第10話 払暁攻撃(1)
レンカは気を取り直して、四方に目を配った。
(シルヴェストル、どこにいるんだろう)
末葉守は、彼の近くまで送ると言っていた。
となると、ここは王宮の敷地内だろう。
レンカは背後にそびえる城壁を見上げ、その向こう側が、ずいぶん騒々しいことに気づいた。
大勢の人間が雄叫びを上げている。金属が激しくぶつかり合う音が、あちこちから聞こえてくる。
(戦ってる……?)
オレクサンドルが、ついに反撃を開始したのだろうか。
となると、ぐずぐずしてはいられない。戦いに巻きこまれる前に、速やかにシルヴェストルを見つけなければ。
ひとまず右手に向かって歩くと、奥のほうに、木のような黒い影が見えた。
レンカはなんとなく嫌なものを感じとり、足を速めた。
距離が近づき、影の正体がわかったとき、彼女は飛ぶような勢いで走りはじめた。
「シルヴェストル!」
T字形の杭に磔になったシルヴェストルは、ぐったりと頭を垂れている。
もしや、遅きに失したのだろうか。
レンカが蒼白になっていると、彼はぴくりと身じろぎした。
「……レンカ?」
薄らと目を開けたシルヴェストルは、かすれた声を出した。
杭に駆けよると、レンカは彼の両足に抱きついた。
「よかった、生きてた……!」
「それはこちらの台詞だ」
体を離すと、シルヴェストルはやつれた顔でこちらを見下ろしていた。
「紅血の指輪が、力を失った。てっきり、おまえが死んだからだと思っていた」
「見てのとおり、わたしは大丈夫。いろいろあったの。それよりも、早くあんたを下ろさなきゃ」
木製の杭には、手足から流れでたシルヴェストルの血が、黒々と染みついている。
レンカは唇をわななかせた。
「よくもこんなひどいことを……」
「僕のことはいい。それより、早くここから立ち去れ。巻き添えを食わないうちに」
「王宮が戦場になってるから? だったらなおさら、あんたを置いて行けるわけがないでしょう」
シルヴェストルが反論するまえに、レンカは彼の足首に刺さった杭をつかみ、引きぬこうとした。
「……なにこれ! ぜんぜん、取れないん、だけど!」
「非力なおまえでは無理だ。道具を使わねば、はずれないだろう。……わかったら、さっさと行け」
「絶対に嫌!」
力みすぎて、頭の血管が破裂しそうだ。
けれど、諦めてたまるものか。
シルヴェストルから離れた場所で、ひたすら彼の無事を祈るなど、もうこりごりだった。
そのとき、複数の足音が耳に飛びこんできた。
ひょっとして、不法侵入が露見したのだろうか。
レンカが焦燥感にかられているうちに、人影は、あっという間にこちらへ迫ってきた。
「レンカ嬢!」
横手から走りよってきた三人は、兵士ではなかった。
もはや顔なじみになった、警吏たちだった。
「二日も音沙汰がないので、もう駄目かと思っていました! ご無事でなによりです」
「えっ、二日!?」
てっきり、今日は兵士に襲われた翌日なのだと思っていた。
「積もる話はありますが、ひとまず後にしましょう。今はバラーシュ卿を解放しなければ」
警吏たちは、梯子と工具を持ってきていた。
彼らはてきぱきと城壁に梯子を掛けると、鉄の杭をペンチで抜きとり、シルヴェストルを抱えて下ろした。
レンカはほとんど意識のない彼を引きとり、自分の膝を枕にして寝かせた。
彼の頬に触れると、ずいぶんとやせ細っていた。
痛々しいありさまに、涙が込みあげそうになる。
「……しばらく、ここにいても大丈夫でしょうか」
「すこしの間なら。今は賊軍に気づかれていませんが、いつどうなるかわかりませんから」
警吏のひとりが、城壁を見張りながら答えた。
「この王宮の騒ぎは、オレクサンドル殿下が挙兵されたからですか? でも、王軍や近衛兵もいないのにどうやって……」
「殿下は、民兵を引きつれて王宮を奇襲しました」
「民兵を!? 軍に対抗できるほど集まったんですか」
「ええ。民衆は、若い女性が餌として拉致されることに、強い憤りを覚えていました。それで、殿下の呼びかけに応じてくれたようです。……そうですね、ざっと三千名ほどでしょうか」
「そんなに!」
「それから、王軍と近衛兵の一部は、こちらに寝返りました」
予想外の連続に、レンカは目を白黒させた。
「ど、どうしてそんなことに」
「彼らのあいだに噂を流したのです。クレメントは永遠の命を授けると兵士に約束したが、それは真っ赤な嘘であると。指揮官でない兵士は特権階級にもなれず、ただの便利な駒として、使い潰される運命にあるのだと」
「それで気が変わったんですか」
なんだか単純だな、と呆れていると、警吏はうなずいた。
「もともと、クーデターに乗り気な者ばかりではなかったようです。『翠緑の円環』に所属しているのは、指揮官ばかりですからね。上官の命令に仕方なく従っていた、という者も多いのだとか。だから、さしたる抵抗もなく寝返ったのでしょう」
「それなら、王宮も奪還できそうですね!」
レンカが声を弾ませると、「そう簡単にいくか」と水を差された。
大儀そうに上体を起こすシルヴェストルを、レンカは慌てて支えた。
「まだ休んでたほうがいいよ」
「首魁のクレメントを始末しないことには、この戦いは終わらない。そしてあの男を倒せるのは、吸血鬼である僕だけだ」
「そんなぼろぼろの体で? いくらなんでも無理だよ!」
「無理じゃない。おまえの血を飲めば、回復できる」
「でも……」
レンカは眉をくもらせた。
今までシルヴェストルが戦ってきた相手は、眷属の吸血鬼だけだった。
だが、クレメントは悪行を働いて吸血鬼となった口だろう。となると、眷属よりは強いはずだ。
力量が同程度の相手と戦って、シルヴェストルが無傷で済むとは思えなかった。
「頼む、レンカ。これ以上、クレメントを野放しにはできない。……あの男がおかしくなったのは、僕のせいでもある。だから今度こそ、その責任を負わねばならない」
シルヴェストルが頼みごとをするなど、これが初めてではないだろうか。
彼の真剣な顔つきに、レンカはなにも言えなくなった。
(これ以上引きとめても、耳を貸さないだろうな)
レンカは腹の底からため息をついた。
「……わかった。でも、死んだら承知しないからね」
クレメントの屋敷に潜入する前、シルヴェストルに言われた言葉を、そっくり返してやる。
むすっとしながら袖をまくり、腕を突きだすと、シルヴェストルは目元を綻ばせた。
「感謝する」
こんな時だというのに、レンカはうっかり、彼の顔に見とれてしまった。