第1話 逃げだした花嫁
レンカは森の中を走っていた。
豪奢なローブの裾をたくしあげ、モスリンのベールと肩までの赤毛を弾ませながら。
金色のベルベットに銀糸の縫い取りがあるローブは、レンカのためにあつらえられたものだ。
平時であれば、身にまとうだけで浮かれた気分になるだろう。
しかし、追っ手から逃げている今、この重たい婚礼衣装はわずらわしいばかりだった。
落ち葉を蹴立てて進む音が、自分とは別に、遠くからも聞こえてくる。
レンカはその音から遠ざかろうと、息苦しさをこらえ、さらに走る速度をあげた。
彼女が逃げだしたのは、自身の結婚披露宴。
そして追ってくるのは、花婿の騎士たちだった。
(こんなにすぐ見つかるなんて!)
焦りを抑えようと、レンカはローブを握りしめた。
夫となる人は、彼女が住むウェデリーン州の州総督、アーモス・バラーシュだ。
本来であれば、貧乏貴族のレンカが顔を拝むことすらかなわない、大貴族である。
アーモスが身分差のあるレンカを望んだのは、彼女を見そめたからではない。彼に関する、ある噂が原因だった。
アーモスは四人の女性と結婚歴があり、全員を事故や病気で亡くしている。
それだけでもきな臭いが、さらに異様なのは、最初の妻を除いた三人が、嫁いでから間を置かずに急死していること。そして四人全員の葬儀が、親族を待たずに終えられていることだった。
遺体と対面することもできなかった近親者は、当然アーモスに抗議した。
しかし彼は、「遺体の損傷が激しかったから」「遺族に見せるには忍びない姿だったから」などと言い訳し、追及をかわした。
その態度は、親族に不信感を抱かせるには十分だった。
遺体を見せないのは、なにかやましい理由があるからではないか。
たとえば、何者かに殺害された形跡があるとか――。
そんな親族の話が風のようにウェデリーン州を駆けぬけ、新妻たちはアーモスに殺されたのだとか、頭からバリバリ食われたのだとか、邪教の神への供物になったのだとか、まことしやかに語られるようになった。
レンカの住むトベラフ村にも噂は流れてきたが、しょせんは他人事だった。
アーモスの使いが、彼女の住む粗末な家にやって来るまでは。
使者いわく、こちらのことは前州総督のもとで働いていた、母方の祖父を足がかりに知ったらしい。
ぜひバラーシュ家に嫁いで欲しいと言われ、父は一も二もなく了承した。
持参金が不要なばかりか、アーモス側から婚資を出すと言ってきたからだ。
古代には存在した習慣らしいが、夫から妻の実家に財産を与えるなど、今の世では聞いたこともない。
こちらをつなぎとめようと必死な様子は、うさんくさいことこの上なかった。
アーモスは噂のせいで、ことごとく縁談を拒否されたに違いない。そのため、レンカのような下層貴族の娘しか当てがなかったのだろう。
彼には子どもがいないらしいので、後継者を残すまでは、結婚を繰りかえす腹づもりと見える。
だが、そのような事情はレンカの知ったことではなかった。
火のない所に煙は立たない。命を落とす可能性があるならば、断固として拒否したかった。
けれど現実的に考えれば、ウェデリーン州随一の権力者に逆らえるはずもない。
それにくわえ、欲に目がくらんだ父が乗り気なことから、レンカの意思は当然のように無視された。
所領といえばわずかな農地しか持たないレンカの家は、農民同然の暮らしを送っている。
それに嫌気が差して酒びたりになった父からすると、アーモスの申し出は、涙が出るほど嬉しかったに違いない。娘を売ることに、なんのためらいもなかった。
十二歳で母が亡くなってから四年間、畑仕事をしながら父の面倒を見てきたレンカだが、今回の仕打ちでほとほと愛想がつきた。
父への反抗心と生きのびたい欲求から、レンカは結婚披露宴を抜けだし、近くの森に逃げこんだのである。
逃亡するには、結婚式当日の今日をおいて、ほかになかった。
結婚が決まったその日にアーモスの屋敷に連れていかれ、軟禁状態に置かれていたからだ。
外に出てしまえばこちらのものだと思っていたが、監視の目は、レンカが思った以上に厳しかったらしい。
逃げだすところを目撃され、追われる羽目になってしまった。
そうして緑と黄の入り交じった秋の森を、どれほど進んだだろう。
足も肺も限界を訴えはじめたころ、レンカは木々のあいだから、きらめくものを認めた。水の流れる涼しげな音も聞こえてくる。
(あれって、川?)
さらにその手前には、長方形の建造物がある。
レンカは吸い寄せられるようにしてそれを見つめた。
四隅に塔を備えた、石積みの建物。
どっしりとたたずむそれは、大昔に建てられたであろう城だった。
損壊もなく、つる植物がはびこる様子もなく、人の手が入ったように綺麗である。
アーモスが所有する城だろうか。
だが、そのわりには守衛もいないし、人の気配を感じられない。
(無人だとしても、あの中に入ったら、袋のねずみになってしまう)
そうわかっているのに、レンカは城から目をそらすことができなかった。
あの古城には、抗いがたいなにかを感じる。
気づけば、彼女は釣り針にかかった魚のように、城へと引きよせられていた。
階段をのぼって中に駆けこみ、道なりに進むと、細長い大広間に出た。
外観と同じく古めかしさはあるが、うらぶれた様子はない。
長机と長椅子だけが置かれた空間は人気がなく、がらんとしている。
身を隠すには不適当なため、レンカは入ってきた戸口とは別の扉を開けてみることにした。
そこには、大広間と同じ規模の部屋が広がっていた。
違いがあるとすれば、天蓋つきの寝台や、衣類を収納する櫃が置かれていることだ。ここは寝室なのだろう。
長方形の短辺にあたる部分、すなわち部屋の両端にしか窓がないため、寝室は薄暗かった。
レンカは窓際に置かれた櫃に走りよった。
ここならば、隠れてもすぐには見つからなさそうだ。
追っ手が櫃を開けるのではないか、城に人がいて見とがめられるのではないか、とは考えなかった。
このときのレンカは焦りと混乱で、とにかく身を隠すことしか頭になかったのだ。
そうしてはやる心を抑えながら櫃を開けたレンカは、そのまま硬直した。
彼女の目に飛びこんできたのは、衣類ではなかった。
まぶたを閉ざした青白い顔に、金の短髪。
チュニックの上に緋色の外衣をまとった、ぴくりとも動かない体。
櫃の中に収まっていたのは、レンカと同じ年頃の少年だった。