第二章 籠の鹿 一
一
ターミナル駅を出てやっと、戸守芙由は籠もっていた息を吐いた。一直線に切り揃えられた前髪のすぐ下で、長い睫が揺れる。目鼻立ちの整った顔は、少し疲れているようにも見えた。
芙由はファーストクラスの席が苦手だった。狭い空間で仕事をするのに慣れているから、広いシートに座っていると落ち着かないのだ。公人用のジェット機で来るという選択肢もあったが、出来る限り目立ちたくなかった。桜の御紋が入った機体は、どこへ行っても目立ってしまって仕方がない。
風に煽られて靡く髪を押さえ、芙由は背後の男を振り返る。目も髪も黒い白人は、腫れた目を瞬かせながら、甘そうな缶コーヒーを飲んでいた。
「時差ボケてないで、しゃきっとしろ」
大袈裟に肩を竦めて、キース・カークランドは大きな欠伸を漏らす。彫りの深い顔立ちの、痩せた男だった。普段なら鋭い筈の彼の双眸は、眠気の為か半分ほど閉じている。しかし彼は、機内でずっと寝ていたはずだ。
眠そうな同行者に溜息を吐き、芙由はバッグを抱え直して歩き出す。左肩に鞄が一つだけという身軽さに慣れず、少し不安になる。大きな荷物は先にホテルへ送ってあるし、それ以上の手荷物など必要ないのだが。
「迎え来ないんですか?」
「来ない。市内の状況を見がてら歩いて行く」
少し後ろをついて来るキースを振り返りもせず、芙由は答える。
「仕事熱心なこって」
「今回はそういう仕事だ」
ああ、と力の抜けた声を漏らし、キースはコーヒーを飲み干した。片手で空になった缶を軽く振りながら、のろのろとポケットをまさぐる。まだ完全に覚醒しきっていないのかも知れない。
「一人でタクシーを使ってもいいんだぞ、自腹で」
「冷たい事言いなさんな。仕事があんたの警護じゃなけりゃ、即タクシー拾ってましたよ」
言いながらタバコに火を点け、キースはゆっくりと煙を吐き出す。寝るか無駄口を叩くか煙草を吸うかしかないのだろうかと、芙由は思う。
「大体そんな格好で警護も何もない。スーツを着ろ、公務なんだぞ」
空き缶を灰皿代わりに煙草を吹かす彼は、Tシャツの上に皮のジャケット、下はジーンズという出で立ちだった。どう見ても要人警護中の軍人とは思えない。
幾ら伊太州が温暖な気候であるとは言え、季節は冬だ。寒そうに見えるが、雨州民は冬でも半袖で歩いていたりするから、彼にとってはこれが普通なのかも知れない。しかしせめて、スーツを着て欲しい。
「似合わないんで勘弁して下さい」
「着てみろ、笑ってやるから」
「鼻で笑うんじゃなくて、もうちょっとにっこり笑ってくれたら考えます」
「断る」
ローマ市内の街並みは、以前と何ら変わりない。芙由が最後にこの街を訪れたのは、華との内戦が勃発する前だったから、二十年ほど経っているだろうか。
ロスト以前からの風習で、劣化しては元通りに修復されている独特の建造物達は、数百年前から変わらぬ美しさを保っている。青空に映える美しい建物は、何年経っても色褪せない。古くに完成されたものを後世に残すという伊太の考え方と、洗練された街並みには素直に感動を覚える。
けれど最近になって、この街の人々は変わってしまった。若干二十余歳の女が、知事となってからの事だ。
伊太州知事が交代した頃には、芙由も師団長として忙しくしていたので詳しくは知らないが、出雲は少なからず動揺していたらしい。不法ではないが、その若さでの知事就任は前代未聞の事だった。
「ここも変わったな」
呟いた声は、けたたましい車のクラクションにかき消された。聞こえていたのかいないのか、キースは短くなった煙草を缶に押し込みながら、大きく息を吐く。どういう反応なのか、芙由には分からなかった。
路地から漏れ聞こえる、罵声と怒号。風に乗って届く微かな銃声。酩酊した男女の集団と、嗅ぎ慣れた鉄錆の臭い。若い女性へ、手当たり次第に声を掛ける若気た男。いや、これは昔からだ。
少なくとも芙由が最後に訪れた時には、こんな街ではなかった。陽気な人々がカフェテラスで呑気にコーヒーを啜る光景が、そこかしこで見られていた。それが今ではこの有り様だ。
「街並みは相変わらず美しいが、治安は雨並だな」
「嫌味ですかそりゃ」
「事実だろう。軍がまともに機能していない。まずはそこだな」
「うちの軍はまともですよ。ホント、あんたは真面目なんだからなァ」
肩越しに振り返って睨むと、煙草に火を点けていたキースは視線だけを上げて笑った。何が可笑しいのかさっぱり分からない上に、仕草がいちいち芙由の癪に障る。
「そんな事より、ローマの休日と洒落込みませんか? そこらでスクーターちょろまかして」
あからさまに顔をしかめて、芙由は正面へ向き直った。最後に会ったのは二十年以上前だったが、不真面目さは全く変わっていない。
「一人でサグラダファミリア辺りにでも観光に行ってしまえ。完成しただろう」
「六十年ぐらい前にな。そりゃ西班じゃないですか」
「だから出来る限り私から離れろと言っている。真実の口に吸い込まれろ」
タバコの煙だけが、風に乗って芙由の顔の横へ勢い良く流れてきた。噴き出したのだろう。
「ったく、出雲の女はどいつもこいつも……」
呆れたようにぼやきながら、キースは更に芙由と距離を置いた。案外素直だ。
何故彼を嫌うのか、芙由は自分でもよく分からなかった。言動が嫌なのは多分にある。放浪癖のある、言葉のセクハラが趣味の不真面目な男だが、賢者なだけあってそれなりに頭は切れる。
それが余計に、癪に障るのかも知れない。長く生きているだけで、自分が賢者のような知識を持たない事に、劣等感を抱いているのだ。それに気付きたくないから、彼を遠ざけるのだろう。
愚かだ。それだけは自覚している。けれど例え頭から自分の中のコンプレックスを認めたとして、今更仲良くしろと言われても、出来ない事だけは確かだった。
「こりゃ早急に対処しないと、まずいかも知れませんね」
警邏の軍人が民間人に銃を突き付けるのを横目で見ながら、キースは呟く。一体何があったものか、その様子から窺い知る事は出来ない。
他支部の軍人が管轄州内で行う事に、口は出せない。公務だと言われればそれまでで、どんなにこちらが正しかろうと、止めれば妨害行為となる。出雲の軍人だけは派遣部隊として赴いていれば、銃を出そうが槍を振ろうが、正当な理由があれば許される。しかし、今の芙由はそうではない。
もどかしかった。権力を笠に着て民間人から搾取する軍人など、今までに何度も見た。その度に歯痒いような憎らしいような、複雑な気分になる。せめて教育部隊の受け入れだけでも、了承して貰えればいいのだが。
それも難しいだろう。賢者と会わせてもらえるかどうかさえ疑わしいのに、教育部隊の受け入れなど了承する筈がない。
「よう色男、誰かと思ったら雨の大佐じゃねえか」
落としていた視線を上げると、進路を塞ぐように、男が二人立っていた。少し訛りのある声が聞こえるまで芙由は全く気付かなかったが、二人とも厳つい容貌をしている。何故気付かなかったのかと疑問に思いながら、芙由は背後のキースを振り返った。
「こんな所で、デートですか?」
キースは不機嫌そうに目を眇め、庇うように芙由の前へ進み出た。男が放った言葉に、芙由も顔をしかめる。
大佐と呼んだという事は、彼らも軍人だろう。それというよりは、チンピラかギャングスタめいている。昔の伊太の軍人は、こんな風ではなかったのだが。
「ジジィのくせに美人連れてんじゃねーか。勿体ねぇな」
キースがジジィなら芙由もババァなのだが、口は出さなかった。
「抜かすなクソガキ共。野郎にナンパされて喜ぶ趣味はねえんだ、さっさと帰って甲板掃除しろよ」
「ハッハ、ご精が出ますね。タマなしのくせに」
二人が同時に笑った。芙由は呆れた溜息を吐き、キースは鼻で笑いながら煙草に火を点ける。
「タマもタネもあるさ、アタマ足りねェ野郎に言われたかねえな。お前がキャプテンなんて伊太海軍はどうかしてんじゃねえのかい、マルコよ」
悪態を吐かれて鼻の頭に皺を寄せたのは、最初に声を掛けてきた男だった。しかしそれも一瞬だけで、すぐに笑い声を漏らす。
「それこそ艦に乗らねー艦乗りにゃ言われたかねえぜ、なァルキアーノ」
「合同演習も途中参加でしたね、カークランド大佐殿。流石賢者様は違うな」
「覚える事がもうねえのさ。バカのお前らと違ってな」
両者の間の空気が、俄かに緊張する。大声で罵り合う三人を、ちらちらと横目で見て行く通行人も増えてきた。芙由は帰りたくなってくる。
片や体格のいい二人と、片や一方は女だ。傍目には、確実にこちらの分が悪いように見えるだろう。更に芙由は、こんな往来でやり合う気がない。キースは背は高いが雨州民にしては細身なので、どことなく頼りなくも思える。
けれど、芙由に不安はない。自分が軍人だからというのもあるし、いざとなったらキースがなんとかするだろうと考えている。彼に任せると、余計に状況が悪化するだけかも知れないが。
「ホラさっさと退けよ、これからデートなんだ」
「てめえ、呑気に往来歩けねェようにされてーのかアメ公」
「しつけえよ。差す水が余ってんなら、その顔にくっついてるマカロニでも茹でてな」
マルコと呼ばれた男は、反射的に顔の下半分を掌で覆った。隣のルキアーノが、呆れた目で彼を見ている。部下のようだが、こちらの方が賢そうだ。
そのまま顔を撫で下ろしたマルコは、何の事だったのかようやく気付いたようだった。彼の鼻は長く真っすぐで、鼻孔が大きい。
「この野郎……その頭ん中に詰まってるオートミール、そこにブチ撒けてやろうか」
キースはどこが沸点なのか分からない。人種の差がある事を引いて考えても、表情の変化が分かり難いからだ。積もり積もって噴きこぼれたのかも知れないが、こうなる前に、さっさと引っ張って連れて行ってしまえば良かったと、芙由は後悔する。
キースは片手に持っていた空き缶を地面に置き、肩を震わせて笑った。銜えたままのタバコから立ち上っていた煙が、呼気で吹かれて周囲に拡散する。
「そしたら代わりに小麦粉でも詰めとくよ、お前の頭にな」
「クソ不味い粉が詰まってんのはそっちの頭だろ」
「ハハッ、ファック」
二人が懐から拳銃を取り出すのと、芙由が彼らの間に立ったのは、ほぼ同時だった。双方驚いた事で一瞬反応が遅れた隙に、芙由の腕が二人へ伸びる。あれ、とルキアーノが呟いた。
芙由は左手でキースの首根っこを掴んでその場から引き離し、右手でマルコの頭を掴む。マルコは慌ててその手を剥がそうとしたが、芙由は構わず頭を下方へ押し込んだ。マルコの頭が、芙由の腹の辺りまで下がる。
よろめいたキースがなんとか保ち直したのをいい事に、芙由は彼を支えに、マルコの頭上へ片足を振り上げた。
「いって!」
頭の上にあった手に、芙由のヒールが刺さった。マルコは大袈裟に顔をしかめて、持っていた銃を取り落とす。キースはシルバーメタリックの銃口で頭を掻いていた。
「……あんた、何考えてんですか」
「こっちの台詞だ。こんな往来で撃ち合いをする気か? 目立つ事はするな」
落ちたマルコの銃を拾いながら、芙由はキースを睨む。身を起こした彼女の目に、引きつったマルコの顔が大写しになった。言われてみれば確かに、鼻がマカロニに見える。
「痛えじゃねえかこの女! 刺さったぞ!」
マルコは自分の手に付いた傷を指差しながら、芙由に迫る。小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、彼女はそれを片手であしらった。
「軍人がそのぐらいでぴーぴー喚くな、みっともない」
「軍人だって痛いモンは痛えんだよ、泣かしてやろうかこのアマ。銃返せよ」
「私はお前と遊んでいられるほど暇じゃない。銃は返さん」
銃を持った手を組んで、芙由は一歩その場から離れる。横目でキースを見ると、彼は肩を竦めて大型の拳銃を懐にしまった。
「男なら拳でやれ」
「てめえ勝手にしゃしゃり出てなんだその……」
「勝った方と一晩」
引きつった表情で芙由に詰め寄っていたマルコの目が、円くなる。キースも片眉を上げて、驚いたような顔をしていた。芙由は両の口角をつり上げ、笑って見せる。
放っておいても良かったが、あまり支部間に遺恨を残させたくなかったし、銃が出てくれば、芙由も黙ってはいられなかった。今回の場合ふっかけてきたのは向こうだが、喧嘩を売った相手が悪い。軍人同士の喧嘩はその場で決着をつけないと、後でどうなるか分からない。
マルコの視線が、芙由の頭から爪先までを値踏みするように往復した。明らかに胸を見た辺りでその動きを止め、彼は目を細めて笑みを浮かべる。
「上等だ」
キースが喉の奥で笑った。マルコが指の関節を鳴らし、彼を睨む。素手でやる気になったようだ。
芙由は困ったような顔をしていたルキアーノの襟首を掴んで、引きずるようにして二人から離れた。彼は複雑な表情で芙由を見たが、何も言わずに溜息を吐く。部外者扱いされたのが、不満だったのかも知れない。不満だろうが大人しくしていて貰わないと困る。
「てめえのそのスカした面、教科書で見てから一度殴ってみたかったんだよタマなし野郎」
「大人しく教科書殴ってりゃ、それ以上崩れた顔にならなくて済んだのになマカロニ野郎」
喜劇だと、芙由は小ばかにしたように鼻で笑った。出雲島民は皆、どこか冷めている。
易々と挑発に乗ったマルコの拳が霞んだ。吠えるだけあって流石に速かったが、同時にキースの姿も軌道上から消える。屈んだと同時にキースの手がマルコの胸倉に伸びたが、彼は肩を引いて体の向きを変え、その手から逃れた。
伸ばされた腕を掴もうとしたマルコの手が、その腕に跳ね除けられる。バチンと高い音がして、彼は顔をしかめた。そこまで強く叩かれたようにも見えなかったから、芙由にやられた傷に当たったのかも知れない。
「ねえ、お姉さん」
甘ったれた口調で、ルキアーノが芙由を呼ぶ。芙由は視線だけを彼に向けた。
「二人ほっといて俺と……」
マルコから取り上げた銃を額に突き付けると、ルキアーノは黙り込んだ。芙由の視線はすぐに、往来で殴りあう二人の方へ向けられる。
「黙って見てろトマト野郎」
キースは防戦一方だった。マルコの拳を跳ね返しはするものの、避けてばかりで攻勢に転ずる気配が見られない。芙由は手持ち無沙汰に組んだ腕を指先で叩きながら、怪訝に眉を顰める。彼も短気だから怒っているものと思っていた分、些か意外だった。
幾ら殴りかかっても手は出さないまま逃げ回るキースに痺れを切らしたのか、マルコは足を振り上げた。また避けるものかと思われたが、キースは正確に顔を狙って繰り出された蹴りを、足首を掴んで止める。あの反射神経は賞賛に値する。
「な……てめ」
「グラタン皿を用意しとけば良かったな」
マルコは足を引き戻そうと力を籠めるが、キースの手はびくともしなかった。細身に見えても、彼は身一つで雨のスラム地区を生き抜いてきた軍人だ。一対一なら負ける筈もない。
キースは右手で足を掴んだまま、肩を引いて腰の位置で左の拳を握る。マルコは下方から振り上げられた拳を受け止めようと、両手を顎の下で交差させたが、足を掴んでいた手が離れると、何かを察して目を見開いた。顎を狙っていた左手が、ガードした腕に触れる直前でぴたりと止まる。
交差させたマルコの腕を左手で掴み、キースは右の拳を握り込んで顔面へ叩き込んだ。太い枝が折れたような、嫌な音が響く。まともに食らった衝撃で後方へ吹っ飛んだマルコの鼻から鮮血が噴き出し、地面を赤く染める。
やや上方からの、見事な右ストレートだった。
「……どんな筋力してるんだ」
ルキアーノがぽつりと呟いた。それは芙由もそう思うが、あれは力というより当たり所の問題だろう。
頭から地面に倒れ込んだマルコの体からは、すっかり力が抜けていた。キースは血で汚れた手を振りながら、今しかた伸した男を視線だけで見下ろして笑う。
「俺はトマトソース工場じゃねえんだよ」
吐き捨てた後、キースは芙由へ体ごと向き直って、肩を竦めて見せる。彼のボディランゲージは、芙由にはよく分からない。
「騒ぎを起こすなと言った筈だがな」
キースは途端に眉根を寄せて、両手を肩の高さまで挙げて見せた。
「あんたが焚き付けたんでしょうよ」
「お前が性懲りもなく喧嘩を買ったから、落とし所を作ってやったんだろうが」
「あんだけ安く叩き売られて買わなかったら、よっぽどの倹約家かタマなしさ」
さっきからタマタマ煩い男だ。芙由は彼を無視して、持っていた銃をルキアーノに差し出した。青年は何故か身構えて、キースと芙由を交互に見る。
「返しておいてくれ。私物なら取り上げるところだが、支給品だろう」
「え、あ……はい」
何故か敬語だった。恐る恐る銃を受け取った彼から視線を外し、キースに向き直る。地面に置いてあった空き缶を拾って火の消えた煙草を突っ込み、彼は芙由に近付いた。
「ようボス、あれどうします?」
「捨てておけ、死にはせんだろう」
「多分な。で、一晩の事ですが……」
芙由はキースを見上げ、薄く笑った。にっこり、とはとてもではないが形容しがたいその表情を見て、煙草を銜えかけていたキースの手が止まる。
「一晩説教だ。出雲賢者殿からのな」
「……ジーザス」
ぽつりと呟いたキースは嘆かわしげに首を振り、大きな溜息を吐いた。