第九章 人の国 七
七
「ところで結婚して下さい」
キースは真面目くさって表情を引き締め、そう言った。
唐突だ。驚く隙もない程、唐突だった。芙由は横に座った彼を真顔で見つめたまま、黙り込む。
世界は未だ、混乱の内にある。神が統治者の座から退き、人に世界を明け渡すと、宣言した為だ。とは言え今はまだ制度を決める前の段階にあるから、単純に動揺しているだけと言えるだろう。
神はまだ失くせないと、千春は言っていた。退いた神という元統治者が神格化しつつある今、統治者であった頃の事を、人が徐々に忘れて行くのが最良だと、彼女は言う。今まではそれを恐れていたものだが、千春も変わったのだ。
現在雨では、内戦を企てた首謀者である元北米総知事と、元雨知事の裁判を行っている。同時に、雨に便乗して参戦した支部内に捜査の手を入れているから、大社は多忙を極めていた。
北米総知事と共に出雲に反旗を翻した大洋賢者は、雨が退くと同時に降伏した。何が目的だったのか芙由は知らないが、千春が説得したようだ。制度を変えると言ったらあっさり納得したと言うが、些か怪しい。説得というよりは、説教だったと思われる。
芙由はどさくさに紛れて本部に異動させられ、完全に内勤となってしまった。元帥が喜んでいたが、芙由本人には不満も残る。これでは聖女の地位を捨てた意味がない。
地位を捨てると決めたのは、そういう時代ではないのだと、悟ってしまったからだ。伊太で賢者が喧嘩を売られた事も、雨支部が出雲に不満を持っていたのも、目に見える変化だったに違いない。見えない所で、世界は変わっていた。
国の為に生きる事を辛く感じた頃にはもう、世界は神を必要としなくなっていたのだろう。結局芙由は、一人相撲を取っていたに過ぎない。
「なんだ、藪から棒に」
芙由は結局言葉自体には返答せず、延々とニュースを流すテレビに視線を移した。答えたくなかった訳ではない。まともに答えるのが腹立たしかっただけだ。
キースは相変わらず、雨で従軍している。付き合い始めてすぐに、一緒に雨で暮らしてくれと言われたが、どうせ彼の住所は艦だ。滅多に家には戻らないし、芙由も出雲を離れたくなかったので、断った。なら出雲に行くと食い下がるので、勝手にしろと言った。
それが、間違いだったのだ。
キースは休みの日を見計らって、殆ど帰っていなかった芙由の自宅に押し掛けた挙げ句、そのまま転がり込んだ。丁度ニコライが出雲に到着する、前日の事だ。叩き出そうかと思ったが、明後日には出航すると言うので、殴るだけ殴ってやめた。
あれから一ヶ月。たまたま纏めて取った休みが被ったので、二人で丸一日家にいた。お互い軍部内の事後処理に追われて疲れきっていたから、外出する気力がなかったのだ。二人で居たものの特に会話もなく、ぼんやりとニュースを見ていただけだったので、キースの発言は本当に唐突だった。
「婚約指輪とか欲しかったですか?」
「そんな事は言っていない」
寧ろ付ける機会がなさそうなので、いらない。キースが不満そうに眉を顰めるのが視界の端に映ったが、芙由は無視した。
「だってそろそろ、あんたも蜘蛛の巣張っちまうんじゃねぇかと」
「チョモランマと黄山と富士山、どこがいい?」
「え、山? 埋めるってこと?」
問い返されると、芙由は視線だけでキースを見上げた。
「キラウエアでもいいぞ」
「だから良くねぇよ」
吐き捨てるように言いながら、キースはソファーの背もたれに背中から倒れ込んだ。あーあ、とぼやく彼を、芙由は鼻で笑う。本気か冗談か分からない時は、無視するに限る。
芙由は未だに、彼が読めないでいる。ふざけているのかと思えば本気だったり、真面目に発言したかと思えば暇を持て余したが故だったり、よく分からない。分からないから惹かれる部分もあるが、認めたくはなかった。
けれどキースのそれが、意識的なものでない事は知っている。そうでなければ、分かってくれなどとは言わなかっただろう。
あれから一度も、指一本触らせていない。内戦を終わらせた日に、手を握っただけだ。芙由はどうにも、他人に触られるのが好きではないのだ。慣れないせいもある。
他人とは、あまり関わらずに生きてきた。関わる以前に相手が一歩引いていたし、自分も、踏み込もうとはしなかった。寂しくはあったが、それで仕方ないのだと、無理矢理自分を納得させていた部分もある。
「なんであんたは、そうなんですかね」
キースの呟きに、芙由の胸が痛んだ。考えを読まれたような気がして、視線を合わせる事も出来なくなる。
そんな事は、自分でも分からない。何かのせいにするつもりもないが、真正面から接する事が出来ないのは、芙由自身のせいではない。置かれた環境が、彼女をそうさせた。なんでも突っぱねてしまうのは、捻じ曲がった性格の問題だが。
「……不満なら、私に構うな」
怒気を孕んだ声に、キースは驚いたように眉を上げた。怒っている訳ではない。もどかしかっただけだ。しかしキースは身を乗り出して、芙由の顔を覗き込む。
「すいません、そういう意味で言ったんじゃないんで」
「だったらどういう意味だ」
キースは困り果てて眉尻を下げ、指先で耳の裏を掻いた。見慣れた彼の癖が、どこか懐かしい。
腫れ物に触るような彼の態度が、癪に障った。それも自分が悪いのだが、逐一気を遣う彼もどうなのかと、芙由は思う。しかし彼の困った顔を見ているのは、楽しい。こういう所は母に似たのだと、彼女はそう自覚している。
ソファーの肘掛けに体を預け、芙由は小さく溜息を吐いた。被った休みは二日しかないのに、喧嘩していてもつまらない。
「お前も物好きだな」
出来るだけ柔らかくそう言うと、キースは表情を緩めて首を捻った。怪訝な反応に、芙由は更に続ける。
「こんなつまらん女の、何がいいんだ」
つまらない人間だと、自覚している。趣味も嗜好もなく、仕事の為だけに生きてきた。国の為と嘘を吐き、自分を偽ってまで、家族に縋っていた。そうする事が唯一自分が生きる意味なのだと、勘違いまでして。
本当はそんなもの、どうでも良かった。芙由を動かしていたのは、死んだ父の代わりに母と国を守らなければならないという、その義務感だけだ。たった一人、国を守ると言ってみたところで、出来る事など限られている。何も出来ないのだと認める事も、出来ないままでいる事も、嫌だった。
だから従軍して、この国の人の為に、今まで尽力してきた。人の為になっていたのかどうかは、芙由自身分からない。けれど国を愛する人の為に、神を信じてくれている人の為に、精一杯やってきたつもりだ。そこに、自分が生きる意味を求めて。
それももう、諦めてしまった。神が退くと共に、神主の意味がなくなった今、芙由にも意味はなくなった。だから聖女という地位を捨てると宣言し、縋りついてきた自分の意味から手を離した。そういうものが必要ない時代に、なってしまったのだ。
「あんたはたまに、自虐的ですね」
視線だけを向けると、キースは苦笑いしていた。彼はソファーから身を乗り出してテーブルに置いてあった煙草を取り、火を点ける。嗅ぎ慣れた煙草の匂いが、芙由の顔をしかめさせた。
この匂いが嫌いではない。そう思うようになったのは、いつだっただろうか。
「一人でなんでもやろうとするから、そうなるんですよ。自分なんかどうでもいいみてぇに」
膝の上へ覆い被さるように背中を丸め、キースは煙を吐き出しながら言う。
「あんた一人が頑張らなくたって、みんな適当にやってますよ」
「……まあ、そうだが」
はっきり肯定するのも憚られて曖昧に返答すると、キースは小さく声を漏らして笑った。何が楽しいのだか全く分からない。
「一人一人が誰か一人でも大事にしてりゃ、いいんですよ。国がどうとか理由つけないで、あんたは最初から、家族が大事だって言ってりゃ良かったんだ」
「そういう訳にも行かんだろう」
縋りついていた筈の地位に雁字搦めにされて、本音は言えた例がなかった。ただ、全て捨てた今になって、分かった事もある。
「あんたのそういうとこ、好きですよ」
平和というのは、後からついて来るものだ。人がいて国があって、人が国を、誰かを愛して、初めて平和は訪れる。誰か一人でも、国に無関心な人がいては成り立たない。
好きでなくても構わない。ただ、無関心でいられてはならない。出来れば、嫌われてもいけない。
好かれていなくてもいいと、そう思っていた。国を愛しても、国は応えてはくれないから、それで仕方がないのだと思っていた。けれど、人は違う。想った分だけ、感情を返してくれる。
芙由が本当に求めていたものは、意味ではなかった。不甲斐ない自分を、許してくれる人だった。だから、今は満たされている。
「真面目すぎて、ダメになっちまうようなとこ。支えたいんです」
芙由は彼の、本当の意味で他人の為に生きられるところを、好きになった。甘言だけを吐く訳ではない正直さが、人として人と接する事の意義を教えてくれた。
それを伝える気はない。彼は知らないままでいいし、気付かれない方がいい。ただ、覚えていて欲しいとは思う。自分を人の道に戻してくれたのが、彼であった事を。
「吹っ切れたのか?」
何をとは言わなかったが、キースは苦笑したので、何の事かは分かったのだろう。キースはどこか懐かしそうに目を細め、膝に肘を置いて頬杖をついた。
「いつまでもネチネチ引きずってても、仕方ないですからね」
「ついこの間まで、引きずっていただろう」
芙由は肘掛け側に凭れるようにソファーの角に背を預け、キースと向き合った。目と目が合うと、キースはばつが悪そうに口ごもる。芙由も別に責めている訳ではないが、面白いので何も言わない。
彼も少々、考えすぎの嫌いはあるような気がする。結果的に事態は好転したが、彼が考えすぎたから、戦う羽目になったのだ。
「ホントはね、殺してやんなきゃなんねぇ事なんて、なかったんですよ。そんな事、分かってた」
キースは目を伏せて、どこか懐かしそうに呟いた。髪も眉も黒いが、目に掛かった彼の睫毛は、栗色をしている。それに気付いたのも、ごく最近だった。
「俺は大丈夫だってあの子に言って、抱えて逃げちまえば良かったんだ。分かってたから、忘れたかったんですよ。忘れたかったから、死にたかった」
芙由には何も言えなかったし、言おうともしなかった。懐古するような口振りで、少なくとも、未だに引きずっている訳ではないのだと、気付いたからだ。思い出として懐かしく思うものなら、それはもう、吹っ切れた事と同義だ。
「だから今度は後悔しないように、攫って逃げちまおうと思ったのに。あんた戦う気満々だったから」
嘘だろうと思ったが、言わなかった。彼も真面目な話は苦手な性分だから、冗談で誤魔化そうとしたのだろう。しかし芙由は逃がさない。
「その子はもう、いいのか」
頬杖をついた手で、キースは耳の裏を掻く。
「死人に義理立てしても、意味ねぇって分かりましたから」
「今更か」
そう言ったが、芙由も耳が痛かった。事情は全く違うが、死人に拘っていたのは、彼女も同じ事だ。
「死人の為に償うより、今これからを生きようとしてる人を助けてやった方が、ずっと建設的でしょう」
今を生きる人に何が出来るか。そう考えた時、やっぱり芙由は軍にいたいと思った。この世界に生きる人を守るのは、軍部なのだ。今更政治に関与は出来ないから、芙由にはやっぱり、それしか選択肢がなかった。
けれどそれでいいのだと、今は思う。神の手から世界が離れた今だから、芙由も一人の人として、仕事が出来ればそれでいい。
「だから、軍に残るのか」
「まあ……やってる事は、前と変わりませんけど」
言いながら腕を伸ばして煙草の火を消し、キースはまた新しいものを取る。落ち着かないのだろう。
「姿勢が違えば変わるだろう。お前も暫く、州庁には出入り禁止だからな」
「清々しましたよ、逆に」
キースへの罰則が、それだった。首謀者はヘンリーだったが、それを手助けし、最終的に軍を率いて来たのは、彼だったからだ。降伏を決定したのも彼だったし、何より賢者だから、大きく罪を問われたりはしなかったのだが。
暫し、沈黙が落ちた。テレビから流れるニュースキャスターの声だけが、室内に響く。
「……ラーメン屋行きましたよね、二人で」
キースの発言は相変わらず、唐突だった。彼は無言の間が苦手なのだ。芙由は頷いて肯定する。
「ああ、美味くなかったな」
「不味かったですね」
他愛ないやり取りからぎこちなさが抜けたような気がして、芙由は少し、嬉しかった。タイトなスカートから伸びる足を組み替え、肩にこもっていた力を抜く。
あの後週刊誌に騒ぎ立てられ、千春にせっつかれてわざわざ会見まで行ったのだ。今となっては笑い話だが、あの時は腹が立ったものだ。まさか今こうなるとは、思いもしなかった。望んでもいなかったから、不思議なものだ。
「考え、変わりましたか?」
「子供がどうとかいう話か?」
キースはテレビに視線を向けたまま、渋い顔をした。分かってはいたが、違ったようだ。
「お前はどうなんだ」
続けて問い返すと、キースは膝の上へ身を乗り出したような体勢のまま、少し振り返って芙由を見た。目が優しかったので、真面目に答えるだろうと、芙由は彼の返答を待つ。彼の目からはいつしか、淀んだ色がすっかりなくなっていた。
「俺はないです。幸せになりたいと思った事」
そうだろうと、芙由は納得した。死にたがっていた彼が、そんな事を考える筈がない。
それもまた、悲しい事なのだろう。人が求めるものは結局、人それぞれ定義の違う幸福だ。それを願わず死ぬ事だけ考えていたなら、彼は最初から諦めていたのだろう。或いは、そこに考えが及ばなかったのか。
真顔で黙り込んだ芙由を、キースは目尻を下げて笑った。穏やかなその表情に、彼にもこんな顔が出来たのだと、芙由は感慨深く思う。
「でも自惚れてるワケじゃねぇが、あんたが今こうしてて幸せなら、それでいいかって、思います」
自分の事は二の次で、他人の幸せを願う。言ってしまえばそれまでだが、今の彼の場合は、それとは違うのだろう。
だから、胸が熱くなった。彼のそういう性格が、芙由がすべき事をも明示してくれているように思えた。頭で考えなくとも、今は分かる。自分がどうしたいのかも、全て捨てて、何が出来るようになったのかも。
膝の上で組んだ指先が、じわじわと熱を帯びて行く。むずがゆいような、でもそれが心地良いような、奇妙な感覚だった。
「キース」
口元に笑みを浮かべていた彼は、驚いたように芙由を振り返った。芙由の白い手が頬に伸びると、益々目が丸くなって行く。
芙由は見開かれた目に少しだけ笑いかけ、両の掌で彼の頬を挟み込んだ。僅かに身を起こしたキースが、大きく瞬きをする。芙由はそのまま身を乗り出して顔を近付け、そっと唇を塞いだ。
強い煙草の匂いが、鼻先を擽る。芙由にはそれしか、分からなかった。
顔を離すと、キースはまだ、驚いたように眉を上げていた。そんな彼を鼻で笑い、芙由は親指で頬を撫でる。キースは黙り込んだままだった。
「私の為に、毎朝味噌汁を作れ」
「はい」
そして、何度目かの静寂が落ちた。芙由が瞬きをすると、キースが我に返って大きく左右に首を振る。
「いやいや俺、味噌汁作れません。つーか逆だろ、全面的に逆」
「何がだ」
「何がじゃねぇよあんたの発言だよ」
首を傾げて見せると、キースは僅かに身を引いて、大きな溜息を吐いた。悲しげに肩を落とし、手を伸ばして煙草の火を消す。呆れるのは勝手だが、うっかりはいと答えてしまう彼もどうなのかと、芙由は思う。
芙由が幸せである事が彼の願いなら、それはもう叶っている。こうして実にもならない会話をしている時間が、彼女にとってどんなに有意義であるのか、キースは知らないだろう。知らなくても、構わない。
「毎朝は作れんだろうがな」
「ああそうで……」
言いかけて、キースはまた目を見張った。逐一忙しい男だ。
でも、だから、見ていて飽きない。飾らず素直に喜怒哀楽を示す彼が、好きだった。傍で見ていたいと、そう思う。つい数年前まではゆっくりと死んで行くのが恐ろしかったものだが、今は老いて行くのも、怖くはない。
「私のこれから先をお前にやる。責任を持って、一緒に老けろ」
キースの表情が徐々に緩んで行き、最後には、満面の笑みに変わった。細められた目が、切なくなる程に優しい。
今までに築き上げてきた全てを捨てて、この人を選んだ。悩み、惑い、涙を流しもしたが、これで良かった。これで間違いではなかったのだと、今なら言える。
キースの両手が肩に置かれ、その顔が芙由に近付く。背中を丸めて顔を覗き込む彼は、目を細めたまま、胸にこもった息を吐くように、呟いた。
「……芙由様」
いとおしげなその声を聞いた瞬間、芙由は眉間に皺を寄せた。逃げるように顔を離して、肩に置かれた手の甲をつねると、キースは慌てて手を離す。恨みがましい視線が芙由を睨んだが、彼女は動じない。
「なんですかもうここまで来て、往生際悪」
「その敬語が抜けたらの話だ。精々頑張れよ」
キースの顔が引きつった。芙由は勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべ、ソファーから立ち上がる。そろそろ夕飯の時間だ。
台所へ向かう途中、背後からチクショウと泣きそうな声が聞こえたが、芙由は聞こえなかった振りをした。