むき出しの心
明るい日差しの差し込む朝、食後の気だるさに任せて私はソファーに寝転がっている。
コーヒーを淹れてくれたマヒルは目の前のローテーブルにカップを置いて、横に座って自分の膝をポン、と叩いた。
「お前の枕はここだぞ」
「恋人になった途端そんな事も強要するの?」
「別に強要じゃない。ただ、そのままだとお前の首が痛くなりそうで心配なんだ。昨日の夜散々痛い目見た彼女を労わろうと思って」
「……誰のせいなの」
「オレ以外だと困るな。そいつを殺さなきゃいけなくなる」
いつものように心臓を瀕死に追い込む一言を放ち、彼はいたずらっ子のようにヤンチャな笑顔を浮かばせる。
『可愛い顔で言うセリフじゃないでしょ』と突っ込みたいが、そんなことを言ったら『じゃあどんな顔ならいい?教えてくれ』と藪蛇を突くことはわかっている。
ここは口を噤むのが賢明だ。
「体はおかしくないか?」
「っ――そ、そう言うのやめてよ。別に……」
「だって最後の方は泣いてただろ?ごめんな、歯止めが効かなくて」
「………………」
私は筋肉質な太ももの上に自分の頭を置き、額の上で滑る彼の指先を感じた。私の義兄は昨日の夜恋人になった。
小さな頃から一番そばにいて、一番好きだったのに遠回りしてしまったのは何故だろう。私たちの抱える厄介な生まれの問題なのか、それとも。
長い指先にくすぐられて、そっと彼の顔を仰ぎ見る。マヒルの口端は目覚めた時から上がりっぱなしで、頰が緩み切っている。一緒にいる時はいつもこんな顔をしていたけど、ここまで酷くなかった気がする。
私はマヒルのアンカーポイントであり、帰るべき場所だった。それが誇りでもあった。
でも……私自身は安らぎだけではなく、苦しみや哀しみ、焦燥や自己犠牲を与えていたのだ。
胸にちくりと痛みが走り、瞑目する。
私は……どんなマヒルでも受け入れてみせる。たとえ、彼の体に埋め込まれたチューリングチップが過去の優しい思い出を消したとしても。この先で全ての記憶をなくしてしまったとしても。
寄り添った長い月日が、二人の絆をいつまでも固く結びつけてくれると信じている。
明らかな敵であるEverが、彼の精神に影響を及ぼしていることは明確だけれど、今だに全容はわかっていない。対策も立てられないのが現実だけど……義妹から恋人になったなら、出来ることが増えるはずだ。
至高の海に沈み、悩み続けているとすぐ近くでため息が落ちる。ハッとした瞬間、額にあたたかな唇が触れた。
「眠いか?ベッドに運んでやろうか」
「ううん、いい。マットレスの上に横になると、ちょっと腰が痛いの」
「…………本当にごめん」
「謝られると、余計恥ずかしいからやめてよ」
「ふ……わかった」
熱くなった私の顔は、きっとりんごのように真っ赤になっているだろう。両手でそれを隠すと、再び柔らかい熱がふれる。
彼は音を立てて何度もそこにキスを落とし、耐えきれない気恥ずかしさに呻き声を上げるしかない。
「これからずっと、こうしてキスしていいんだよな?額や頬や、手のひらや指先じゃない所にも」
「…………くっ」
「なぁ、恋人の特権を使いたい。扉を開けてくれ」
「…………うぅ」
「うーん、なかなか開かないな。鍵はもう貰ったはずなのに」
間近に迫った彼が笑うたびに、手のひらに吐息がかかる。それは昨日の夜の熱をまだ宿しているような気がした。
ふと……チャリ、と音がしてシルバーのネックレスがふれる。彼の体温が移った暖かい金属の感触に手を伸ばし、握ると視界は輝くような笑顔だけになる。
「やっと顔を出したな。まだ拗ねてるのか?」
「拗ねてない。……マヒル、どうしてネックレスをいつも洋服の外に出してるの?」
「ん?……あぁ、これはお前がくれたものだから」
「え?なんで?男の人にしては可愛すぎるかな、って気遣ってチェーンを長くしたのに。
これなら襟の下に隠れるでしょ?」
「それじゃオレ以外に認識してもらえないだろ。オレがお前のものだと言う証なんだから見せびらかすんだ」
「私がご主人様なの?」
「あぁ、そうだよ。オレはお前のものだ。小さい時にはじめて目が合った時から、ずうっとそうだった」
「…………」
手の中にあるりんごとドッグタグのチャームがついたネックレスは、彼がパイロット養成学校に行く時プレゼンしたものだ。
シルバーのタグには『when u come back』の文字が刻まれている。これは所有印と言うわけじゃ無かったのに。
「理由はそれだけ?」
「オレは昔からモテる」
「否定はしないよ。見た目もいいし、頭もいいし、学校でも、深空宇宙機関のパイロットやってた時も……ずっと人気者だから。バレンタインも誕生日も、お菓子の消費が大変だった思い出しかないもん」
「消費してくれて助かったよ。でも、お前が食べなきゃ受け取らない」
「妹のおやつへ、お気遣いありがとう。それで、モテるからなんなの?」
「昔、大学にお前を呼んで彼女だって吹聴した事もあったな。だが……後悔した。何故なら可愛いお前が多くの人に知られてしまったからだ」
「…………」
「オレがいつも通り虫除けしなければ、猛アプローチを受けていたかもしれない。クソみたいな奴にな」
「うーん、そんな言い方しなくてもいいんじゃない?」
「いや、間違ってない。オレの彼女だって言ってるのに、あまりに可愛いからって手を出そうとしてる奴は敵だ。掃除をする必要がある」
「……昔からそうやって、私の身の回りの男の子をお掃除してきたってことね」
「あぁ、そうだ。本当は小さい頃みたいに屋根裏に閉じ込めて、誰にも見せたくないがそうはさせてはくれなかった。
その後奇跡的にオレの手におさまってくれたが、『好きな人を閉じ込めたい』と言う夢はいつ叶うかな」
「監禁しなくても両思いになれたんだからいいでしょ。話を戻すけど、女性避けでいつも外に出してるってこと?」
不穏な話題になってきたので、道筋をあからさまに逸らす。彼は私を何度も閉じ込めてきたから。
本来自由を愛する気性の私が、本当は閉じ込められて喜んでいたなんて知られたくない。本当に監禁されてしまう。
「このネックレスは、お前がくれた唯一の繋がりだった。
お前を想う時に、オレの心を全部受け止めてくれていた。だから、隠したくないんだ」
「…………」
「何か言ってくれよ」
「…………言えないよ」
『どうして?』と耳元で囁く声に、体の熱が上がっていく。
……いつも、こうなの。
マヒルはちょっかいをかけると特大の愛情で反撃して、押しつぶす。そしてぺちゃんこになった私を見て満足するのだ。
今日も今日とて、心臓は早鐘を打っている。寿命が縮まりそうなほどに。
しかし……私はワンダラーという危険な獣を狩る、深空ハンターとして逆襲しないわけにはいかない。たとえそれが罠だとしても、自らそこに足を踏み入れなければならないのだ。
私が手に入れた地位は、それを義務としている。
「このネックレスは、マヒルの長年の想いが込められてるんだね」
「あぁ。お前を想って、お前にキスするように触れてた」
「くっ……そ、そうですか。私はマヒルの恋人になったし、それを受け止める義務があるよね?」
「そうしてくれると嬉しいが、どうやって?」
「……チュッ」
私はドッグタグに唇で触れる。一緒にリングに通されたリンゴのチャームが揺れる。
何度もそこを触れていると、長年の蓄積された想いが伝わって胸が締め付けられる。
マヒルの一番の魅力と言っても過言ではない、綺麗な朝焼け色の瞳。
それが闇に染まる過酷な試練と痛みを抱え、必死に戦ってきた『孤独』がここにある。
そして、変わっていくマヒルに恐怖して、私が彼を突き放す度に苦しんで……落とされた奈落の底で、彼はこうして唇で決意を繰り返した。
自分を犠牲にして死さえ恐れず命をかけて、私を守ってくれていた。それはまごうことなき事実だった。
長年の孤独を支えてくれたネックレスには、全てが詰まっている気がした。
「…………」
「すん。なんだか涙が出ちゃった……マヒル?」
眦に浮かんだ雫を拭い、顔を上げると耳や頰が真っ赤に染まったマヒルがそこにいる。キリッと上がっていた眉毛は垂れて、目が潤み……『オレを必要としてくれ』と叫んでいた時の顔があった。
「オレの過去も、愛してくれるのか?」
「……うん」
「そうか、生き残ってよかったなって実感したよ。すごく嬉しい」
「そう」
「でも……」
言葉の続きを待っていると、とろけるように幸せそうな笑顔が浮かぶ。私はそこから発せられるあたかな眼差しに射止められて、身動きができなくなった。
「これからは、オレに直接してくれ。ネックレスは処分したくない」
私の唇に、マヒルの心が雨のように絶え間なく降り注ぐ。
私は純粋すぎる愛情に息つくこともできず……反撃はいつも通り失敗したのだと思い知った。