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第9話 アーモス・バラーシュ

 

 扉を叩く音が聞こえる。

 間を置いてもう一度叩かれたが、返事がないことから、レンカが眠っていると思ったようだ。

 そっと扉が開いた。


「失礼いたします」


 灯火が消され、すっかり暗くなった部屋に入ってきたのは、先ほどの女中だった。

 食器を片付けにきたのだろう。

 彼女は扉を開け放したまま、燭台を手に寝台に近づいていった。

 片手で盆を持とうとして、女中は「あら?」と声を出した。


「奥さま……?」


 女中は燭台を掲げ、寝台を照らした。

 しかし、そこに横たわっているはずの人間がいない。

 彼女は息をのみ、あたふたと戸口に向かった。


「お、奥さまが!」

「どうした?」

「寝台にいらっしゃらないのです!」

「なに?」


 扉を見張っていたと思われる騎士ふたりが、ずかずかと入室してきた。

 

「他は探したのか?」

「い、いえ、まだです」

「おい、そこ! 窓が開いているぞ!」

「ここから外に出たんじゃないだろうな」

「中庭の連中はなにをしている!」


 窓辺に三人が集まったところで、レンカは潜んでいた扉の陰から抜けだし、脱兎のごとく室外へと走りだした。

 背後から怒声が聞こえてくる。

 そのときにはすでに、レンカは階段を駆けおりていた。

 白い寝衣の裾が揺れ、そういえば着替えていなかったと気がついた。しかし、今はそれどころではない。

 

(とにかく玄関に向かわないと!)


 一階にたどり着き、ひとまず左に曲がった。

 屋敷に来たときの記憶が正しければ、この先は大広間で、さらにその先に玄関があったはずだ。

 

 タイル敷きの大広間に突入し、まっすぐにひた走る。

 だが、あとわずかで目的地という段になって、予想外のことが起きた。

 玄関へ通じる扉が、外側から開かれたのだ。


「止まれ」


 大広間に現れた人物が声を発した瞬間、レンカは足が重たくなるのを感じた。


(……なにこれ)


 まるで、泥沼に足を取られているかのようだった。

 一歩踏みだすだけで、体力を奪われていく。走ることはもちろん、普通に歩くことすらままならなかった。


「ふむ、ずいぶんとしぶといな。これが完全に効かなかったのは、君が初めてだ」


 長身の男が、こつこつと靴音を響かせながら近づいてくる。

 年のころは三十代前半だろうか。

 整ってはいるものの、どこか陰気な面立ちに、肩までの波打った黒髪。

 目の前で立ち止まったのは、今レンカがもっとも会いたくない人物だった。


「州総督……」

「久しぶりだな、我が妻よ」


 呆然としながらつぶやくと、アーモス・バラーシュは薄らと笑った。

 真紅の瞳を細めながら。


(この人も吸血鬼だったの!?)


 レンカはまじまじとアーモスを見つめた。

 彼は初対面のときからずっと、煙水晶をはめ込んだ色眼鏡を掛けていた。

 眼病のためだと聞かされていたが、真の理由は、赤い目を隠すためだったようだ。


(そうか……今までの奥さんは、州総督に血を吸われて亡くなったのかもしれない)


 親族に断りもなく葬儀を済ませたのも、牙の痕が残る遺体を見られたくなかったからではないか。

 もしくは吸血鬼と化さないよう、火葬に付したのかもしれない。

 アーモスが吸血鬼であるという、証拠を消すために。


「なかなか見つからず、心配した。いったいどこに隠れていた? 森の中に潜んでいたにしては、身ぎれいだったが」

「え……?」


 どういうことだろう、とレンカは訝しく思った。

 チェルヴィナー城にいると確信したから、追っ手は森へ入り、レンカを捕えたのではなかったのか。

 

(じゃあ、たまたま森を捜索していたら、わたしを見つけたってこと? もしかして、追っ手も州総督も、城の存在を知らないの?)


 シルヴェストルが主張するには、チェルヴィナー城は王家のものだという。

 そのときから、レンカは森そのものが王家の所有――王領林ではないかと疑っていた。だが、森はアーモスの領地たるステルベルツの中にある。管轄が違うとはいえ、城の存在を全く知らない、ということがありえるだろうか。


 レンカが混乱していると、前後から騒々しい足音が聞こえてきた。どうやら、部屋の見張りと中庭にいた騎士、両方が駆けつけてきたらしい。

 大広間に集まった彼らに、アーモスは持ち場に戻るよう言いわたすと、レンカを担ぎあげた。


「なっ、なにするんですか!」

「さすがに、二度も逃げられてはたまらないからな。なに、元の部屋に戻すだけだ」

「下ろしてください!」


 いつの間にか体の自由が戻っていたので、レンカはがむしゃらに暴れた。

 しかし、足を押さえるアーモスの手は、小揺るぎもしなかった。

 抵抗もむなしく、彼女はまたたく間に部屋へ連れもどされてしまった。





 窓の板戸が閉められた室内では、燃えさかる暖炉の炎が、周囲を赤々と照らしていた。

 レンカは入って左、暖炉の向かいに置かれた寝台に、丁寧に下ろされた。女中の姿はすでになく、ふたりきりである。

 隣に腰かけたアーモスからじりじりと距離を置き、彼女は口を切った。

 

「もう隠すつもりがないようなので聞きますけど、わたしを結婚相手に選んだのは、血を飲みたいからですか?」

「そうだな」

「今までの奥さんも、全員血を吸って殺したんですか」


 レンカが硬い口調でたずねると、アーモスは淡々と答えた。


「べつに、殺したくて殺したわけではない。……最初は私も、飲みすぎることのないよう自制していた。だがあるときから、どれだけ血を飲んでも飢えが満たされなくなってしまった。飢餓感をなくそうと夢中で飲むうちに、いつしか妻は冷たくなっている。それを繰り返しているだけだ」


 罪悪感に苛まれるでもなく、悲しみに暮れるでもないアーモスの様子に、レンカはかっとなった。

 もはや丁寧に話す気は、一切失せていた。


「繰り返しているだけ? あんたは人の命をなんだと思ってるの!? 四人も人を殺しておいて、よくもいけしゃあしゃあと……!」

「仕方ないだろう、歯止めが利かないのだから。どうにかできるものなら、ご教授願いたいものだ」

「いろんな人から少しずつもらえば、ひとりの血を過剰に飲まなくて済んだでしょう!」

 

 レンカが糾弾すると、アーモスは首を振った。


「試してみたが、うまくいかなかった。誰に対しても、致死量まで飲んでしまう。それに、若い女……特に妻の血が、格別にうまくてね。それを知ってから、もう妻以外の血では満足できなくなってしまった」

「妻って、どの?」

「四人全員だ」


 なにを言っているのだ、この男は。

 レンカは唖然とした。


(つまり、『妻』であれば誰でもいいってことなの? そんなの、ただの思いこみじゃない!)


 どう考えても、まともな主張とは思えない。

 反論しようと口を開きかけたレンカは、彼に顔を向けた瞬間、言葉を飲みこんだ。

 

 アーモスはまったくの無表情だった。

 真紅の瞳は、くもったガラス玉をはめ込んだように虚ろで、こちらを見ているのかどうかも定かではない。

 明らかに、正気ではなかった。


『ついに、名実ともに化け物に成り下がったか。人の血を求めるようになるとは』

 

 ふと、シルヴェストルの言葉が脳裏を過ぎった。

 化け物というなら、シルヴェストルよりもよほど、目の前にいる男の方がそれらしかった。

 

(この男は、吸血に罪の意識なんか抱いてない。人をつぎつぎに殺しても、なんの痛痒つうようも感じていないし、吸血行為をやめようとすら思っていない)


 生前から道徳心がないのか、吸血鬼となって人の心を失ったのかはわからない。

 だが、これだけははっきりとわかる。

 同じ吸血鬼といえど、吸血を拒みつづけるシルヴェストルは、アーモスとはまるで違う。

 ――彼は、化け物などではない。


(……逃げなきゃ)


 不意に、強くそう思った。

 ここから逃げて、シルヴェストルに会わねばならない。

 そのためには、この局面を乗り切るしかなかった。


(なんとしてでも時間を稼いで、もう一度逃げる隙を見つけないと)


 腹を決めたレンカは、口を開いた。


「……州総督。わたしの血は、たぶんおいしくないよ。今までの奥さんは、みんな高貴な身の上だったんでしょう? ということは、贅沢な食事を取っていたはず。でもわたしは、生まれてこの方、粗食しか食べてない。栄養も満足に取れていない女の血なんて、やめておいた方がいいと思うけど」

「つまり、君を諦めろと?」

「そうじゃなくて、しばらく豪勢な料理を食べさせてって言ってるの。あなたはおいしい血が飲めるし、わたしは死ぬ前においしいものが食べられる。お互いにとって、損はないでしょう?」

「それはおかしいな」


 アーモスは口元を歪めて笑った。


「豪勢な料理なら、すでに与えていただろう。それなのに君は、わざわざ森へ逃げこみ、茨の道を選んだ。食にこだわりがあるとは、到底思えないな。……嘘をつくなら、もうすこし頭を働かせたほうがいい」

「嘘じゃない。森で食料をかき集めていたとき、屋敷のご飯はおいしかったな、もっと食べておけばよかったって思ったの。失ってからじゃないと、大切さがわからなかったみたい」


 自分でもずいぶん苦しい言い訳だと思ったが、こうなったら嘘をつきとおすしかない。

 しれっとするレンカに、アーモスは鷹揚にうなずいた。


「……まあ、君の言い分はわかった。だが、それは承服しかねる」

「えっ」

「ここ二か月、『妻』から血をもらっていない。有象無象の血を飲んだところで、いっこうに満たされないのだ。つまり私は今、とても腹が減っている」


 気づけば、アーモスの顔が間近に迫っていた。

 とっさに反応できず、レンカは凍りついたように彼を見上げた。


「なるべく、多くを奪わないよう努力しよう。うら若き乙女が死体と化すのは、何度経験しても胸が痛むのでな」


 眉ひとつ動かさずにそう言うと、アーモスはレンカの両肩を強くつかんだ。


「ちょ、ちょっと。最後の願いぐらい、聞いてくれてもいいでしょう! こっちは死ぬかもしれないんだから!」

「残念だが、私もこれ以上待てない。なにせ君が逃げてから十日間、ずっとお預けを食らっていたのだから」


 レンカの赤毛をよけ、首元を露わにすると、アーモスは好物を前にしたように笑みをこぼした。


「では、いただこう」


 殺害予告も同然の言葉に、血の気が引いた瞬間。

 レンカの首に、アーモスの牙が深々と突き刺さった。

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