第九章 人の国 八
八
出雲は春を迎えていた。桜前線は北上を続け、大社周辺でも、満開の桜がそこここで見られる。花見がしたいと駄々をこねるキースを引きずり、芙由は大社に来ていた。
「お前達は随分ゆっくりだね」
芙由がキースとソファーに着くと、千春はいつもの調子でそう言った。結婚すると報告に来たのだが、千春にそうとは伝えていない。流石に察したのかと、芙由は心中溜息を吐く。
そもそもゆっくりと言われても、付き合い始めて一年半も経っていない。寧ろ早すぎる。
「そうですか?」
問い返すと、千春は大様に頷いた。キースは変わらぬ調子で、横で煙草を吹かしている。
「康秋のところは、もう懐妊報告に来たよ」
「早!」
キースが身を乗り出して、驚愕の声を上げた。叫ぶと同時に吐き出されたタバコの煙が彼の顔の周囲を漂い、芙由の髪に纏わりつく。
「いつ結婚したんですか!」
乃木とキアラが親密にしていると聞いたのは、千春の口からだった。乃木はあろう事か千春の目の前で告白したらしく、やけに楽しそうに詳細を聞かされた。あれもつくづく馬鹿な子だと、芙由は思う。
しかし今のこの千春の言葉は、信じ難い。乃木は隣にいる馬鹿と違って、もっと気を遣う筈だ。
「嘘でしょう」
「まあ嘘だが」
あっさりと自白した千春に、キースが呆れたように肩を落とした。信じるのもどうかと芙由は思うが、こういう素直さが彼の長所だ。
だから、からかい甲斐がある。芙由はよくつまらないと言われているが、からかわれても困るので、キースを引っ張ってきて正解だった。そういう面では、千春も彼を嫌っている訳ではないのだろう。そういう好かれ方をしたくはないだろうが。
「結婚報告には来たよ。二人とも顔が真っ赤で可愛かった」
「また何か言ったんでしょう」
芙由が聞いても、千春は含み笑いするばかりだった。何か言ったのだろう。乃木もキアラも純情そうだから、千春に遊ばれたとなると可哀想に思う。
千春は以前よりずっと、呑気になった。春の陽気がそうさせる訳ではない。彼女も何らか吹っ切れたのだろうが、呑気すぎるのも考え物だ。
大社では今、各州から集まってきた改正法案をまとめている。何しろ膨大な数だし、千春に通す前に取捨選択もしなければならないから、大変な作業だろう。
そんな役人達の苦労を知ってか知らずか、千春は毎日のように、執務室で誰かと話をしているのだと聞いている。色々あったから、賢者に相談しに来る市民も増えたようだ。そういう時は執務室ではなく、謁見室に行くのだが。
「で、昨夜はどうだった?」
千春の笑顔は変わらないが、声に険があった。芙由は顔をひきつらせたキースを指差す。
「これの敬語が抜けないのでダメでした」
「普通に答えんな」
「抜けているじゃないか。未婚の内に何かあったら、絞め殺してやっていたのに」
あったかなかったかと言われればあったのだが、芙由は何も言わなかった。千春なら、本当に首を絞めかねない。
千春がキースに冷たいのはいつもの事だが、今の芙由にとっては、複雑でもある。芙由も彼を蔑ろにはするが恋人だから、このまま認めて貰えないのではないかと思うと、不安だった。単純に、自分以外が彼を貶すのは腹が立つ。
軽く肩を竦めて、キースはセンターテーブルから灰皿を取った。千春の悪態には慣れているようだから、もうなんとも思わないのだろう。
「まあ、まだ暫く若いまま同棲生活楽しむのも悪」
「貴様はさっさと老けろ」
言い終わる前に、千春が吐き捨てた。キースはどこか楽しそうに笑って、灰皿に煙草を押し付ける。反対に、芙由は顔をしかめた。
芙由の表情を見て、千春は鼻を鳴らして笑った。そこで芙由はやっと、自分の方が揶揄われていたのだと気付く。不愉快だったが、千春なら仕方ないとも思う。
「さて、カークランド」
キースは煙草のパッケージから一本抜きながら、視線だけで千春を見た。
「私に言うべき事が、あるんじゃないのかな」
口元に持って行きかけていた手を止め、キースは怪訝に眉根を寄せた。しかしすぐに気付き、煙草をテーブルに置いて姿勢を正す。畏まった彼の姿に気恥ずかしさを覚え、芙由は視線を落とした。
無理矢理引っ張ってきた理由は、キース本人にも千春にも、告げていない。それでも二人とも、芙由が何も言わなくとも理解していたのだろう。
また喧しいだろうと思ったから、芙由はキースに何も言わなかった。それでも、彼は理解してくれる。芙由の手が早いのも口が悪いのも、全て許容してくれる。それが彼女には、嬉しかった。
彼となら、人として生きて行ける。そう思ったから、この道を選んだ。一度は拒絶した手を取り、共に歩んで行こうと、今はそう思える。
芙由の胸に、熱いものが込み上げる。嬉しいような苦しいような、不思議な感覚だった。胸を満たした熱が喉に詰まり、目頭に溜まって行く。
「笹森補佐官、お嬢さ」
「貴様に娘はやらん」
芙由の涙が、一瞬にして引っ込んだ。キースの頬が、また引きつる。
「……え、ここまで来てそれですか?」
怒ったような声に、芙由はキースを見上げた。困惑したような彼の表情に、焦燥感さえ覚える。
「キース、大丈夫だ。何度か通えば、お母様もお前の顔など見たくもないだろうから、すぐ了承してくれるだろう」
芙由は慰めるつもりで言ったのだが、キースは悲しそうに眉を下げた。しまったと、芙由は思う。自分の言葉を反芻してみると、確かに悪態だったと気付く。
大きな溜息を吐き、キースは立ち上がった。嘆かわしげに首を振り、疲れた素振りで額に手を当てる。そのまま扉へ向かう彼を見て、芙由は慌てて腰を浮かす。
「もういいよチクショウ、どいつもこいつも」
「待てキース、泣くな。いつもの事だろう」
「泣いてません」
しかし涙声だった。キースの背中が扉の向こうに消えるのを困惑した表情で眺め、芙由は肩を落とす。
どうしていつも、こうなのだろう。不器用な芙由は、こういう言い方しか出来ないのだ。
置いて行かれて呆然と佇む芙由の背に、千春の視線が刺さる。悪態を吐く以外どうすればいいのか、芙由には分からない。軍にいたのが悪いのか、性格的な問題なのか、自分でも分からなかった。直したいとは思うのだが、芙由の口からは悪態しか出ないのだ。
「芙由」
柔らかな声が掛けられて、芙由は振り返る。千春は目を細めて、穏やかに微笑んでいた。
「幸せになりなさい」
引っ込んでいた筈の涙が、再び込み上げる。胸が詰まって何も言えず、芙由は口元に微かな笑みを浮かべ、大きく頷いた。それから深く腰を折り、頭を下げる。今日からは母でも甥孫でもなく、昨日までの他人の為に、生きて行くのだ。
千春は何も言わなかったが、笑っているのだろうと、芙由は思う。そうであって欲しかった。
廊下へ出ると、キースが扉の横で待っていた。部屋から出てきた芙由と目が合うと、彼も、そっと微笑んでくれた。涙を堪えて、それに応えるように笑顔を作ると、キースは腕を差し伸べる。
芙由は今度は、拒否しなかった。躊躇もなくその腕の中へ体を預け、爪先立ちで首に両手を回す。迎え入れてくれた広い胸に頬を寄せ、芙由は安堵の息を吐いた。
こめかみが痛み、喉が熱くなっていたが、苦しくはない。最後に選んだ道の先には、確かに意味があった。今はもう、何の枷もない。何も迷わずに、この腕に縋る事も出来る。
胸を叩く鼓動の音に堪えていたものが零れ出して、緩んだ芙由の頬を濡らした。
芙由とキースが帰った後、千春は暫くソファーでぼんやりしていた。全て終わってしまったような満足感に、仕事をする気が起きない。仕事をしたくないのは元々だが。
柔らかな春の日差しが、窓から差し込んでいる。花見にでも行きたい気分だったが、外出しようとすると秘書に泣かれるので、やめた。怒られるのは平気だが、下手に出て哀願されると弱いのだ。
ぼんやりしていると眠気がピークに達し、千春は重い腰を上げてソファーから離れた。神主の所にでも行こうと考えながら、部屋を出る。
神は退いたが、神主はその地位に居る。まだ制度が明確に定まっていないし、正式に決定するまでは、神に代わって神主に国のトップとなっていて貰わなければならない。心苦しくは思うが、千春が代わる訳にも行かないのだ。
人気のない階にある神主の執務室の扉を叩くと、すぐに返答があった。開けた扉の向こうに、大きな窓が見える。日差しは柔らかかったが、光量が多い為か眩しく感じて、千春は目を細めた。
「お疲れ様です」
逆光になって真っ黒に見える人影が、柔らかな声でそう言った。戦時中はいつ来てもカーテンが閉め切られていたが、今は開け放たれている。
「お疲れ様。どうです、調子は」
「どうもこうも……暇ですよ」
苦笑する那津仁は、窓際から動こうとしなかった。千春は後ろ手で扉を閉め、応接セットに腰を下ろす。
暖かな部屋だった。窓の外には雲に霞んだような春の青空が広がり、心地良い眠気を誘う。千春は口元を掌で隠して欠伸をかみ殺し、羽織っていた表着を脱いだ。
「アーシアに、電話で泣きつかれたよ」
窓を背にして千春の方を向き、那津仁は怪訝に眉を寄せた。
「何故です?」
「キアラと康を引き離せとね」
ああ、と呟いて、那津仁はまた苦笑いを浮かべた。
挨拶に行ったのだからいいだろうと言っても、アーシアは聞かなかった。乃木が誰の弟なのか気付いたようだったが、それでも、キアラを伊太に帰せと駄々をこねていた。彼女はやけにキアラを気に入っているから、千春にも気持ちは分からないでもない。
しかし口を出すべきではないと窘めると、彼女は存外簡単に退いた。駄々をこねてみたかっただけなのだろう。アーシアは、一人になるのが怖いのだ。
だから、欧州に賢者が必要なくなったら出雲に来なさいと、千春は言った。はいと答えたアーシアの嬉しそうな声は、今でも耳に残っている。
「先を越されてしまいました」
言葉とは裏腹に、那津仁の声は嬉しそうに聞こえた。弟に先を越された形にはなったが、彼も単純に、嬉しいのだろう。
「お前も早くいい人を見つけなさい。まだ暫く、勤めていて貰わないとならぬが」
頷いた那津仁の表情に、陰はなかった。乃木の成長を嬉しく思っているのは、彼ばかりではない。
悲観的で弱音ばかり吐いていた乃木が、大事な人を守ると宣言した。それが千春にとってどんなに嬉しい事だったか、本人は知らないだろう。同じく芙由が、自分の道を選んだ事も。
「弟が羨ましかった事も、ありました」
千春が表情を曇らせると、那津仁は笑った。
「でも、生き方なんて人それぞれです。自分がすべき事をまっとうしたら、私も自分の道を行こうと、今は思います」
穏やかな彼の表情に、千春は安堵した。なんでも聞きたがる弟とは違い、那津仁は一人で悩み、一人で結論を出すのだ。そんな彼が頼もしくもあり、悲しくも思っていた。
けれど那津仁の晴れやかな表情を見ていると、口を出さなくて良かったと、千春は思う。彼は自分で出した答えでないと、納得しないのだろう。
「大洋賢者殿は、どうしていらっしゃるんですか?」
自分の話になるのを嫌ったのか、千春が口を挟む前に、那津仁は話をすり替えた。彼はあまり、自分の事を話したがらない。千春もそうだし、彼の父親もそうだった。血とは思うより濃いものなのだと、そんな小さな事で実感する。
「世界は独り立ちすべきだと言っていた。反省していましたよ、先に私と話すべきだったとね」
「何故ご相談なさらなかったんです?」
「マクレイアーがそうさせたのでしょう。沈んでいたから、詳しくは聞かなかったが」
大洋賢者も北米賢者も、まんまとあのマクレイアーという男にしてやられたのだ。北米に関しては根掘り葉掘り聞き出して、芙由と二人で散々貶したが、大洋に関してはそうは行かなかった。賢者でもない、ただの人の知略にはめられた事を、嘆いていたからだ。
だから賢者はもう必要ないのだと、彼はそう言っていたし、千春も再三の事ながら深く思い知った。ついこの間まで憂えていたが、今は嬉しくも思う。
北米が仕掛けてくれたお陰で、制度の改正を言い出せた部分も、少なからずある。多くの人命が奪われた事は喜べる筈もないが、戦争自体は、無為ではなかったのだ。
複雑ではある。大きな変化の前には、必ず戦争があった事も分かっている。それはある意味、手順なのだろう。
「ニコライは旅に出て、放任主義だったクレオパトラは、内政に関わる決意を固めた。皆、変わったな」
千春はやっと、変わって行く事を嬉しいと思えた。日々刻一刻と変わって行く世界が、思い出すのではなく、今度は成長して行けるようにと、今はそう願っている。全てを思い出したがただ一つ、進歩する事だけは忘れたままでいた世界が、更に発展して行けるようにと。
今は何も、怖くない。この国がこれから先、記憶の中の世界と違うものに変化して行くのだとしても、それで構わない。何が変わっても揺らがないものを、千春は持っているから。
「私にも、今は意味があるような気がするんです」
思考に向いていた意識を那津仁に戻すと、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「思い上がりかも知れませんが……神も聖女もいなくなった今、私だけが、支えになれるのではないかと」
「それはそうだが、気を張る必要はないよ」
「分かっています。ただ……」
那津仁の視線が千春から逸らされ、窓の外に移った。千春は彼の目の動きにつられて立ち上がり、窓に近付く。
窓の外には、広々とした軍事基地が幾つも見える。竹林に囲まれた大社を更に囲むように点在する基地内の様子は、広葉樹林に隠れて窺えない。ここに基地を集めた事にも理由はあったが、今は千春と芙由しか知らないし、教える必要もないと、千春は考えている。
「私は大叔母様に守られているだけの自分が、嫌だったのです。結局何もしていないのは、私だけなのではないかと……」
皆、同じ事を考えていた。乃木は何も出来ない自分が嫌で従軍し、芙由もそうだった。居るだけで意味があるのは地位だけで、芙由本人ではなかった。
けれどもう、全て終わった事だ。那津仁も自分の役目を終えたら、完全に隠遁する道を選ぶだろう。そしてただの人間として、生きて行くのだろう。
「お前が背負っていたのは、責任だったのだろう。芙由と同じだよ、悩むまでもなかった」
「同じ……ですか」
力なく笑った那津仁に笑い返し、千春は窓ガラスに額をつける。足下を覗くと、中庭が見えた。薄紅色の清廉な花を咲かせるあの木を、千春は深く愛していた。
「お前に、教えていない事がある」
今のこの世界の始めの一歩は、国の為になりたいと願った、一人の少年が踏み出した。それを踏襲し、それに倣って失われた記憶を上書きして行ったのが、賢者達だった。もうこれ以上、伝えなければならない歴史はない。
だから今は、この国が神が望んだ国になるように、願うだけだ。神は死の間際に、自分自身に立てていた五つの誓いを、千春に託した。
貧しい人から搾取してはならない。弱い人を虐げてはならない。優しい人が傷つく世界であってはならない。子供に未来を悲観される国であってはならない。
そして、家族を無碍にする人がいてはならない。
「国を構成する最小の単位は、家族だ。神は国を愛する以上に、家族を愛していた」
那津仁は、神妙な面持ちで千春を見詰めていた。千春は視線を落としたまま、続ける。
「神の名は笹森夏夫。双子の姉が明紀、妹が芙由。どんなに長い年月が過ぎ、自らが忘れ去られても、いつまでも家族の絆が途切れる事のないよう、巡る四季になぞらえた」
「名付けに悩んだと、父が言っていましたよ」
「夏と秋しか選択肢がないからね。悪い事をした」
何よりも大事なものを、神は知っていた。記憶を失った人々の為にまず行ったのは、家族を探す事だった。
生易しい事ではなかっただろう。中にはとうとう家族が見つからずに、死んでしまった人もいると聞いた。親が見つからず、孤児の数も激増したという。それでも皆が家族と共に過ごせるようにと、できる限り捜すようにと、神はそう伝えた。
「この国の花は桜。私の好きな花だ」
「お好きだったのですか」
「ああ。神は私の名に因み、この国に千の春が来るように、桜を国花とした」
千春にとってはこの国こそが、夫が確かに存在した証だった。その手を離れようとも、変わらずに受け継がれて行く確かな絆を、千春はきっと忘れないだろう。
「あなたはこれから、どうなさるんですか?」
どこか不安そうな声だった。横顔で笑って見せ、千春は窓ガラスに手を着く。
「私はね、覚えていたい」
いつかこの国から争いがなくなり、人の心に垣根がなくなったら。そうしたら徐々に軍部を縮小し、この周辺の基地を、少しずつ減らして行くつもりでいた。それが目に見える平和というものだと、神はそう信じていたのだ。ここから見える街から軍事基地が一つもなくなった時、この国はやっと平和になるのだと。
けれどそんな事はもう、望めはしない。ここから基地がなくなっても、内戦はなくならないだろう。
代わりに彼の望みは、叶えられようとしている。いつか人が神なしで歩けるようになった時、神というものをなくして欲しいと、彼はそう望んだ。神が古代の神と同義となり、宗教というものが統治者であった神を崇めるものとなったら、世界は真の意味で統一されるのだと、そう言っていた。
信じるものが一つなら、少なくともその為に争いは起きない。世界にあった一番大きな争いの芽を潰し、神はこの世を去った。それは確かに偉大な功績だったのだと、千春には思える。
「この国の神が、何よりも家族を愛していた事を」
それでも千春にとっては、彼は夫だった。この先何があっても、きっと、千春は忘れない。いつか自分が死ぬ時が来たら、この胸の内に秘めた思い出を託す人がいればいいと、今はそう願っている。
子供達の、その子供の来るべき未来の為に、亡き夫の為に、千春は生きてきた。娘に支えられて、ここまで世界を動かしてきた。一人で負うには重すぎた荷は、今やっと、その背から下ろされようとしている。
「私を、子供達を、守ってきた事を。ずっと、覚えていたいんだ」
青い竹林が、囁き合うように揺れる。その間を、小さな花びらが風に乗って通り過ぎて行く。満開に咲き誇る桜は、この国の門出を、祝っているかのようだった。