第7話 大火
まぶたを開けたときには、風景が一変していた。
どうやら高所にいるらしく、目に飛びこんできた下界は、辺り一面火の海だった。
朱色に燃えさかる炎とともに、空を覆いつくすほどの煙が、もうもうと立ちこめている。
火の粉が飛んできて、石造りの床を転がっていく。熱風が吹きつけ、息がつまる。
レンカは慌てて手巾を取りだし、口を覆った。
(末葉守さま、わたしを助けてくれるんじゃなかったんですか!?)
このままでは、そう遠くないうちに、煙を吸いこむか、火の粉が降りかかるかして死に至るだろう。
死因がすこしばかり変わったところで、みじんも嬉しくなかった。
いや、とレンカは気を取り直した。
末葉守は、シルヴェストルを助けて欲しいと言っていた。ということは、どこかに彼がいるはずだ。それを達成すれば、どうにか生きのびられるかもしれない。
ひとまず、周囲を見まわしてみる。
火事のせいでわかりづらいが、時間帯としては夜なのだろう。炎に照らされたこの場所は、方形の屋上だとわかった。
(ああ、そうか! ここ、シルヴェストルに連れてきてもらった、王宮の鐘楼だ!)
いつか夢で見た光景が、今度は現実のものとして、目の前に広がっていた。
レンカは左手に視線を向けて、はっとした。
屋上の隅に、誰かがたたずんでいる。
ここからでは、姿形はよくわからない。しかし、それが誰なのかは、自明の理だった。
シルヴェストルはこちらに気づいた様子もなく、ただ、その場に立ちつくしている。
かと思いきや、唐突に、胸壁へと手を伸ばした。
でこぼこした胸壁の凹部分に足を掛け、よじ登る。下へ飛び降りる気だ。
いくら吸血鬼でも、あの業火の中に飛びこめば、生きては戻れないだろう。
レンカは走りながら、とっさに叫んだ。
「やめなさい!」
刹那、指輪が光を放ち、シルヴェストルは動きを止めた。
このときばかりは、時をさかのぼっても効力を失わない指輪に、感謝の念が込みあげた。
胸壁で棒立ちとなったシルヴェストルの腕をつかみ、屋上へと引きずり下ろす。
彼はこちらをにらみつけてきた。
「なぜ止める!」
どうやら、紅血の指輪が使われたとは気づいていないようだ。
「これは……この惨状は、僕が作りだしたものだ! あんなことをしなければ、火事など起こらなかったのに!」
シルヴェストルはずるずると床に座りこみ、頭を抱えた。
「僕はこの国の王だ。それなのに、守るべき民の生活をめちゃくちゃにしてしまった。平穏を奪い、恐怖と苦痛を与えた。そんな僕が、これ以上生きながらえてなんになる? この世から消えるべきだ、今すぐに!」
「そんなことない!」
レンカはシルヴェストルの前にしゃがみこんだ。
「……信じられないかもしれないけど、わたしは二百年後、あんたに命を救われるの。しかも、二回も。あんたがいなければ、わたしは後悔を抱えたまま死んでいた。だから、あんたが消えるべきだなんて、絶対に思わない」
顔をあげたシルヴェストルは、不審そうにこちらを眺めた。
「二百年後だと? なにを言っている。……待て。そもそも、なぜここにいる? 火事から逃げてきたのか? それとも、僕を殺しに来たのか」
「あんたの身投げを止めたのに、そんなことすると思う? わたしはあんたの末葉守さまに頼まれて、二百年後の未来からここに来たの。たった今ね」
シルヴェストルは目をまたたくと、顔をそむけた。
「そんな話、信じられるか」
それはそうだろう、とレンカは同調したくなった。
もし逆の立場だったら、こんな荒唐無稽な話、一笑に付していただろう。
「こうして吸血鬼が実在するんだから、末葉守が実在したって不思議ではないでしょう? ……まあ、このさい、わたしの話が信じられなくてもいいよ。それよりも、早くここから脱出しよう。このままじゃわたしたち、丸焼けになっちゃう」
「……僕のことは捨て置け。おまえひとりで、どこへなりと逃げるがいい」
「ここに残るつもりなの?」
押しだまるシルヴェストルに、レンカはため息をついた。
「末葉守さまは姿を見せないし、あんたがわたしを助けてくれないと、ここから逃げだせないんだけど」
「僕には関係ない」
「あんたはアルテナンツェの人たちを救えなくて、後悔しているんでしょう。それなのに、わたしが死ぬのは構わないってこと? 息が止まるまで、黙って見てるつもり?」
レンカは手巾を口に押しつけたまま、咳きこんだ。
喉が痛い。だんだん息苦しくなってきた。
死が、ひたひたと近づいて来るのを感じる。
「……脅しのつもりか?」
「脅しというか、ありのままを言っただけだよ。それで、あんたはわたしを助けてくれるの? それとも見捨てる?」
まっすぐにシルヴェストルを見つめると、彼は苦り切った表情を浮かべた。
ふたりのあいだに、しばし沈黙が落ちる。
彼は息をついてから、のろのろと口を開いた。
「……どこへ行きたいんだ」
レンカはほっとしつつ、「ステルベルツのチェルヴィナー城」と答えた。
とっさに思いつく場所といえば、そこしかなかったのだ。
シルヴェストルは異を唱えることもなく、無言で立ちあがった。
次の瞬間、彼は蝙蝠へと姿を変えていた。
以前目にしたような、小さな姿ではない。馬ほどの体長を持つ、巨大な蝙蝠だった。
(背中に乗れってことだよね……?)
レンカはおっかなびっくり、意外にふさふさした背に乗った。
間を置かず、蝙蝠が羽ばたきはじめる。
煙の届かない上空まで舞いあがると、蝙蝠は燃えあがるアルテナンツェの街を後にした。




