第8話 急襲
二日後、レンカは黄色に染まった森の中を歩いていた。
木々の間から見える空は、どんよりとくもっている。鬱々とした気持ちがさらに増すようで、彼女はため息をついた。
昨夜、シルヴェストルの様子を見に彼の部屋を訪れたが、扉を叩いても応答がなかった。
心配になって扉を開けようとしたところ、施錠されていたために、中の様子はわからずじまいだった。
(今はそっとしておくのが一番なのかな……)
そう頭では理解していても、なにもできないことが、もどかしかった。
今後どう情報収集すべきか、レンカはいまだ、シルヴェストルの意見を聞けずにいた。
吸血衝動に苦しむ彼への対処法も思いつかず、気が滅入る一方だった彼女は、森へ出かけることにした。
狩りのために、地形を把握しておきたかったのだ。
おおまかな方角は、あらかじめ太陽や影の方向を見て割りだしていた。
レンカは北側から森に逃げこんだので、追っ手の目につきやすいそちらへは、とても行く気になれない。
さしあたって、南へ向かうことにした。
木の枝の傾き具合や幹の色、葉の大きさは、北と南で異なる場合がある。それを指標にしながら、慎重に歩を進めた。
森の全容はわからないが、広大なあまり遭難しても困るので、遠くへは行かないつもりだ。
目印として白い端切れを木に結びつけながら、三十分ほど歩いたころ、レンカは眉根を寄せた。
先ほどよりも雲が厚くなり、薄暗くなってきたためだ。
(このままだと、雨が降るかも。もう戻ろうかな)
踵を返したが、いくらも経たぬうちに、ぱらぱらと雨が降りだしてしまった。
頭上を覆う木々の葉が、しばらくは雨を受けとめてくれるだろう。
しかし、それも長く続くとは思えない。
案の定、やがて雨は本降りになり、雨粒が体に当たるようになってきた。
(今日はやめておけばよかった!)
小走りに急ぎながら、レンカは顔をしかめた。
自身が枯葉を踏む音も、どんどん激しくなる雨音にかき消されて、よく聞こえない。
そのせいだろう。
背後から近づく足音に、直前まで気づかなかったのは。
(……後ろに、なにかいる?)
振りかえろうとした瞬間、レンカは後頭部に強い衝撃を感じた。
痛みにうめく間もなく、彼女はそこで意識を失った。
***
目覚めてすぐに感じたのは、ずきずきとした頭の痛みだった。
レンカはそれをこらえつつ、視線を巡らした。
(ここは……?)
どうやら、天蓋つきの寝台に寝かされているようだった。
三方を紅色の布で囲まれており、足元から部屋の一部が見える。
正面には窓があり、その向こうに薄鈍色の雲が広がっていた。日射しがないため、室内は薄暗い。
(森を探索していて……雨が降ってきたのは覚えているけど)
その後、どうしたのか。
窓を見つめているうちに、徐々に記憶がよみがえってきた。
(そうか。あそこで殴られたんだ)
レンカは上体を起こそうとしたが、槌でガンガンと叩かれたような、ひどい頭痛に襲われた。
額を押さえ、痛みが引くのを待つ。
再び体を動かす気になれず、彼女は布団に潜りこんだ。
アーモスの屋敷にいたとき、レンカはこの部屋に軟禁されていた。
つまるところ、連れもどされてしまったらしい。
「……最悪」
レンカは目をつむり、深々と嘆息した。
森にも捜索の手が伸びているだろうと、予想はしていた。
しかし、追っ手の姿を見かけなかったので、すっかり油断していたのだ。
(炉から出る煙は隠しようがなかったし、チェルヴィナー城にいるのはばれていたんだろうな。……城に乗りこんでこなかったのは不思議だけど)
シルヴェストルを警戒してのことだろうか、と考えたが、すぐさま思いなおした。
レンカを追ってきた騎士たちは、他ならぬシルヴェストルによって記憶を改竄されたのだ。彼の存在を知っているはずがない。
(……いや、そんなことより、まずは逃げだす方法を考えないと)
噂どおりなら、レンカは早晩、命を落とすだろう。
だが、それを受けいれるつもりは毛頭なかった。
(父親からようやく解放されたんだから、これからはもっと自由に生きていきたい。こんなところで死ぬわけにはいかない!)
そう決心したものの、頭痛にくわえ、吐き気まで催してきた。
これでは、作戦を考えるどころではない。誰だか知らないが、こちらの頭を殴った人間が恨めしかった。
(……仕方ない。まずは体調を万全にするところから始めないと)
寝込みを襲われないように祈りつつ、レンカはまぶたを閉ざした。
そうして、どれくらい眠っただろうか。
次に目覚めたとき、室内はさらに暗くなっていた。真っ暗闇ではないので、まだ日は暮れていないらしい。
レンカはそろそろと起きあがり、吐き気のないことにほっとした。頭痛は続いていたが、先ほどよりもだいぶ和らいでいる。
室内履きを履くと、彼女はまっすぐに窓へ向かった。
ひし形のガラスを鉛の紐でつなぎあわせた窓からは、眼下に中庭が見える。中央に噴水が置かれ、きっちりと整えられた植え込みが、その周りを取りかこんでいた。
雨はすでにやんだらしい。
レンカは中庭に目を凝らした。
小暗がりのなか、四方に人影が見える。その数は、五。恐らく、アーモス配下の騎士たちだ。レンカの逃亡を阻止しようと、配置されているのだろう。
(きっと、扉の外にも見張りがいる。……どうしたものか)
チェルヴィナー城の自室より三倍は広い部屋を、レンカはうろうろと歩きまわった。
一瞬、シルヴェストルに頼ろうかと考えた。紅血の指輪を使って命じれば、彼はこの屋敷から連れだしてくれるだろう。
しかし、こき使わないと言い切ったからには、できるだけ指輪の力を使いたくない。ここでシルヴェストルの力を借りてしまえば、後々後悔する気がした。
くわえて今の彼は、自分自身のことで手いっぱいのはずだ。こちらの問題に巻きこむのは、気が引ける。
やはり自力で脱出するほかない、と覚悟を決めたところで、扉を叩く音が聞こえた。
レンカはとっさに寝台に駆けもどり、布団に潜りこんだ。
まだ具合が悪い振りをしていたほうが、都合がよい気がしたのだ。
もう一度扉が叩かれ、できるだけ弱々しく「どうぞ」と答えた。
「……失礼いたします。よかった、目を覚まされたのですね」
入室したのは、以前レンカの世話をしてくれた、壮年の女中だった。
女中は円卓に料理の載った盆を下ろし、寝台の脇まで運んでくれた。聞けば、夕食だという。
給仕は必要ないと伝えると、女中は天蓋の布をまとめ、卓上の蝋燭に火を灯してから立ち去った。
その足音が完全に聞こえなくなってから、レンカはむくりと起きあがった。
食事が運びこまれたときから、彼女にはひらめくものがあった。
(これしかない)
レンカは口を引き結ぶと、右手の扉を挑むように見すえた。