第12話 偽りの新当主
アーモスとの対決から、一日が過ぎようかというころ。
レンカは起き抜けのシルヴェストルとともに、応接間の長椅子に腰かけ、バラーシュ家の家令に頭を下げられていた。
「まことに、まことにありがとうございました! 使用人を代表いたしまして、心より感謝申しあげます!」
ひょろりとした初老の家令は、涙をこらえているのか、声が震えていた。
レンカは「顔をあげてください」と優しく声を掛けた。
「そんな、お礼を言われるようなことはしていません。ああなったのは成り行きで……」
「いいえ! 理由はどうあれ、わたくしどもをお救いくださったことは事実です。旦那さまが吸血鬼になられてから、我々は毎日、心休まるときがございませんでした。いつ血を吸われ、殺されるのかと。奥さま方や使用人の犠牲を黙って見ていることしかできず、おのれが情けなく、口惜しいばかりでした。その地獄のような日々を断ち切ってくださったのですから、お礼を申しあげるのは、しごく当然のことです」
目を潤ませてとうとうと語る家令に、シルヴェストルは我が意を得たりとうなずいた。
「そのとおりだ。もっと僕を褒めたたえろ、崇めたてまつれ」
「……州総督は、いつ吸血鬼になったんですか?」
シルヴェストルを黙殺してたずねると、家令は顎に手を当てた。
「最初の奥さまが亡くなられたのが、昨年の五月ですから……そのころですね。旦那さまは議会へ出席されるために、王都へお出かけになったのです。そうして州都へ戻られたときには、すでに……。もともと人付き合いの苦手な方でしたが、さらに人目を避けるようになり、こちらに――ステルベルツの屋敷へ居を移したのです」
「……あの男、人間のころに悪行を働いたのか?」
レンカを恨めしげににらみつけてから、シルヴェストルは問いかけた。
「いいえ。わたくしが知る限り、そのようなことはございません」
「となると、あの男は眷属の吸血鬼だろうな」
「……あっ、そうか。悪いことをしたから吸血鬼になったんじゃなくて、どこかの吸血鬼に血を奪われて亡くなったあと、眷属になったってことだよね。……そのことについて、州総督はなにか話していましたか?」
家令はかぶりを振った。
「存じません。あの方は王都でなにがあったか、ひと言もお話くださらなかったので……」
「そうですか」
レンカは難しい顔をした。
「その吸血鬼は、なにか意図があって州総督を眷属にしたのかな。それとも偶然?」
「さあな。偶然だとすれば、そいつはよほど悪食だったんだろう。僕だったら、あんな見るからにまずそうな奴、絶対にご免被る」
「そ、そうなの? ……なら、なにか目的があったのかも」
しかし、いったい、誰がなんの目的で?
レンカは思索にふけりかけて、思いなおした。
当事者がこの世にいないのだから、真相は知りようがない。考えるだけ無駄だろう。
「……そうだ、ちょっと教えて欲しいことがあるんです。この結婚指輪について、なにか知っていますか? どういう経緯で手に入れたか、とか」
気持ちを切りかえたレンカは、家令に指輪がよく見えるよう、左手を差しだした。
家令は首を傾げた。
「いえ、寡聞にして存じません。バラーシュ家に古くから伝わるものとしか……」
「そうでしたか」
指輪をはずす手がかりになればと思ったが、そううまくはいかないらしい。
レンカが肩を落とすと、家令は気づかわしげにたずねてきた。
「その指輪がなにか……?」
「まじないが掛けられているせいで、少々厄介なことになっている。それを解決するために、目下情報を収集しているところだ」
シルヴェストルが間髪をいれずに答えたので、レンカは出かかった言葉を飲みこんだ。
彼は目顔で「余計なことを言うな」と牽制してきた。
確かに、紅血の指輪についてありのままを述べれば、彼にとっては都合が悪かろう。
「まじないですか……。でしたら、まじない師の力を借りられては? この辺りでは見かけませんが、王都では身近な存在だと聞いております。もっとも有名なのは、国王陛下の専属まじない師・ラジスラフ殿ですが……まあ、まず依頼は難しいので、民間のまじない師をお訪ねになってはいかがでしょう」
家令の助言に、レンカは目を開かれる思いだった。
「それは思いつかなかったです! ずっと本を当たることしか考えてなかったけど、そのほうが確実ですね。助かりました!」
「その指輪は、昔のまじない師が特別に作ったものだぞ。そう簡単に行くものか」
「そんなの、聞いてみないとわからないじゃない。本だって、有益な情報が載っているとは限らないでしょう? 人に聞いたほうが、闇雲に本を漁るよりはいいと思うけど」
「……まあ、一理ある」
シルヴェストルは、不承不承といった態で認めた。
「それじゃあ、次にすることは決まったね。王都へ行こう!」
明るく言ってから、レンカは家令に笑顔を向けた。
「わたしは一応、未亡人という扱いなので、寡婦産はもらえるんですよね? それさえあれば、王都への旅費も滞在費もまかなえます」
寡婦は夫の財産のうち、三分の一を受けとる権利があったはずだ。
「いえ、それが……」
家令は言いにくそうに口ごもった。
「結婚とは、夫婦が共寝して初めて成立するものでございます。しかし、あなたは初夜の前に逃げだされたので、正式には旦那さまの奥方とは言えず、よって未亡人とも言えないのです」
「……つ、つまり」
レンカは半ば放心しながら、なんとか言葉を絞りだした。
「寡婦産はもらえない……?」
「次にバラーシュ家を継ぐのは、恐らく旦那さまの従兄弟ぎみでしょう。その方は結婚式に参列されませんでしたが、レンカさまがお逃げになったことは、ご存じのはずです。寡婦産を要求されても、恐らく突っぱねられるかと……」
「そんなあ」
レンカはがっくりした。
先立つものなくして、どうやって王都へ行けばいいのか。
(初夜まで我慢してから逃亡すればよかった? ……いや、州総督が相手だなんて、絶対に無理。虫唾が走る!)
そんなことを考えているうちに、彼女は恐ろしい事実に気づいた。
「そうだ! その従兄弟が当主になったら、わたしたちはどうなるんですか? やっぱり、州総督を殺した罪に問われますよね……?」
なぜ、これほど重要な問題を忘れていたのか。
レンカは蒼白になって唇をかみしめた。
正当防衛だと主張したところで、果たして親族は納得するだろうか。
家令がなにか言いかけたところで、シルヴェストルが横から口を挟んできた。
「あの男は何人もの人間を手に掛けている。それを返り討ちにしたのだから、情状酌量されると思うが。……まあ、法廷に引っぱりだされるのは面倒だから、隠蔽すればいいんじゃないか」
「隠蔽!? で、でも、州総督が殺されたことは、ここの人たちみんなが知っているよね。言い逃れはできない気がするけど」
「そこの家令がなにに感謝したのか、思い出してみろ。僕たちに多少なりとも恩を感じているのなら、監獄送りにするはずがない。それでも後顧の憂いを絶ちたいなら、奴らを従わせる権力を手に入れるしかない」
「どういうこと?」
シルヴェストルはにやりと笑った。
「この家を乗っとればいい」
「……はあ!?」
レンカはあんぐりと口を開けた。
この吸血鬼、気は確かだろうか。
「なに言ってるの? あんたもわたしも、バラーシュ家の血筋じゃないのに!」
「そんなもの、いくらでも捏造できるだろう」
シルヴェストルは悪びれた様子もなく、涼しい顔である。
「あの男、兄弟はいたのか?」
「ひとり、妹ぎみがいらっしゃいました。旦那さまより二つ年下で、十八のときに、病を得てお亡くなりに……」
「それは好都合。そうだな……」
思考を巡らしているのか、シルヴェストルはしばし宙を見つめた。
「その妹は、十五のときに使用人の子を産んだ。醜聞を避けるため、子どもは秘密裏によそへ預けられる。しかし、病により死期の迫ったアーモス・バラーシュは、跡継ぎがいないためにその子を呼びもどし、養子にした。遺言状にも、養子を次の当主として指名している。……こんなところでどうだ?」
「どうだって……その養子をシルヴェストルってことにするの? しかも、当主になるつもり!?」
「むろん、そういうことだ。一から十まで言わないとわからないのか?」
鼻で笑われても、レンカは怒る気にもなれなかった。
ただ、シルヴェストルの面の皮の厚さに、呆れかえるほかなかった。
「……あのねえ。そんなむちゃくちゃなこと、できるはずがないでしょう。ばれたらどうするの? 罪状がひとつ増えるじゃないの!」
「使用人の協力があれば、そう簡単にばれるものか」
「だからって……!」
「では、この状況をどう打開する? 手持ちがない以上、王都へ行くなど、ただの夢物語だ。だが、僕が当主になれば、この家の財産を自由に使える。手っ取り早く問題を解決できるというのに、ためらう必要がどこにある?」
「うっ……」
痛いところを突かれ、レンカはうめいた。
シルヴェストルの言い分はもっともだ。しかし、彼女の良心がそれを許さなかった。
「こ、ここの人たちは、吸血鬼の主人に苦しめられていたんだよ。それなのに、あんたが当主になったら気が休まらないじゃない! ……いや、あんたがわたし以外の血を吸わないのはわかっているけど、心証は悪いでしょう!」
「……あの、ひとつよろしいでしょうか」
今まで黙っていた家令が、控えめに口を出してきた。
「シルヴェストルさまも吸血鬼でいらっしゃるようですが、わたくしどもの血はお求めにならない、という認識でよろしいでしょうか?」
「はい」
「ああ」
同時に返事をしたレンカとシルヴェストルに、家令は相好を崩した。
「でしたら、わたくしに反対する理由はございません。あなたはわたくしどもの恩人です。当主になりたいとおっしゃるのでしたら、どうぞそのように」
「ええっ、いいんですか!?」
仰天するレンカに、家令は「はい」とうなずいた。
旗色が悪くなったレンカは、懸命に頭を働かせた。
「で、でも、当主になるなら州総督も継がなきゃならないんじゃない? あんた、そんな責任重大な仕事できるの? ぐうたらのくせに」
「はっ、王にまでなったこの僕に、ぐうたらだと? おまえの目は節穴か? ……ものを知らないようだから教えてやるが、州総督は世襲制ではない。すくなくとも、僕が人間だったころは違った」
シルヴェストルが家令にちらりと視線をやると、彼は「現在も同じです」と答えた。
「州総督は、国王陛下に任命権があります。二代続く場合もありますが、滅多にないと聞きおよんでおります」
ほら見たことか、と言わんばかりのシルヴェストルが憎たらしい。
レンカはなおも抵抗しようとしたが、それ以上、なにも思い浮かばなかった。
「……わかった」
深々とため息をつき、レンカはついに負けを認めた。
「その代わり、当主の務めはちゃんと果たしてよね。財産を使うだけ使ってなにもしない、なんてありえないから」
「なにを言っている。城の経営も領地の管理も、家令の仕事だ。そいつに任せればいい。僕が手を貸さなくても、なんら問題はない」
「やっぱりぐうたらじゃないの!」
尊大に言いはなつシルヴェストルに、レンカは頭を抱えたくなった。
(本当にこれでいいのかな……)
だが、現状この手しかない。
不安と後ろめたさを覚えながらも、レンカは結局、詐称を容認するしかないのだった。