後悔なんてしない
何度生まれ変わっても、私はこの手を取るだろう。
あの日選んだこの道を、私は生涯、後悔することはない。
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私と夫は、政略結婚だった。
それはもう、完全無欠の。
夫は現在、近衛騎士団長として辣腕を振るっている。結婚前、彼は王太子妃付きの護衛官で私は王太子妃付きの侍女だった。
彼が王太子妃殿下を熱い眼差しで見ていることは、その時から知っていた。私だけではなく王太子殿下も世話係の侍女も、周囲はほとんどその眼差しが持つ思いに気づいていたのではないだろうか。
もちろん、妃殿下本人も。
聞くところによると、彼と妃殿下は幼馴染だったらしい。
二人は幼い口約束で「おとなになったらけっこんしよう」と言っていたというが、妃殿下の実家は公爵家で彼の実家は男爵家。武に長けた一族だと重宝されているが、公爵家令嬢とは身分の差がありすぎる。
その結婚が叶うことなどありはしないことを、幼い本人たち以外は全員、わかっていた。
そして二人は成人を迎え、妃殿下は王太子殿下の婚約者となり、彼は私の婚約者になった。
私が選ばれたのは、王宮侍女として働いていたことと名ばかりとはいえ、伯爵家の一人娘だったからだと思う。
彼が私と結婚して婿入りすれば、少なくとも我が家の爵位を名乗ることができるからだ。
私との縁談を彼に勧めたのは、妃殿下だという。
自分の身近に彼を置いておくには、少しでも身分が高いほうがいい、とでも思ったのだろうか。
そして、私と彼の方が先に結婚をした。
これもおそらく、妃殿下のご指示なのだろう。
巷で人気の恋愛小説のように初夜の場でいきなり白い結婚を宣言されることはなく、私たちはごく普通の“政略結婚の夫婦”になった。
◇
そして時は流れ。
王妃陛下主催の、詩の朗読会へ出席していた私の肩が、背後からぽんと叩かれた。
振り返ると、王太子殿下が片手をあげて立っている。
「やぁ、ひさしぶり。珍しいね、貴女がこういった場に顔を出すなんて」
いくら親しい間柄であっても、貴族が背後からいきなり他人の肩に触れるということはまずない。その上、私にはさして親しい友人はいない。
だから振り返った先にある王太子殿下の顔を見ても、特に驚きはしなかった。
「わたくし、朗読会が大好きなのです。いつもはまるで狙いすましたように子供や自分自身が体調不良になり出席できなかったものですから、本日は楽しみにしていました」
「そうか。貴女は彼から聞いているだろうけど、北方の難民自治区で不穏な動きがある。そんな中で呑気にこんな会を開いていていいのか、とも思っていたが、楽しんでくれているのなら良かったよ」
確かに、呑気だと思う。
ここのところ、気候が安定せず国内ではあちこちで水害や農作物に被害が出ている。この朗読会の開催費も、国民の税金だ。こんなことをしている暇があったら、被災地に支援の一つでもすればいいのに、と思う。
「子供たちは? 連れてくれば良かったのに」
「いいえ、静謐な場に連れて来るのはまだ早いですわ。義両親に預けております」
「そうか」
王太子殿下は軽く微笑み、ちらりと視線を動かした。
視線の先には妃殿下。そしてそんな彼女にぴったりと寄り添う私の夫。
夫が妃殿下に向ける目には、昔浮かんでいたような甘く蕩ける熱はない。けれどそれが逆に、妃殿下に対する深い深い思いを表しているようだった。
「……本当に、一途な方だわ」
思わず呟いた言葉に、王太子殿下がぴくりと反応をした。
「……貴女には、申し訳ないことをしていると思っている」
「まぁ、殿下。いったい、なんのことでしょう」
「……いや、なんでもない」
──彼らの関係は複雑だ。
妃殿下と正式に婚約をする前から、王太子殿下は妃殿下とその幼馴染である護衛官が思い合っていることを知っていた。けれど殿下はそれを咎めることなく、時に切なげな視線をかわす二人を黙って見守っていた。
そこまでして妃殿下に嫌われたくないのか、時に滑稽なほど殿下は妃殿下のお気持ちを優先し続けた。
幸い、妃殿下は王太子妃としての仕事を投げ出すような性格ではない。仕事には懸命に励み、王太子妃として殿下を献身的に支えていらっしゃった。
侍女仲間だった友人に聞いたのだが、殿下はその心意気に打たれたのかわきまえている妃殿下への褒美なのか、定期的に彼らが二人きりになれるような時間をあえて作っていらっしゃるらしい。
今が、正にその時間。
表向きは“政務に向かわれる王太子殿下のご命令”という体で、夫は妃殿下に寄り添い何事かを一生懸命話しかけていた。
私には夫から話しかけてくることなど、ほとんどないというのに。
「殿下。ご多忙のところ申し訳ございませんが、一つだけよろしいですか?」
「……うん。いいよ。なにかな」
この疑問。
もっと早くぶつければよかったのかもしれないけれど、訊いてもどうしようもないと思っていた。
けれど、なぜだろう。
今、どうしても訊いてみたいと思った。
「殿下は、そこまで妃殿下を思っていらっしゃるのならどうして、彼と妃殿下が一緒になれるように尽力して差し上げなかったのですか? 彼に爵位を与えるとか口添えをするとか、できることは色々とあったと思うのですが。愛する人に心からの幸せを、とは思われなかったのですか?」
「……私の妻に、王太子妃に相応しい立場の令嬢は、彼女しかいない」
そんなことはわかっている。
私が言いたいのは、そんなことじゃない。
「それだけですか?」
殿下は顎に手を当て、左右に目を泳がせた。
「……いいえ。ありがとうございました。申し訳ございません、本当は訊かなくてもわかっていました。殿下は妃殿下を誰よりも愛していらっしゃるのですよね。だから嫌だけれど、妃殿下が心を許せる存在を側に置くことを選択なさった」
そして、私を彼にあてがった。
万が一、妃殿下と彼がなにもかも捨てて手に手を取り合い、逃避行などしたりしないように。
彼の足首にはまった足枷。それが私。
「彼のように見目もよく頭もいい男性と結婚ができた。子供も産めた。その前に、子供が産まれるということは夫婦の関係を持っていなければならない。そんな素晴らしい男性の腕の中で眠れただけでありがたいと思え。はい、そのお考えは重々、この胸に刻んでおります」
「……違う。そうじゃない」
なぜだろう。殿下はどこか苦しそうな顔をしている。
「違うんだ。いや、最初はそのつもりだった。貴女の言う通りだ。でも、彼らの間にあるものは、そういうのではなかったんだ」
「そういうのではない、とは?」
「……確かに妻も彼も、お互いを深く思い合っている。妻は彼の存在があるからこそ、王太子妃という大役をこなすことができているのだろう。それに対して嫉妬をしなくはなかった。でもそれは、男女の性愛を超越したものだった。私もそれをようやく理解したんだよ」
「男女を超越、ですか」
思わず鼻で笑ってしまった。
不敬だわ、と思ったけれど、笑ってしまったものはもうどうしようもない。
「殿下は妃殿下、妃殿下は殿下と彼、彼は妃殿下。皆さん、それぞれ自分が一番大切なものを手にしていらっしゃる。羨ましいですわ。これからも私は、皆さまが心置きなく幸せを感じられるように日々務めさせていただきます」
王太子殿下は、蒼白な顔で首を左右に振っている。どうなさったのだろう。なにか言いたいことがあるのなら、遠慮なくおっしゃったらいいのに。
「……聞いてくれ。私がこうして何事もないようにいられるのも、男として愛されているのは私だけだ、という自信があるからだ。彼も同じだよ。妻として、女性として愛しているのは貴女だけなんだ」
私は思わずつきそうになった溜め息をギリギリで呑みこんだ。
この人は、本当になにもわかっていない。
「では、わたくしはこれで。王妃陛下にご挨拶をさせていただきませんと」
王太子の相手をするのが面倒になり、一礼をしてさっさと背を向ける。その直後、会場の真ん中からわぁっという歓声があがった。
「? なんだ?」
「なにか、紙が撒かれていますね。なんでしょうか」
空中に、白い紙きれが舞っている。
近寄り、手を伸ばして舞い踊る紙切れの一枚をつかんだ。紙には、なにかが書かれている。
「? 人の名前?」
紙切れには、様々な筆跡で様々な人々の名前が書かれている。
「皆さま、これはちょっとした余興ですの」
王妃陛下が輪の中心に立ち、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
この御方は、時折こうして王妃らしからぬ行動をお取りになる。無邪気さと非常識さの狭間にいるような、と言えばいいだろうか。
「今、皆さまにこっそり“来世でも共にありたいと思う人”のお名前を書いていただきましたの。本当はわたくしと陛下でじっくり皆さまの本音を見せていただくつもりでしたが、気が変わりましたわ」
それで他人の心の内をまき散らすなど、なんてくだらない。
──まぁ、旦那さまったら私だけではなく愛犬の名前までお書きに?
──我が家は名前が長いものですから、続柄で書いてしまいましたわ。
──あらあら、貴女のお名前だけ赤いインクで。情熱的なことですわね。
ある者は喜び、ある者は複雑そうな、そしてまたある者は優越感に満ちた顔。
「……私の名前だ」
ぽつりと呟く王太子殿下の手の中には、殿下の名前が書かれた紙。
おそらく、妃殿下がお書きになったのだろう。
嬉しそうな顔の殿下を放って踵を返そうとした私の足元に、一枚の紙が落ちてきた。
「……あ」
書かれていたのは、私の名前。
それも、夫の筆跡で。
「……どうして」
「フェナ!」
呆然とする私の前に、息をきらした夫が現れた。
私の手の中にある紙を見て、困ったような笑顔を浮べている。
「旦那さま、これは」
「フェナ。キミにはいつも本当に助けられている。キミが側にいてくれるから、僕は僕として生きていける。これまではなかなか口にしづらかったけど、やっと言えるよ。僕はキミを本当に大切に思っている。世界中の、誰よりも」
そう言うと、夫は私に向かってそっと手を差し出してくれた。
「わ、私、私は……」
両目から、熱い涙があふれてくる。
これは、ずっと自分を押し殺して生きていた自分への決別の涙だった。
私はただ、愛されたかったのだ。
ただ、それだけだった。
********
「よろしいのですか? ご夫人」
「えぇ。皆さまがたには、本当にお世話になりました」
私は、周囲を取り囲む人々に向かって深々と一礼をした。
「とんでもない。お礼を言うのはこちらのほうですよ。貴女が王家にごく近しい者しか知らない隠し通路を教えてくれたおかげで、こうして革命が成功したのですから」
彼らの足元には、捕縛された王太子と王太子妃、そして近衛騎士団長である私の夫が転がっている。
三人とも蒼白な顔でなにかをわめいているようだが、猿ぐつわを噛まされているせいでなにを言っているのかよくわからない。
ちなみに国王と王妃はすでに討ち取られている。表向きには“幽閉”と発表をするようだけど。
「あの、ご夫人。訊いてもいいっすか?」
「なにを?」
「貴女はなぜ、ご自身の夫を裏切ったんですか? 貴女たち夫婦は、非常に仲睦まじいと聞いていましたけど」
ちら、と目を上げると、革命軍の面々はみな同じような表情でこちらを見ている。
「いや、この期に及んで貴女を疑っているわけじゃないです。貴女の情報は正確でしたからね。でも、だからこそなぜなのかな、と……」
「そうね、お答えするのは構いませんけど、ご理解いただけるかわからないわ」
今度は視線を下した。
夫が、信じられない、というような顔で私を見ている。
「……名前が、書いてあったからです」
「名前?」
「そう。今は亡き王妃陛下が開催した朗読会。そこで王妃陛下が面白いことをなさったの。紙切れに、来世でも共にありたいと思う人の名前を書くように、と」
革命軍の兵士は首を傾げている。
「私の足元に、夫の字で私の名前が書かれた紙が飛んできました。それを見た瞬間、私は革命軍の手を取る覚悟を決めたのです」
「えぇと……なんで?」
私は床に転がる夫のもとに、ゆっくりと歩み寄った。殴られ縛られ、血まみれで汚れていても夫の顔は整っている。本当に、羨ましいこと。
「……夫は、王太子妃とずっと想い合っていた。けれど立場的に結婚は無理。だから陰ながら支えることを選んだ。それならそれで秘めた恋に殉じていればいいものを、王太子に命令されるがまま便利な私という女と結婚した。地味で冴えない私を彼が愛するわけがない。結婚しても妃殿下は納得してくださる。そしてこのくだらない三角関係に強制的に巻きこまれた私は、夫と結婚し子供まで産んだ。そして、月に一度は夫と妃殿下の密会を笑顔で見送る、そんな生活」
なぜかしら、夫の唸り声が大きくなったわ。
あぁ、やっぱり恥ずかしいのね。
貴方が妃殿下を愛し続けていることを王宮のみんなは知っていたけれど、国民は知らないものね。
「ねぇ、旦那さま。あの時、貴方が素直にそのまま妃殿下の名前を書いていれば、私はこんなことしなかったわ。この国はいつか転覆したかもしれないけれど、それはきっとすぐではなかった。貴方たちの禁断の恋を、見守り隠し盛りあげるという私のお役目も、今世で終わると思ったからこそ耐えられた。それなのに、貴方は」
そこでやっと話を理解してくれたのか、男が得心したように頷いた。
「なるほど。そりゃあ、ご夫人が怒るのも無理ないなぁ。“来世でもまだまだ利用する”って言ってるようなもんだもんな」
「でしょう? ご理解いただけて嬉しいわ」
わかってもらえた、と手を叩いて喜ぶ。
それなら、ついでにこの人にもわかっておいて貰おうかしら。
「ねぇ、王太子殿下。こんなことになったのも、貴方が妃殿下しか見ていらっしゃらなかったからです。王太子たるもの、国民に目を向けるべきでしょう? 私も、国民ですのよ? でも貴方は、私の苦しみに見向きもしなかった」
殿下は唸り声一つあげず、ただ私を見ている。
「貴方は夫が私を愛しているとおっしゃいました。それならばなぜ、妃殿下と夫が二人きりになる時間をお作りになる必要があったのですか? 貴方は結局、妃殿下を信用しきれていなかったのでは? だから試し行動のように二人を接近させ、疚しいことなどない、と確認しては安心していた。実にくっだらないですわね」
では、最後に。
「“妻は彼の存在があるから王太子妃として頑張れる”でしたっけ? 既婚男性を側に置かないと頑張れないお仕事、ってなんですの?」
あら? 目を逸らされてしまったわ。
「もうお認めになったら? 妃殿下が心の奥底で深く愛しているのは私の夫で、貴方ではありません。貴方は王太子だから愛されているだけです。そして夫も、愛しているのは妃殿下だけ。事実、こうして革命軍が王都に押しかけてきても夫は屋敷に戻ってきませんでしたもの。美しいですわー、真実の愛」
ぱちぱち、と拍手をしながら妃殿下を見る。
あら、私を睨むお力がまだ残っていらっしゃるのね。素晴らしい胆力だわ。
「……ご夫人、もういいっすか」
呆れたような声に、私は我に返った。いけない、ちょっと恨み言がすぎたかしら。
「ごめんなさいね、積もり積もった恨みが、つい」
「いーっすよ、気持ちはわからんでもないし。じゃあ、あとの始末は俺らに任してください。ご夫人はお子さんたちと港へどうぞ。船に積み込むワインの樽を改造したものを表に用意してるんで」
「ありがとう。貴方たちも頑張ってね」
そして、私は床に転がる“夫と愉快な仲間たち”に背を向けた。
私は彼らを売った褒美に、隣国へ亡命することが決まっている。
子供たちは父親を失って悲しむだろうけど、最後まで王族を守り英雄として散ったことにするから、いずれは立ち直ってくれると思う。
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後悔など微塵もない。
仮にこの人生を繰り返したとしても、私は差し出された手をつかむだろう。
夫の血に塗れるであろう深紅の手を、何度だって。
後日、夫視点。