BDss.3/3終わらぬ夜
マヒルside
「……んむ、ん」
「起きたのか?」
「むにゃ、ぷぅ……」
「まだ寝てていい。腹が減ったら起きてくれ」
「ん……」
自分の胸の上で眠っている彼女を見つめて、ため息が出た。
寝室の時計の針はすでに12時、今日の休みは限定的な時間だけだったが……こんな風に無防備な姿のままでいる恋人を置いて出勤などできるはずもない。
幸い、航行任務はここ二、三日はなく書類仕事だけだ。先ほどデータで届いたものを自宅で処理すると伝えて、休みを延長することに成功した。
カーテンを閉め切っているから、部屋の中は暗く昨日の夜のまま時が止まっている。適当に置いてしまった衣服はプレゼントの一つとして貰ったものだったが、今はきちんと畳んでやることはできない。
オレの腕の中には……この世の何よりも大切な人がいるから。
昨夜は、二人して泣きながら抱き合った。最初に流れた涙の意味は同じだったが、最後は違っていたのかもしれない。
瞼が腫れるだろうから、冷やそうと思っているうち、そのまま一緒に眠ってしまった。案の定、二人とも瞼は腫れている。
オレが泣かせたんだと思うと申し訳ないような、嬉しいような。いや、正直に言えば幸せな気持ちの方が優っている。
彼女は、オレが一番欲しいものだった。小さな頃からずっと手に入れたかった人が今、手の中に居ると思うとにやけてしまうのを止められない。
目が覚めたら、風呂に入って朝飯を作って。きっと体が自由にならないだろうからたくさんわがままを言ってもらおう。
昨日の夜は散々甘えさせて貰ったから。
「……けほっ、ん゛……んん゛」
「喉が痛いのか?水飲むか?」
腫れた瞼が開き、澄んだ色の瞳があらわれる。オレとお揃いの垂れた目は何度か瞬き、眠りからまだ醒めやらぬまま微笑みを模った。
「おは、よー」
「あぁ、おはよう。喉が枯れてる。水を飲んで、のど飴……いや、飴はやめとこう」
「ん、ふふ……そしたらキスしなきゃだもんね」
「そうだな」
「……すんすん」
「?」
前髪に寝癖をつけたまま、寝ぼけているのか鼻をヒクヒクし出した。その姿に愛おしさが増して、柔らかな頬を撫でる。
寝起きの姿は何百回と眺めているが、見飽きたことはない。それでも、今朝の姿はいつもより一層愛おしく思えた。
「すん、すん」
「もしかして汗臭いか?」
「ううん、昨日の匂いが欲しいの」
「昨日の匂い?レモン飴か?」
「ちがうの……ん、この匂い」
ゆらゆら揺れながら近づいてきた彼女は、オレの首元に顔を埋めて幸せそうに微笑む。
昨日は香水なんかつけてないのに、なんの匂いだろう。オレも彼女の匂いが好きだからなんとなくわかる気もするが。
心許ない動きをサポートしてやると、細い腕が首に絡みつき、唇が喉仏に触れる。柔らかい感触と共に歯が当てられて、優しく齧られる。
「んっ……悪い子だな、そんなところに噛み付くなんて」
「ふふ、マヒル……好きだよ」
突然の甘い言葉に心臓が跳ねる。急激な変化でアレが起動したらまずい。深呼吸して、柔らかな黒髪を撫でた。
「どう、したんだ?急にそんなこと言って」
「すき、好き。マヒルが好き。マヒルの初めて貰っちゃった。すごく嬉しい」
「な……っ」
「すき。愛してる。マヒルはもう私のだから。誰にもあげないよ」
「…………」
寝ぼけているとは言え、こんな言葉をもらえて嬉しくないわけがない。思わず衝動のままに唇にキスすると、驚いた彼女が瞳を開く。
「今度こそ起きたか?」
「……ぇ?マヒル?」
「あぁ、お前のマヒルだ」
「ぇ、ぁ、わた……わたし、あの……」
腕の中で頰を朱に染め、顔を隠されてしまった。本当に可愛い。
胸の内から溢れる想いを込めてたくさんのキスを落とすと、そっと小さな手のひらが開いた。
中には真っ赤に染まった笑顔があって、思わず息を呑む。なんて綺麗な人なんだろう、なんて今更な言葉が思い浮かぶ。
彼女をずっと見つめてきた。小さな頃に出会ってからずっと好きだった。だから、見慣れているはずの顔が……見たこともないような美しさを纏っていて、思考が霧散してしまう。
「寝ぼけてたの。忘れて!」
「…………」
「あれ……マヒル?どうしたのぼうっとして」
「お前が……あんまり綺麗だからびっくりしちまった」
「…………」
「…………」
お互い目を逸らし、何を言ったら良いかわからなくなってしまった。そわそわと先に動き出したのは彼女だ。オレのネックレスを掴み、ドッグタグとリンゴのチャームを両手で触っている。
「なんか照れるね」
「そう、だな」
「今何時?寝坊しちゃった気がする」
「あぁ、もうそろそろ昼だ。腹が減ったか?」
「えっ!?お、お仕事の時間でしょ!!なんで起こしてくれなかったの!?」
「休みは延長した。まだゆっくりできるから問題ない」
「はぁ、びっくりした。じゃあお風呂入って、ご飯にしよ!それから……」
「うん。……なぁ、話しておきたいことがあるんだ」
首を傾げた元妹は瞳の色を翳らせた。オレがかしこまって言う事に、今までいい物はなかったからな。
不安を払拭するように額をすり寄せると、ほっとしたような顔になった。
「悪いことじゃない?」
「……多分」
「なにそれ。早く言って」
「もしかしたら知ってるかもしれないが、オレは男性用ピルを飲んでる」
「…………うん?」
「お前もハンター協会が支給したモノを普段から服用してるだろ?
オレは何かあった時のために、男用のそう言うものを飲んでるんだ」
遠空艦隊は、政治色の強いしがらみが多い。ハニートラップなんかもしょっちゅうある。だが、それを話してしまうのは野暮というものだろう。
まだ終わらぬ夜の熱を抱えて……恋人を手の中に閉じ込めたままでいるならば。余分なことを言う必要はないし、オレはそんなものに引っ掛かる理由がない。
だが、保険のためにそう言ったものは一通りきちんと対策をしてある。
今の時代は色んな意味で戦時中のようなモノだ。オレたちはそこに深く関わる戦闘員なのだから、こういった薬は複数所持している。
今回の場合は不可抗力だが、彼女の意思を無視した結果は防げた。
「えっと……避妊してる、ってこと?」
「うん」
「あ、そっか。昨日アレしてないもんね?」
「そうだ。病気の可能性なんかないけど、そう言う結果にはならない。
お前はハンターの仕事をまだやりたいだろ?だから、心配しなくても大丈夫だって言いたかった」
「ふぅん……そうなの」
思っていた反応と違うな。片眉を跳ね上げ、何か考え込んでいるようだがおかしな事を言っただろうか。
「マヒルなら、別に……」
「え?」
「モゴモゴ……」
「なんだよ急に。歯切れが悪いな」
ネックレスを握ったままの彼女が胸元に顔を押し付けてくる。耳が赤い……これは……。
「マヒルとなら構わない」
「…………」
「赤ちゃんとか、そう言う……将来は欲しい、し。マヒルが嫌じゃなければだけど、」
「……………………」
衝撃のあまり神経伝達阻止のアラートが耳のうちに鳴り響く。だが、勝手に動いた腕を止める手段などない。
彼女をかき抱き、湧き上がる衝動を必死で抑える。
――こんな感情、知らなかった。
好きだと言えば応えてくれる。手を握れば握り返してくれる。抱きしめれば抱きしめ返してくれて『欲しい』といえば『いいよ』と言ってくれる人がいる。
オレのために笑って、泣いて、怒って、全ての感情と出来事を分かち合おう……そう言ってくれる人が、たった一人愛した人だなんて。
それがたまらなく嬉しい。誕生日はいつだって幸せだったけれど、今年は今までの人生の中で一番幸せだ。
「そう言ってくれて嬉しいよ、すごく。でも、お前を困らせたりしない。ずっと一緒にいたいから、しあわせにしたいから、そう言うこともきちんと話そう」
「……うん」
自分の声が震えているとわかっていても、愛してると身の内から溢れ出る想いが吐き出されてしまう。口を閉じたままの彼女はネックレスにキスをして『わたしも』と囁いた。
力一杯抱きしめあって、しばらくするとトントンと胸を叩かれる。
「そろそろ苦しい。そんなにぎゅうぎゅうしないで」
「ごめん。飯にでもするか?」
「うーん?空腹なのか、よくわからない……なんだかまだ、マヒルが中にいるみたいで」
「………………」
「マヒル?」
「……ふぅ、お前はそうやって無自覚に煽るのが得意なんだよな、よくわかってる。オレはずっとそれに耐えてきたんだ」
「え?な、なに?」
「腹は減ってないんだな。じゃあ、痛みは?腰は問題ないか?」
「ん……うん。はい」
「さすが最強のハンターさんだな。じゃあ、オレが言いたいことは一つだけだ」
いつものように顔を覗き込み、じっと見つめる。手のひらで腰をさすると、オレの欲望に気づいた彼女が目を見開く。
「お前の声がもっと聞きたい。可愛くて、色っぽくて、あんな声が出るなんて知らなかった。愛情が増すとどんどん恋人が綺麗に見えるようになるってのも納得した。……すごく綺麗だ」
「ま、まっ……待って」
「お前が応えてくれることが、こんなに幸せだなんて思ってもいなかった。もう誕生日は終わったけど……わがままになっていいって言ったよな?欲しいものを欲しがっていいって」
「そう言ったけど、」
「じゃあ、」
「ま、……待って!あの……私、わたし……どうしていいかわからなくなっちゃうから、ちょっと今日は遠慮したいなぁ、なんて」
「なんだ、ダメなのか」
「その顔やめなさい!き、昨日だって、自分が言ったことほとんど覚えてないし、マヒルが好きで好きで仕方ないって頭の中がいっぱいになっちゃうし……」
「へぇ?」
「もっと好きになっちゃうかもしれないでしょ。怖いの!」
小さな手の中で温められたチャームたちを救出して、代わりにペアリングをつけた左手を重ねて指を絡め、しっかり繋ぐ。
かちり、と金属の触れ合うリングチャームの音がして……鼓動が早くなっていった。
「そう言うことに関してだけは、オレは先輩だからな。大丈夫だ、受け止めるのがオレだから、どこまででも好きになってくれ。際限なくても問題ない」
「……うっ」
「これでもだめか?」
「ダメ、じゃないけど!私、力が入らないんだよ?」
「オレが全部してやるから心配するな。お前はただ気持ちよくなっててくれればいい」
「くっ…………うーん」
「まだ『待て』なのか?」
「……………………今日だけだよ」
「あぁ、今日だけはわがままを聞いてくれ」
瞼が閉じられて、その動きに誘われるまま唇に触れる。上唇を優しく噛むと、小さな笑いがこぼれて体の隅々まであたたかい気持ちが広がっていった。
――オレは心の奥でそっと誓う。
この人を、オレのすべてで守る。どんな運命が待っていようと、二人で乗り越えて……しあわせな未来を掴んでみせる。どんな形でも必ず生き残って、彼女が望んだ家族になりたいから。
夜の帷はいつまでも上がらない。二人の時間が、ただ穏やかに流れていく。
何があっても二度と、彼女を手放したりしない。
胸の中でそうつぶやいて、26回目の……自分がこの世に生まれた瞬間を祝ってくれた可愛い恋人を抱きしめた。