第一章 守人たち 八
八
窓の外で、青い竹林がざわめいている。完全に防音加工を施された室内に届く筈もないのだが、千春には風に揺らされて囁きあう葉の音さえも、聞こえたような気がした。
暖房の効いた室内は、柑橘類の爽やかな香りで満たされている。センターテーブルの上に山と詰まれた蜜柑を一つ取り、千春は黙々と皮を剥く。貰い物の蜜柑は小粒だがとろけるように甘く、外皮さえつやつやと光っている。うっかり食べ過ぎて指が黄色くなってしまうのもまた、風流だと彼女は思う。
「あの、賢者様」
筋を取らずに一粒口に放り込んだところで、正面に腰掛けた乃木がやっと声を発した。千春は蜜柑を咀嚼しながら、首を捻って見せる。乃木は千春に渡された蜜柑を無意味に指先で揉みながら、困ったように薄い眉尻を下げていた。情けない顔だ。
一月がぎりぎり終わらない内にここへ挨拶に来たのは褒めるべきだが、挨拶に来るのは乃木ばかりではない。大体三が日が過ぎた辺りでお礼参り、もとい新年の挨拶は途絶えるが、それでも千春にはする事がある。一月が一番忙しいのだ。
仕事の合間を縫ってこうして会っているのだが、千春にとってはこれが息抜きでもあった。彼女は挨拶回りが嫌いだ。自分が行く事はないので手間はないが、各州の知事が揉み手をしながらご機嫌を伺いに来るのが、この上なく不愉快なのだ。
「あんまり蜜柑ばっかり食べていると、足の裏が黄色くなってしまいますよ」
乃木の指摘に少し驚いたように柳眉を上げてから、千春は笑った。肌の色が濃いから分かり辛いが、足どころか指先まで既に黄色い。
「いいじゃないか。正月は蜜柑と、昔から相場が決まっている。お前も食べなさい、美味いよ」
「もう正月じゃありません」
うう、と呟いて、乃木は自分の手の中の蜜柑とゴミ箱を交互に見た。ゴミ箱の中は、紙くずと蜜柑の皮に占拠されている。いや、大半が蜜柑の皮だろうか。全て千春が一人で平らげたものだ。
「頂きます」
「どうぞ」
あれではもう、ぬるくなってしまっているだろう。焼き蜜柑も冷凍蜜柑も好きだが、千春は室温で適度に冷えたそのままの蜜柑を愛している。出来れば炬燵に入ってゆっくり食べたいのだ。
しかし一年の半分以上の時間をこの執務室で過ごす多忙な彼女にとって、それは四畳半でキリンを飼うより難しい事だ。人生というのは、得てして思うようには行かないものである。
「で、何の話だったかな?」
乃木が蜜柑を食べ始めたところを見計らって、千春は唐突に切り出した。乃木は聞かれてやっと目的を思い出したようで、はっとして顔を上げ、むせる。千春は大いに笑った。
「わ、笑わないでくださ、うえ」
「やれやれ、お前は面白いな」
「あなたが面白くさせてるんでしょう……いたた」
流石にいじめすぎたようだ。喉を押さえて呻く乃木を見ると、千春は食べかけの蜜柑をテーブルに置いて身を乗り出し、彼の前にあった湯飲みを差し出す。掠れた声ですいませんと言いながら、乃木は湯飲みを受け取って中身を一口飲んだ。
途端にあち、と声が漏れる。まだ冷めていなかったのだろう。乃木は下を向いて口を開け、火傷した舌を冷まそうと掌で扇いだ。忙しい青年だ。
「面白いのは結構だが、そろそろ来客があるのでな。あまり時間が取れない。手短に頼むよ」
背中を丸めて茶を啜る乃木が、鬼だ、と呟く声を、千春は聞こえなかった振りをした。乃木は湯飲みを受けに置いてから、背筋を伸ばす。元々姿勢がいいので、背中が少し反ってしまっている。
「あの、華が蒙古から撤退したって本当ですか?」
千春は思わず、浮かべていた笑みを消した。乃木が怯えたように身を竦ませるのを見て、再び笑って見せる。またぞろロスト以前の慣習について聞かれるものと思っていたので、それは予想外の問いかけだった。
「軍部にはもう連絡が行ったのかね」
「え、あ……いや」
狼狽して言葉尻を濁す乃木の様子を見て納得し、ああ、と呟いて千春は顎に手を添えた。思案するようなその仕草に、乃木は怪訝に首を捻る。
「まあ、そうだよ。それを確認しに来たのかな?」
「はい。なんだか……意外とあっさり引いたようなので」
「向こうの師団長が独断で行動した挙句、失敗したそうだ。私の口から仔細は話せないがね。報告を待ちなさい」
乃木は複雑な表情で頷き、そのまま俯いた。彼なりに、何か思うところがあるのかも知れない。思う所があったとしても、彼には何も出来ないのが現状だ。口惜しいだろう。
悔しいというなら、千春もそうだ。ここに閉じこもって事務仕事をしているよりも、華の州庁に乗り込んで陳を脅したい。それが出来ないから、裏で指示を出すのだが。
それも、大した影響力はない。最終的に全てを動かすのは、現場にいる者だ。陳が賢者でさえなければ、脅そうが殺そうがどうとでもなる。それこそ軍部の狙撃兵でも使って、一発撃ち込んでしまえば済む。
いや済みはしないだろうが、とにかくこれ程の犠牲が出る事はない筈だった。千春は薄い一重瞼を伏せて、乃木に気付かれないように溜息を吐く。
「何人……亡くなったのでしょうか」
ぽつりと呟いた乃木は、膝の上で固く拳を握り締めていた。彼が見ず知らずの人の死を憂う事の出来る人間で良かったと、千春は思う。軍人に必要なのは技術や力ではなく、この心なのではないかと、彼女は思っている。
「分からぬ。民間から犠牲者は出ていないがね」
「嫌ですね。なんだか」
「嫌なのはお前だけではないよ。皆嫌なんだ」
細く長く溜息を吐いて、乃木は眉間に皺を寄せた。少し疲れた顔は、やっぱり少年のように見える。
軍人はその全てが、重い責任を負う。出雲島民七千万の命が、一人一人の肩にかかっている。それを重いと取るか、頭数で割れば軽いと考えるかは人それぞれだが、出来れば後者であって欲しくはないと千春は思うし、全世界の軍人達を統括する三元帥も、口を揃えてそう言っていた。
賢者である限り、千春が現場に立つ事はない。千春にとっての現場はこの執務室と会議室で、それ以外はないのだ。米大陸以外へは行った事もないし、その米へも碌に出向かない。だからせめてこの場所で、人の為になる政治をと、彼女は思う。
「ん?」
ゆっくりと二度、ドアがノックされた。もうそんな時間だっただろうかと考えながら、千春は返答する。
「入りなさい」
ドアが開いて、濃緑のスーツに身を包んだ女が顔を出した。脱帽して一礼した彼女の肩で、金のモールが輝いている。何を考えてか男物の制服しか着ない芙由の豊かな胸は、些か苦しそうに見えた。
冬の空のように澄んだ目と、吊り上がった細い眉。すらりとした手足と、味気なく一つに括られた長い黒髪。白い肌は出征前より少し荒れていたが、目が覚めるようなその美貌は変わらない。
「新年のご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
凛とした、よく通る声だった。乃木が弾かれたように立ち上がって敬礼する。千春は彼女に笑いかけて手招きした。
「挨拶はいい。よく無事で戻ってくれたな」
「恐縮です。久しぶりだな」
声を掛けられた乃木が、更に硬くなった。千春は楽しそうに笑う。
「そこで固まっていないで外しなさい。彼女に大事な話がある」
「す、すいません!」
乃木の声は裏返っていた。中将を前にして緊張するのは分かるが、もう少し自然に口を利けないものだろうかと千春は思う。何度かここで三人顔を合わせたが、乃木はその度に固まっていた。いい加減慣れてもいい頃だろうと思うのだが。
乃木が出て行ってから、芙由は千春の正面に腰を下ろした。乃木と入れ替わりに事務員が入って来て、乃木が飲み残した茶を下げて芙由の前に湯飲みを置いて行く。
「女性用を着ろと言ったろうに」
白手袋を外しながら、芙由は困ったように眉を顰めた。
「動きにくいから嫌なんです」
「素直に野暮ったいから嫌だと言えばいい。お前が嫌がっても改正は出来ないがね」
渋い表情で湯飲みを持ち上げ、芙由は茶を啜る。体の前へ流した黒髪は、静電気の為か長く乾燥した砂漠地帯にいた為か、少し傷んでいた。聖女としての威厳の問題もあるから、切れなくて邪魔なのだと彼女はよく嘆いている。
「正月ぐらい晴れ着を着ればいいだろうに」
「そんな歳でもありません」
千春は一度だけ、彼女が赤い振袖を着たのを見た事がある。本人は嫌そうだったが、あれは美しかった。
「向こうの師団長……周健だったかな?」
長い睫毛を伏せたまま、芙由は頷く。湯飲みを受けに置いたところで、千春は蜜柑を一つ取って彼女へ差し出した。
「若いだけに、惜しかった。華があんな状況でなければ、いい指揮官になっていたでしょう」
「どうかな。性格的な問題もありそうだと思ったがね」
受け取った蜜柑の皮を剥きながら、芙由は細い眉を歪める。彼女とは長い付き合いになるが、悔いているのか悲しんでいるのか、その表情だけでは読み取れなかった。
「溝口少将の事は、残念だったね」
蜜柑の粒を口に運びかけていた芙由の手が、止まった。戦場にあっては兵は駒だが、日常に戻れば一個の人だ。戻って来た時の芙由の苦悩は完全に理解出来ようもないが、千春も知ってはいる。
決して泣かず、その悲しみをおくびにも出さない彼女が、どれほど出雲で暮らす人々の事を想っているか、千春は知っている。多忙な中、仕事の合間を縫って遺族の元を訪れている事も、知っていた。
「……出雲は、惜しい人を亡くしました」
「そうだな。素晴らしい軍人だった」
荒れて赤くなった芙由の指先が、蜜柑を口に放り込む。甘酸っぱい香りが微かに漂ってきた。
芙由は小さく息を吐き、顔を上げる。その澄んだ目と向き合う度に、千春は何故か背筋が伸びる思いがする。彼女の純粋さは、ある意味宝だ。
「いつまでも悲しんでいる訳には行きません。華は一先ず撤退しましたが、いつまた攻め込んでくるとも限らない」
「隷下の部隊を置いてきてあるのだろう。ゆっくりしなさい」
「私にはまだする事があります。事後処理も殆ど終わっていませんから……」
何を思い出したのかそこで言葉を止め、芙由は渋い顔をした。彼女は書類仕事が嫌いだ。第三師団の師団長に、という話が出た時も、散々抵抗していた。結局任ぜられてしまったが。
「そうだ。向こうが持っていたのは、どこの銃だった? 州内で開発されたものではないと聞いたよ」
「PMMです。露の捕虜から奪ったものでしょう」
銃の開発は禁じられている。基本的には軍部でも使用を禁止されているが、全て破棄しなかったのは、ロスト以前から民間で保持されていたものを元に、秘密裏に生産されているからだ。それを取り締まるのもまた軍部の役目なので、結局装備させざるを得なかった。
槍も刀も、一つの銃には敵わない。今回の事で、軍の上層部は深くそれを思い知った。出雲一の芙由の刀さえ、捕虜から奪った銃に敵わなかったのだ。しつこく火器の補充をと迫って来ていた雨の言う事も、聞かざるを得ないかも知れない。
それは非常に不愉快だ。最終的な決定を下すのは千春ではないから、勢いに負けて許可されてしまうかも知れない。別段問題がある訳でもないが、雨の思い通りになるのが嫌なのだ。
「華はどんどん豊かになって来ています。一丁の銃からでも、今なら量産出来てしまうでしょう。最終的には、全ての部隊に標準的に装備されてしまうかも知れない」
芙由が何を言わんとしているか分かったが、千春は口を挟まなかった。彼女の真っ直ぐな目を見ていると、つい黙り込んでしまう。
「射撃訓練と装備の強化を、早急に進めるべきかと」
「私に言うな、古狸に言え」
「あなたの言う事なら元帥も聞くでしょう。古いというなら、私やあなたの方が古い」
含み笑いを漏らして、千春はソファーに深く座り直した。
「歳は取りたくないものだな」
「全くです。見た目が変わらないだけマシですね」
一方精神年齢はどんどん老け込んで行くのだが、そこは指摘しなかった。年中体を動かしている為か、芙由や雨の賢者はやたらと若い。老け込むのは頭を動かしている賢者達ばかりだ。
古狐と呼ばれても否定しなくなったのは、そんな自分に気付いたからだ。いつからか、誰になんと言われようが、どうでもよくなってしまった。それも歳のせいなのだろうかと、千春は思う。
今ならお使い犬と言われても気にしない、キースの気持ちが分かる。分かりたくもなかったが。
「それを聞く為に、私をお呼びに?」
いや、と短く否定しながら、千春は蜜柑を取る。手が止まらないのは蜜柑が美味いからだ。美味いものは罪深い。
「何、ちょっと伊太まで行って貰おうと思ってね」
芙由は怪訝な面持ちで、さりげなく蜜柑を籠から拾う。どういったわけだか不老長寿の者共は皆、一様にして食い意地が張っている。芙由は食ってもその分動くから太らないが、千春は少々危険だ。
「私に?」
千春は蜜柑を飲み込みながら頷いた。
「神主の娘としてね」
「伊太州知事の所へ行くなら、私でない方がいいのではありませんか? 直の事増長させてしまいそうですが」
芙由は食べながら器用に喋る。悲しい軍人の性というものかも知れない。
「正直な所ね、ゴネられているのだよ。しかしお前が行けば、女帝も断れまい。護衛も付けるよ」
「護衛?」
呆れたような声だった。必要があるとも思うまい。芙由は一人で充分州のトップと渡り合えるし、腕っ節もそこいらのごろつきには劣らない。
理由はあったが、千春には言う気もなかった。そもそも、本当に護衛として付ける訳でもない。要は、護衛の方にかき回して欲しかった。頭の出来は大差ないが、向こうには狡賢さがある。
「そう、カークランドだ」
蜜柑を口に運んでいた芙由の手が止まった。目を見開いて驚愕の表情を浮かべる彼女に、千春は笑いかけて見せる。それで冗談ではないと悟ったらしく、今度はあからさまに顔をしかめた。予想はしていたが、凄まじく嫌そうだ。
芙由は暫く無言のまま、視線を千春から外していた。言葉を選んでいるようだ。
「……護衛は必要ありません。一人で充分です」
「奴よりお前の方が強いとでも?」
眉間の皺が消えない。芙由は苛立たしげにゴミ箱へ蜜柑の皮を投げ捨て、新たに一つ取った。それでも食うのだ。短気に効くのはカルシウムだっただろうかと、千春は呑気に考える。
「二キロもある銃を片手で軽々振り回す男に、腕っ節で勝てるとは思っていません。ただ単純に」
何を思い出したか、芙由は段々と眉をつり上げて行く。千春はそれを愉快そうに眺めていた。
「あの男と二人は絶対に嫌だ」
妙に力が篭もっていた。それでも手は蜜柑を剥く。
「気持ちは分かるが、あれも賢者だ。そう嫌ってくれるな」
「冗談でしょう!」
芙由はとうとう声を荒げた。何故か既視感を覚えたが、千春は何も言わずにおく。
「初めて会った時、私の胸を見てなんと言ったと思う?『やァ、いいココナッツだ』だぞ! あんなセクハラが生き甲斐のような男と二人で行けと?」
そんな事を言われていたとは思っていなかったが、あれは大体そんな発言しかしない。
「いいじゃないか、あれはあれで中々いい男だろう。どうせ口だけで手は出さない、仲良くやってくれ」
「顔じゃない、言動です。死んでも嫌だ」
殆ど泣きそうな声だった。本気で嫌なのかも知れない。嫌でも行って貰わないと千春が困る。
「まあ落ち着きなさい、蜜柑が温くなるよ」
片手に持っていた蜜柑に視線を落とし、芙由は深い溜息を吐いた。ソファに座り直して、素直に蜜柑を口元へ運ぶ。
「私も初めて会った時は、可愛いマフィンだと言われたよ……屈辱だ」
意図せず吐き捨てた声だけ、野太くなった。芙由は顔をしかめる千春を見て逆に落ち着いたようで、まじまじと彼女を眺める。
「……マフィンほども無いですね」
切れ長の目を細くして、千春は芙由を睨んだ。睨まれても、無愛想な芙由の表情は変わらない。
「煩い」
「気にしているんですか」
二人は互いに顔を見合わせて、大きな溜息を吐いた。