第15話 術中にはまる
目が覚めたとき、レンカは自分がどこにいるのかわからなかった。
ほの暗い室内でぼうっとしているうちに、徐々に記憶がよみがえってくる。ここは屋根裏部屋で、自分は数日前から、この屋敷に勤めているのだった。
それから、となにかを思い出しかけて、レンカは首を傾げた。寝ぼけているせいか、その先が出てこない。
すると、視界の片隅にひょいと灯火が現れた。
「レンカ、もう起きないと食いっぱぐれちゃうよ」
燭台を手にしているのは、同室の洗濯女中だ。
レンカは暖かみのある灯に目をしばしばさせてから、やにわに飛び起きた。
「ね、寝坊した!?」
「ちょっとだけね。でも、急いだほうがいいよ。あたしは支度できたから、先に行ってるね」
「う、うん! 起こしてくれてありがとう!」
洗濯女中は椅子の上に置かれた燭台に、火を移してくれた。
それを頼りに、レンカは大急ぎで身支度を済ませ、手狭な使用人部屋を飛びだした。
レンカの朝一番の仕事は、使用人たちが食事をしたあとの大広間を、すぐさま掃除することだった。
夜が明けたとはいえ、長大な大広間は、いまだ薄闇に覆われている。
レンカは見えづらい石敷きの床を掃きながら、首をそっと撫でた。
どうしてか、首全体がずきずきするし、側面もひりひりと痛むのだ。
(昨日はなんともなかったはず。原因はなんだろう)
箒を動かす手を止めて、記憶を探ってみる。
けれど、なんの心当たりもない。
掃き掃除を再開しながら、レンカはそういえば、と思い至った。
(わたし、なんでここで働いているんだっけ?)
条件がよかったからだろうか? いや、そんな理由ではなかったはずだ。
そもそも、どんな伝手でこの屋敷にやって来たのだったか。
どうにかして記憶を掘りおこそうと試みたが、それすらも、うまくいかなかった。
レンカはにわかに、不安が胸をふさぐのを感じた。
こんなにも記憶に欠陥があるとは、なにかの病気ではないか。
その疑いが頭から離れず、大広間の掃除は、昨日よりも時間が掛かってしまった。
一階の客室に足を踏みいれたときには、辺りはすっかり明るくなっていた。
主人の居室よりもいくぶんか小さい部屋だが、置いてある調度品は似たり寄ったりだ。
さて、どこから掃除しようかと視線を走らせたレンカは、ぎょっとした。
天井付近を、蝙蝠が飛び回っていたからだ。
「ど、どこから入ってきたの!?」
そういえば昨日、蝙蝠の姿を、主人の寝室から見かけたのだった。
(どうやって追いだそう)
蝙蝠はレンカの身長よりも、はるかに高い場所にいる。
途方に暮れているうちに、蝙蝠は寝台横にある卓のほうへ移動した。
そして、そこに置かれた長方形の鏡の上を、ぐるぐる回りはじめた。
(な、なんなの?)
レンカは呆気にとられたが、これは蝙蝠に近づく好機ではないかと思った。
足音を忍ばせて卓に近寄る。しかし、蝙蝠は逃げる素振りも見せない。
それどころか、チチチと鳴き声をあげて、羽をしきりに鏡に打ちつけた。痛くないのだろうか。
(鏡を見ろ、って言われているような気がする)
なぜそんな突飛な考えに到ったのか、我ながら不思議に思いつつ、レンカは鏡をのぞきこんだ。
「えっ」
自身の首元に、彼女は目が釘づけになった。
小さなフリルのついた襟の上、わずかに露出した部分が赤くなっている。
そういえば、と首の側面あたりを見ると、なにか尖ったもので穿たれたような痕があった。
「なにこれ」
痛みの原因はこれだったのか、と納得したものの、気味が悪くなった。
思い当たるふしなど、まったくないのだ。
(いったいなにがあったら、こんな傷がつくんだろう)
首の表側をさすると、一瞬、記憶の断片が頭を過ぎっていった。
誰かに首を絞められている。
息が吸えない。苦しい。目の前が暗くなる。
その先は、頭に鋭い痛みが走ったために、思い出せなかった。
「うっ」
レンカはたまらずに床に座りこんだ。
頭を締めあげるような痛みに、額を押さえる。床に倒れこまないよう、左手をついた。
そうして頭痛が治まったあと、ふと視界に入った左手に、レンカは違和感を覚えた。
(あれ? こんな指輪、はめてたっけ。えーっと……そうだ。州総督から、結婚指輪として贈られたんだ)
そしてこれは、ただの指輪ではない。
楕円形の赤い石は、ガーネットそっくりだが、まったく別のものでできている。
『それは紅血の指輪だ』
『吸血鬼の血が材料の一部だから、そう呼ばれているんじゃないか』
知らないはずなのに、どこか懐かしい声が、脳裏に響きわたった。
その瞬間、厳重に封じられていた箱が弾けるようにして開き、記憶があふれ出した。奔流のごとく押し寄せるそれにもみくちゃにされたあと、レンカはしばらく放心状態になった。
思い出した。なにもかも。
「あ……危なかった!」
レンカは叫び声をあげ、慌てて口を押さえた。
(あのまま潜入調査のことを忘れていたら、シルヴェストルが処刑されるところだった……!)
彼女は身震いしてから、落ちつきを取りもどそうと、深呼吸した。
ようやく頭が働くようになったので、雑巾を手に、窓拭きを始める。そうしながら、今まで忘れていた事柄を、ひとつひとつ呼びおこした。
(昨日わたしは、メドゥナに催眠術を掛けられたし、ヨナークには血を舐められた。このふたりが吸血鬼なのは、間違いない)
しかし、なぜ自分は、催眠術を破ることができたのだろう。アーモスの催眠術にも抵抗できたし、偶然とは思えない。
もしや、とレンカは紅血の指輪を見つめた。これを着けているせいなのか。
吸血鬼の主となった影響で、暗示が掛かりにくいのかもしれない。
指輪のまじないを解くために、アルテナンツェまでやって来たのに、またしてもこれに助けられてしまった。
なんとも複雑な気持ちになったが、ひとまずそれは、脇に置いておくことにする。
(それにしても、ヨナークが吸血鬼だって、初対面で見抜けなかったな)
紹介状を持って屋敷を訪れたとき、彼はどんな様子だったか。
確か、あの日はくもっており、室内は薄暗かったのだ。明かりが灯っていなかったし、ヨナークの瞳の色ははっきりとわからなかった。
ひょっとすると、彼は天気の悪い日を選んで、屋敷に顔を出しているのかもしれない。
それ以外は、恐らく地下室で暮らしているのだろう。吸血鬼の彼は、正体を隠すため、そして日光を避けるために、地上の屋敷にはいられないからだ。
(そのヨナークが、ブランカさんを殺した。本人がはっきり言ってたんだから、間違いない)
しかも彼の言葉から察するに、ブランカは間者だったようだ。
となると、彼女が情報を持って雇い主のもとへ行く前に、口を封じたに違いない。
遺体が外にあったのは、逃げている最中にヨナークに追いつかれ、そこで殺されたせいかもしれない。
(あとは……そうだ、餌にして殺すとかなんとか言ってた。あいつらの言う餌って、つまり、人間だよね)
辞める女中が多いという話と考えあわせると、ぞっとする結論が導きだされた。
(彼女たちは、メドゥナとヨナークの餌にされた? メドゥナはヨナークのほうが餌を殺すって言ってた。つまり、ヨナークの吸血によって、女中たちは殺されたんだ。それを隠蔽するために、辞めたことにしていた)
そこまで考えて、サシャが怯えていたものの正体が、ようやくわかった。
彼女はメドゥナかヨナークが吸血している場面を、目撃したのではないか。
そして護身のために、魔除けを購入した。
けれど、その甲斐もなく、ヨナークの餌食になってしまったのだろう。
(魔除けを買ったとき、それを売ってる人に、屋敷でのことを打ちあけなかったのかな。本人は、不安でたまらなかっただろうし。……ああっ、そうか!)
数々の事柄がつながり、レンカは顔を紅潮させた。
(魔除けをドルダさんの店で買っていたとしたら? 屋敷に吸血鬼がいるのだと、ドルダさんに相談していたとしたら。ヨナークは、彼を口封じのために殺したんだ!)
サシャが辞めた日と、ドルダが遺体で見つかった日が同じなのも、それで説明がつく。
サシャの様子を怪しんだか、あるいは魔除けを見とがめて、ヨナークが彼女を問いただす。そこでドルダの名を聞きだし、サシャを殺害。そのあとで、ドルダも殺したのだろう。
メドゥナではなくヨナークだと断定したのは、ブランカと同じく、ドルダも吸血されたせいで亡くなっているからだ。
ヨナークは吸血衝動を抑えられないと言っていたし、ドルダを前にしても、それは変わらなかったはずだ。
もしかすると、当初は別の方法で始末するつもりだったのかもしれない。だが、血に対する渇望が、ヨナークから理性的な判断を奪ったのだろう。
洗濯女中に、サシャがどこで魔除けを買ったか、たずねる必要が出てきた。
その答えによって、レンカの推測が正しいかどうか、はっきりするはずだ。
レンカはいくらか心が軽くなって、軽快に掃除を進めた。
けれど、まだわからないことがある。
(クリシュトフ・メドゥナ。あの男、何者なの?)
陰謀を企てている嫌疑のため、オトが調べている男。
彼はいったい、なにをするつもりなのだろう。
そして、レンカを『近いうちに使い道がある』と評していたのは、どういうことなのか。
(しかもあの声、どこかで聞いたことある気がするんだよね……)
記憶を呼びさまそうと試みたが、これに関しては、まるでだめだった。
がっかりしながら鏡を磨いていたレンカは、そういえば蝙蝠はどこへ行ったのだろう、と室内を見まわした。
だが、蝙蝠はまるで最初から存在しなかったように、跡形もなく姿を消していた。




