第10話 人ならざる者たち
※ 後半に残酷描写あり
二本の牙が食いこんでいるにしては、不思議と痛くなかった。
ただ、入眠前のように頭がぼんやりとして、全身の力が抜けていく。
途切れそうな意識のなか、真っ先に思い浮かんだのは、最後に見たシルヴェストルの姿だった。
(州総督が指輪のいわれを知らなければ、あいつは解放されるはず。……わたしが死んだら、きっと喜ぶだろうな)
シルヴェストルが晴れて自由の身になるのなら、自分の死も無駄にはならないだろう。
けれど、そうおのれに言い聞かせてみても、胸の中は後悔でいっぱいだった。
(こうなる前に、会っておきたかった。会って、伝えたいことがあったのに……)
「シルヴェストル」
譫言のように、レンカはつぶやいた。
その名を口にした直後、外気のようにひんやりとした空気が、頬を撫でていった。
(なに……?)
レンカは重いまぶたをうっすらと開け、辺りに視線を走らせた。
(もやもやして、よく見えない)
なぜこれほど視界が不明瞭なのか、と回らない頭で考えているうちに、理由が分かった。
目の前に、霧が漂っているからだ。
(幻覚でも見ているのかな……)
霧は、窓から侵入しているようだった。板戸の隙間からするすると入り、部屋に充満していく。
これほど不可解な現象が起こっているにもかかわらず、アーモスはなんの反応も見せなかった。ただ、一心不乱に血をすすっている。
やはり自分がおかしいのか、と訝しんでいると、不意にアーモスがうめき声をあげた。
彼はレンカの首から顔を離して、寝台にどさりと倒れこんだ。
「州総督?」
レンカはくらくらする頭を押さえ、彼がいる辺りを振りかえった。
しかし、霧に目隠しされ、ものの形すらはっきりとわからない。
いったいなにが起きているのか。
うろたえているうちに、ベールが取りはらわれたように、さっと霧が散った。
微動だにしないアーモスを、誰かが見下ろしている。
暖炉の火明かりを背にしているため、顔は影に沈んでいる。だが、そのたたずまいは、見覚えのあるものだった。
「シルヴェストル……?」
確信が持てないまま小声でたずねると、彼はこちらに顔を向けた。
「呼ぶのが遅い」
不機嫌さのにじむ声音で、そう文句をつけてきた。
「えっ、本当にシルヴェストルなの!? なんでここに?」
「呼んだだろう、僕の名を。主が下僕の名を口にすれば、下僕は即座に呼びだされる。当然、知っているものとばかり思っていたが」
「……初耳だけど」
レンカはがっくりとうなだれた。
シルヴェストルには頼るまいと思っていたが、事ここに至っては、事前に知っておきたかったと思ってしまう。
「……まあ、いいや。それはともかく、来てくれて助かったよ。あやうく殺されるところだったし。……って、そうだ! 州総督はどうしちゃったの?」
「州総督とはこの男のことか?」
シルヴェストルは冷ややかな眼ざしでアーモスを見やった。
「霧に紛れて、心臓をひと突きした」
銛で魚をひと突きした、とでも言うような、あっさりとした口調だった。
レンカはしばし絶句して、シルヴェストルを眺めた。
今になって、彼の右手、肘から下が黒っぽいことに気づいた。
「つ、突いたって……手で?」
「今は武器を持っていないからな。仕方なく」
シルヴェストルは肩をすくめた。
事もなげな彼とは対照的に、レンカはどうしよう、と青ざめた。
アーモスが死んだところですこしも胸は痛まないが、厄介なことに、彼は州総督だ。
州総督とは、国王の代理として州を統べる、重要な役職である。そんな権力者を殺したとなれば、ただでは済まないだろう。
と、そこまで考えて、なにかが引っかかった。
「あれ、ちょっと待って……そうだ、この人、吸血鬼なの! 吸血鬼って、簡単には死なないんじゃ……」
そのとき、視界の隅に動くものがあった。
アーモスが飛び起きた。
鋭利な爪がシルヴェストルの首に迫る。
しかし、シルヴェストルはいささかも動じなかった。アーモスの腕をつかむと、勢いよく引き倒す。
どん、と大きな音を立てて、アーモスは床に叩きつけられた。
「主君! どうされましたか!」
すぐさま扉が開けられ、見張りのふたりが部屋に踏みこんできた。
シルヴェストルは忌々しげに舌打ちした。
「……面倒だな。おい、貴様ら。ここで見たことは忘れて、持ち場に戻れ。他の人間になにを聞かれても、問題ないと答えろ。絶対にここへは通すな」
ついでに剣を一本よこせ、とシルヴェストルが言い足すと、催眠術に掛かった見張りは鈍重にうなずき、そのとおりにした。
よろよろと出て行くふたりに、先ほどうかつにも催眠術を掛けられた自分が重なり、レンカは渋面を作った。
「……霧に姿を変え、ここまで入りこんだのか。まさか、ご同輩に出会えるとは思わなかった」
闖入者にかかずらっている間に、アーモスは調子を取りもどしたらしい。ゆっくりと立ちあがった。
左胸が血で汚れているが、新たに流れでている様子はない。
もう傷がふさがったのかと驚愕するレンカに、シルヴェストルは言った。
「おまえの話を聞いたときから、州総督とやらは吸血鬼ではないかと疑っていた。それで、試しに心臓を突いてみたが……やはり、杭を使わなければ死なないようだな」
「杭で心臓を突き刺すってこと……?」
「それか、首をはねるかだ」
残酷な方法に、レンカは思わず身震いした。
アーモスは眉をひそめ、シルヴェストルに目を向けた。
「君は、その娘とどういう関係だ? 吸血鬼が人間を守るなど、聞いたこともないが」
「……こいつは僕のしもべだ。勝手に殺されては、生活に支障をきたす」
「いや、わたしの方が主人なんですけど」
言うに事欠いてなにを言っているのだ、この下僕は。
にらみつけるレンカを無視して、シルヴェストルは話を続けた。
「僕がなによりも我慢ならないのは、自分のものをかすめ取られることだ。そして貴様はなんの断りもなく、僕のしもべに手を出した。……まったく」
シルヴェストルはぎりぎりと歯ぎしりした。
「不愉快極まりない」
吐き捨てるような口調に、レンカは目を丸くしてシルヴェストルを見上げた。
彼にとって、自分は目の上のたんこぶなのだと思っていた。窮地に陥っても毛ほども気にならないし、死ねば清々する存在なのだと。
だから、そんな感情を抱いていたとは、すこしも想像していなかった。
「私からすると、獲物を横取りしたのは君のほうなんだがね。……まあいい。それで、どうする? 彼女を掛けて、決闘でもするか?」
抑揚を欠いたアーモスの問いかけに、シルヴェストルはせせら笑った。
「決闘だと? 馬鹿馬鹿しい。確かに僕は貴様を始末したいが、それはこいつの所有権を手に入れたいからじゃない。ただたんに、貴様が気に食わないだけだ」
「……そうか。では、仕方ないな。私としては、同胞を手に掛けるのは気が進まないが」
アーモスは憂鬱そうに嘆息した。
次の瞬間、彼の姿がかき消えた。
代わりに現れたのは、蝙蝠の大群だった。雲霞のようなそれが、いっせいにシルヴェストルへと襲いかかる。
シルヴェストルがうっとうしげに追いはらおうとしても、蝙蝠はひるまなかった。寄ってたかって彼の右手を攻撃し、剣を落とさせる。
「あっ」
レンカは息をつめた。
即座に、蝙蝠によって剣が奪われる。
剣のもとに、つぎつぎと蝙蝠が集まった。そのさまは、さながら巨大なスズメバチの巣のようだ。
シルヴェストルはひと息に群れへと肉薄したが、一歩遅かった。
蝙蝠から元の姿に戻ったアーモスが、飛びすさったのだ。剣を抜き、シルヴェストルに斬りかかる。
シルヴェストルの胸元に、ぱっと血が散った。
「シルヴェストル!」
レンカが悲鳴のような声をあげても、彼は冷静そのものだった。
再び振りおろされた剣先をすっとかわし、両手で剣の柄を握る。そのまま下向きにぐるりと回転させ、剣を引く。
アーモスは腕をねじる羽目になり、体勢を維持できず、床に転がった。
「目を閉じていろ、レンカ!」
シルヴェストルが叫ぶのと、アーモスが跳ね起きるのはほぼ同時だった。
奪い返した剣を手に、シルヴェストルが床を蹴る。
彼の意図するところがわかり、レンカはぎゅっと目をつむった。
肉を断つ音。次に重いものが落下し、転がる音。
それがなにを意味するか、考えないようにした。
「……終わったぞ」
シルヴェストルの声に、レンカは目を開けたくない、と思った。
しかし、いずれは現実を直視しなければならない。
こわごわとまぶたを開け、真っ先に飛びこんできたのは、切りはなされた頭部だった。血だまりに横たわるアーモスの遺体に、レンカは冷や水を浴びせられたような心地になった。
そして、その場で失神した。