第17話 暴走(2)
次の瞬間、鈍い音とともに、ヨナークが視界から消えた。
いや、地面に叩きつけられたのだ。
目の前に転がるヨナークを、レンカはぽかんと眺めた。
なにが起こったのか、理解が追いつかない。
ヨナークの向こうに立つ人物を、信じられない思いで見上げる。
「シルヴェストル」
かかと落としを決めたシルヴェストルは、無表情でヨナークの胸ぐらをつかみあげた。
「起きろ」
揺さぶっても目を覚まさないと見ると、彼はヨナークの頬を引っぱたいた。
ヨナークが薄らと目を開ける。
シルヴェストルはその目をしっかりと見ながら、どすのきいた声で命じた。
「警吏が来たら暴れずに牢へ行き、そこで大人しくしていろ。それまではここから動くな。声も立てるな」
シルヴェストルに突き放されると、ヨナークは地面に横たわったまま、身じろぎひとつしなくなった。
「まったく、忌々しい。貴様のような性根の腐った下衆、百回殺しても殺したりないぐらいだが、そうするとこいつの苦労が無駄になる。まあ、どうせ貴様の行く末は斬首刑だ。それまで、せいぜい恐怖に震え、絶望しながら暮らせばいい」
そう冷ややかに告げると、シルヴェストルはようやくレンカに顔を向けた。
「……その血はどうした」
「え?」
「どこか怪我をしたのか」
眉根を寄せたシルヴェストルは、ヨナークの体を思いきり踏みつけてから、こちらにやって来た。
レンカは自身の血まみれの体を見下ろして、ああ、と納得した。
「これは全部、その男の返り血なの。だから大丈夫。怪我はしてないよ」
「その左手も?」
「あ、これは……。吸血されたけど、たいしたことないよ」
左腕を覆う白い袖には、ぽつぽつと血がにじんでいる。
袖をまくると、レンカは胴着から手巾を引っぱりだし、血を拭った。すると、シルヴェストルから「貸せ」と手巾を奪いとられ、それで傷口を縛られた。
そんな大げさにしなくていいのに、と思いつつ、レンカは気になっていたことをたずねた。
「なんでここにいるの? まさか、許可も取らずに来たなんてことは……」
「そんなはずがあるか。おまえ、僕を見くびりすぎだぞ」
シルヴェストルはむっとした様子で、レンカをにらみつけた。
「あのオトとかいう男から承諾は得ている。おまえが殺されることはないから、安心しろ」
「そっか」
レンカは息をついた。
「……そこで伸びている男、ドルダさんとここの使用人を殺した犯人なの。ドルダさんに関してはわたしの推測だけど、間違ってはいないと思う。だから、こいつを警吏に引きわたせば、あんたは処刑されなくて済むんだよね?」
「ひとまずは」
シルヴェストルの返事はそっけなかったが、レンカは肩の力を抜いた。
「よかった……」
安心したせいか、一瞬、気が遠くなった。
前のめりに倒れそうになったところを、シルヴェストルが抱きとめてくれた。
「おい!」
大丈夫、と答える代わりに、レンカはシルヴェストルの背に腕を回した。
「本当に、よかった」
ぎゅっとシルヴェストルを抱きしめる。
「ずっと怖かったの。犯人を見つけられなかったら、どうしようって。あんたが処刑されるかもしれないって思うと、毎日不安でたまらなかった。でも……これでもう、終わったんだね」
シルヴェストルはためらうような間を置いてから、そっとレンカを抱きしめ返した。
「……僕に死んで欲しくないと、それを証明してみせると言っていたな。その証し、しかと受けとった。おまえの尽力と献身に、心より感謝する」
レンカはびっくりして顔をあげた。
シルヴェストルから礼の言葉を聞けるとは、思ってもみなかったのだ。
彼は真摯な眼ざしで、レンカを見下ろしていた。
「だが僕だって、おまえに死なれるのは面白くない。金輪際、向こう見ずな行動をするな。もっと自分の命を大切にしろ」
「その言葉、あんたにそっくりそのままお返しするけど?」
レンカはしかつめらしい顔つきをしてから、くすくすと笑った。
死にたがり筆頭のシルヴェストルに諭されるとは、なんだかおかしな気分だった。
シルヴェストルは目をまばたいてから、ふっと口元を緩めた。
その柔らかな表情に、レンカは目を奪われた。
(こんな風に笑ってるところ、初めて見た……)
鼓動がひときわ大きく、胸を叩いた。
このほほえみを、いつまでも眺めていたい。そう思う一方で、まぶしくて直視できない気もする。
火に当たっているかのように、じわじわと頬が熱くなってきた。肌に触れる外気は、身震いするほどひんやりとしているのに。
「レンカ嬢!」
「は、はい!」
出しぬけに背後から呼びかけられ、レンカは慌ててシルヴェストルを押しやった。
こうべを巡らすと、鉄の門を抜けて、警吏が駆けつけてくるところだった。
彼に事情を説明しているうちに、裁判所からぞろぞろと応援がやって来て、ヨナークはすんなりと連行されていった。
こうしてレンカの潜入調査は、終わりを迎えたのだった。




