」

 

「…………はい」

 

「私を庇っていつか身を滅ぼしかねない状態だったし、あなたは正しいと思います。私はEverに狙われてますからね」


 


 迷いなく答える彼女は、ぎこちない笑みを浮かべている。ここ数日顔を突き合わせ、マヒルと想い合っていた日々を知ったリアムは――自分の犯した間違いをこの時初めて恥じた。

 彼女は幸せだった日々を無理に取り戻そうとせず、妹として生きていく覚悟を決めてしまっている。


 たとえ自分ではない女性が愛した人の隣に立っていたとしても『彼が幸せなら構わない』と言ってのけた。

 

 彼女が持つのは、本物の愛だった。





「例えば、マヒルがチューリングチップの支配を逃れたとしたら。そして、私に関する記憶が戻らないとしたら……そのまま平和な世界に逃げてもいいと思うんですよね。

 ここでやっていた研究は、私の知人のお陰で本格化することができますし」

 

「N109の支配者とお知り合いでしたね。彼が研究所を提供するとか」

 

「はい。異化の第一任者であるお医者様も、情報通の画家さんも手伝ってくれます。

 私にはハンターとしてのパートナーがいますし、マヒルを逃してあげることくらい出来るはずです」

 

「今のままハンターを続け、あなただけ戦い続けるのですか?」


「はい」





 視線をまっすぐリアムに投げかけた彼女は、今度こそ綺麗に笑った。キラキラ輝く瞳を潤ませて、迷いのない気持ちを伝えてくる。


「私は、勘違いしていました。ハンターさんは、護られて満足する人なのだと」

 

「間違いじゃないでしょう?私は小さな頃からマヒルを犠牲にして、護って貰ってました」

 

「…………」


「私のことを思い出さなくても、大切な妹だと思ってくれているならいいんです。彼もきっと、以前同じことを決意したはずですから。

 爆発事件の後、しばらく接触して来なかった時の彼はそうでした」


  


「マヒル執艦官はいつも、遠くからあなたを見ていましたよ」

「ふふ……ちょっとストーカーチックでしたよね。

 兄さんは私の幸せを思って自分を差し出してくれて。自分は寂しいままでいた。その時の兄さんの想いを、ようやく理解できました」


「諦めるのですか」

 

「リアムさんって残酷なこと言いますね。でも、そんな感じのサバサバした対応を兄さんにして行かないといけないのかも。参考にしていいですか?」


「どう言う意味ですか?」

「兄さんは私以外の人に冷たくないですか?追い詰められてたからかもしれませんけど」


「本心でないことを仰るのは、やめて下さい。あなたほど彼の方を知り尽くした方なんていません。お互いに同じ気持ちを贈り合っていらした筈です」

 

「…………」




 今度は、リアムが彼女にひたと視線を送る。そらされた目線は戻らず、彼女の本心は分かりやすくその姿を見せた。


「妹さんはマヒル執艦官がお優しいことをご存知だ。そう、あなた以外にも。

 例えば……私に対してです」

「リアムさんに?」

 

「はい」




 顎を指先で摘み、首を傾げる仕草はリアムのよく見知った動作だ。一つ気づくと、兄妹の動きがそっくりだとわかる。

 長年ともに過ごし、互いに見つめ合ってきた二人は何もかもが似ていた。

 

 こうと決めたら二度とブレない頑固なところ、意地っ張りなところ、粘り強いところ、そして……底抜けに優しく、大切な人には自分を差し置いても幸せになってほしいと願う純粋な心も。




「私には別れた妻子がいます。チューリングチップを入れた直後は感情の抑制が強く、自分の子供にさえ愛を感じませんでしたから」


 リアムは革手袋を外し、小さなワンダラーを掌の上に乗せる。初めてこの個体を捕まえた時……マヒルは指を噛まれた。

 それでも動じずに笑顔で穏やかな声をかけ続け、小さな命を自宅に連れ帰ったのだ。

 

 その時はなぜワンダラーなどを、とリアムは理解できなかった。

だが……マヒルの普段の様子は、心のうちに眠る確かな思いや決意を鎧としていると気づいた。強い態度で身を守っているのだ、と。さらに、目的を達するために……その鎧で深い優しさを隠しているのだと知った。

 


 拾われたワンダラーは最初こそ警戒していたものの、セベシングを投与して穏やかな環境に置けば小動物のように大人しくなった。


 今やペットのようになつき、猫や犬のように餌をねだり、時には膝に乗って甘えてくる事もある。

 そして、マヒルがここに連れてくるワンダラーは……全て人が異化した個体ばかりだった。


 


 研究が進むにつれてセベシングの服用を完全にやめたマヒルは、副作用に耐えながらもワンダラーの研究を進めている。自分の大切なものを守り抜くために。

 

 最近になって研究を手伝っていたリアムが『感情を取り戻しつつある』と気づいた時、マヒルはタイミングを見計らって〝たまには妻子と面会するように〟と命令した。


 まだ関係が修復できるかどうかなんて……わからないけれど。彼は子が妻に駆け寄る姿に胸を疼かせ、マヒルのおかげで自分が人に戻りつつあることに気づいた。





「私が妻とうまく話せないまま、久々の面会を終えた後です。マヒル執艦官は私の妻の名を読んで話していました。

 ヤオ、と言うのですが。どこにでもいる、ありふれた名前です」

 

「なんか酷いセリフですね?」

 

「すみません、私はまだチューリングチップの支配下から完全に逃れていませんので。

 ……彼が人の名を覚えると言うのが、どんな意味を持つかお分かりですよね? 

 ただの副官である私の妻の名を覚えていらした。そして、二人は既知の間柄だった。……その時の、私の気持ちがわかりますか?」




 胸の奥から迫り上がってくる感情は、激しくリアムの心を揺れ動かす。チューリングチップが働きかける寸前でそれを律し、心拍を抑え込み……穏やかな感情の中に激情を包み込んだ。

 

 感情のコントロールは、Evolのコントロールによく似ている。小さな頃から持っていた異能の扱いを、改めて教えた上官はリアムの大切なものをきちんと知ってくれていた。

 それをなくさないために、妻から言葉の矢を受けながらもリアムの代わりに引き留めてくれていたのだ。




「ですから、あなたが諦める必要は……」

 


 そうリアムが言葉を口にした時、彼女は瞼を閉じてふ、と声を漏らした。まるで、マヒルの様に。

 リアムはようやく気づく。パーティー会場でも、今まさにデートに出掛けて行った上官からも香る甘い香りは彼女のものと同じなのだと。



「私、とっても諦めが悪くてしつこいんですよ。この研究に携わっていて、妹であるならば兄さんと離れることはありません。

 いつかきっと、私の兄さんはマヒルとして戻ってきます」



 そう言って、晴れやかな笑顔のままワンダラーたちの世話をする彼女を見て副官リアムは呆然とするしかなくなった。



 

 ━━━━━━

 

「これは、怒られる案件だよな」




 マヒルはデートを早々に切り上げ、墓地で立ち尽くしていた。自分の名前が刻まれた墓を横目でやり過ごし、祖母の墓へとやってきている。

 道中で買った紫陽花は自宅にある『エンドレスサマー』とは違う種類だが、純白のそれが気になって買ってしまった。


 久しぶりに墓前に立ち、刻まれた名をなぞる。二人の兄妹を育てたスエは、最終的に自分たちのために生きてくれていた。それだけが今は思い出される。

 

 そして、その記憶の中には妹がいた。幼少の時の記憶を『昔、マヒルは……』と語る彼女は幸せや悲しみ、悔しさ、怒りと様々な感情を浮かばせながら、当時の思い出を彩っていた。

 今日、会ったあの女性(ひと)とは違う。


 マヒルは名前すら覚えられず、終始笑顔だった女性には違和感しか覚えなかった。


 顔立ちも髪も骨格も妹によく似ていた筈なのに、何もかもが違って感じられた。

 女性に対して失礼だったとは思うが、会って数時間で仕事を言い訳にして逃げてきてしまったのだ。




 妹なら、こう返すだろう。

 妹なら、ランチに食べたい物を主張してくれるだろう。

 妹なら、次々に行きたいところを告げて手を繋ぎ、連れ回してくれるだろう。

 

 今日あった人は『マヒルさんにお任せします』とだけ告げた。優しさなのかもしれないけれど、そっと腕に触れた指先の熱が耐えきれなくて。


 違和感の正体はおそらく嫌悪感だろう。何も知らない者同士であるはずなのに、何もかもが好きじゃないと彼は感じた。

 自分の心の中に湧き上がる、わけのわからない感情に混乱してしまい……好意を向けていてくれているだろう人を拒絶してしまった。





「……オレ、何やってるんだろな。オレの幸せを応援してくれた妹と比べて、逃げてきちまった。

 ばあちゃん、ごめんな。こんな最低な男で」


 深空トンネルから帰ってきた後、彼女は一貫してマヒルを『兄さん』と呼ぶ。それまで『マヒル』と読んでいたことになぜか安堵していたのだと、彼自身はようやく気づいた。

 

 そして、現状が意味もなく歯がゆい。火にくべられた薪のようにジリジリとその身を焦がす、焦燥感がいつまでも消えない。どうしていいかわからない。


 マヒルは自分の記憶を必死で探り、身の回りの手がかりを探した。

 そして……見つけたのだ。いつもつけていただろう『マヒルの』帰りを願うネックレスとペアリングを。彼女の中指にも、同じ指輪が光っていた。



 

 

 まさか……と、彼は逡巡する。


「オレ、妹と付き合ってたってたのか?でもアイツは、そんなそぶりを見せてない。いや……あの日はキスしてきた。

 まさかオレが一方的に関係を敷いてた、とか?」

 

 マヒルの頭の中では

 『妹と恋仲だったはず』

 『いつから?そしてなぜ今それを主張してこない?』

 『もしかして別れてるのか?』

 『そんなはずは……まさか、体の関係だけを強要していたのか?』


 ――と問答が繰り返されている。


 先ほどまで感じていたよく知らない女性のことなど、いつの間にか記憶の影すら残さず跡形もなく消え去っていた。


 



「ばあちゃん……どうしてオレは思い出せないんだ?なんでアイツがこんなに頭の中にいる?わからないんだ」


 切ない自白は掠れて、最後まで音として現れない。これを聞く人は一人もおらず、問いかけた人はもう、この世には存在していない。


 項垂れたまま彼は日暮までそこで過ごした。時の流れなど感じないほどに集中しているのに、自分の中の記憶の扉は開かれない。

 重く、苦しい気持ちで吐息を吐いた瞬間――耳の中から通信音が響く。


 


「リアム、秘匿回線なんか使ってどうし……」

「今どちらにいらっしゃいますか!?緊急事態です!」


 珍しく気色張った声が耳の中に大音量で響く。冷静な副官がここまで慌てるとは……何が起きたのか。

現時刻を確認しようと腕を持ち上げ、時計を見ると20:00を示している。



「目標座標を送ります!大至急そちらへ!私も隊員を連れて参ります」

「一体全体どうしたんだ。街中……って事はネズミの始末か?」

 

「ネズミは間違いありませんが――妹さんが攫われました!!」




 その一言を聞いた瞬間にマヒルの足は地を蹴った。全速力で駆け出し、車に乗り込んでエンジンをかける。

 

 座標をホログラムスクリーンに浮かべつつ、アクセルを目一杯踏み込んだ。



 ━━━━━━


『左官一派によるクーデターです。以前から遠空艦隊の変わりように不安を感じていた者たちが、反乱を起こしています』


「くだらない茶番だが、なんでうちの妹が攫われるんだ」

『主犯は、先達のパーティーで接触しています。彼女の有能さを見出し、また新進気鋭のマヒル執艦官……あなたの弱点だと知って動いているのです』

 

「チッ……」



 

 舌打ちを落とし、現場に到着したマヒルは妙な胸騒ぎを覚えた。繁華街から隠れるようにして建つ廃ビルに駆け寄り、腰に下げたホルスターからハンドガンを抜いた。


 壁に背をつけ、気配を消すために呼吸を落とす。慎重に入り口のドアに近づくうち、次々と遠空艦隊の仲間たちが現着する。

 リアムが執艦官専用の拳銃を渡し、彼が受け取ろうとしたその時……ふと、甘い香りが漂った。


 


 胸騒ぎの域を越え、ただの勘だけがマヒルの体を突き動かす。リアムが驚いた顔をしているが、構ってなどいられない。

 入り口のドアを過ぎ壁に沿って曲がった瞬間、頭上から派手にガラスを破る音が響いた。


 咄嗟に足を踏ん張り、両手を掲げる。

 パタパタ、とマヒルの頬に熱い雫が降り注ぐ。これは、妹の流した血だ。

 ――そのはず、なのに。

 

 降り注いだ血液は、皮膚に触れた瞬間灼熱を産む。それはマヒルの全身に広がって、胸の奥を震わせた。

 何かを目覚めさせるには十分な衝撃を与えたのだ。



 


「やっ、ぱり。兄さんがいた」

「お前……」

 

「ごめん、ね。怪我しちゃった」


 鼓動が臨海に達し、感情の波が激化してチューリングチップが起動しかける。

だが、今Evolを封じられるわけにはいかない。大切な人がこの手に戻るまでは。


 彼の腕の中に、ふわりと舞い降りた彼女は血まみれだ。全身傷だらけで、衣服が無惨に破れている。


 いつものように上着を脱ごうとして、今日着ていなかったことにマヒルは驚く。

 そう……いつも彼女が『寒い』だの、『暑い』だの気温を見誤るから。彼は、どこに行くにも上着を必ず着用していた。

いつも必ず……彼女が隣にいた。


 


 震える体の律動をそのままに彼女を抱きしめると、ガラスのかけらが降り注いでくる。それらを引力操作のEvolで留め、必死で何か喋ろうとする妹の口元に耳を寄せた。


「データ、ここにある、から。犯人……証拠の、」

 

「バカ!何言ってんだ!!お前、こんな高いビルから落ちて来て……オレがいなかったら……」

 

「兄さんがいるって、わかってたよ」



 そうきっぱりと告げて、彼女は自分のはだけた胸の谷間から小さな記憶媒体を取り出した。

 犯人へと繋がるデータを取ってきたことを誇らしげに示して掲げ――気を失った。


「なっ!?……上か!」



 マヒルを追いかけてやってきた隊員は頭上を見上げ、入り口に戻っていく。

 

「あなたは彼女のお傍に」

「……リアム、いい。オレが行く」


 


 静かに立ち上がったマヒルは、こめかみ部分に血管が浮き上がっている。奥歯を噛み締める音がギリ、と薄暗い路地に響いた。

 チューリングチップの起動音が聞こえては消え、何度も彼が臨界点を超えそうになっていると隊員たちに知らせている。

 

 

 彼は、リアムに『頼む』と大切な妹を預けて廃ビルに正面から入って行った。

  

 

 


 

 


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