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神の国  作者:
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第九章 人の国 六

 六


 乃木は久々の半休を持て余し、北村と部屋でだらけていた。半休などもらった所で遊びに出られる程の時間はないし、午後は訓練が待っているのだと思うと、そういう気にもなれない。ついこの間三日の連休をもらって、伊太へ旅行に行ってしまったので、乃木には引け目もある。

 北村はああだかううだかと奇妙な唸り声を漏らしながら、溜まりに溜まった洗濯物にアイロンをかけていた。彼はものぐさな性分だから、滅多にアイロン掛けをしない。最近は戦闘服しか着る機会がなかったのでそれでも良かったが、そろそろ通常業務が始まりそうだ。この連隊の仕事は周辺の街のビル内警備だから、ワイシャツが皺だらけだと失礼に当たる。何より真面目な分隊長に怒られる。

 溜めてしまって後で泣きを見るぐらいなら、乃木は先に片付けてしまう方だが、北村はそうは行かないようだ。彼は昔から、アイロン掛けが嫌いだった。その上お互い片付けが大嫌いだから、扉を開けても見えない所へ乱雑に押し込まれた衣類を、毎朝探して引っ張り出す羽目になる。北村はともかく、乃木はアイロン掛けをする意味がない。

「あーあ嫌だ、もう飽きた、乃木」

「やらないからな」

 畳の上に座り込んで新聞を捲りながら、乃木はすげなく返した。北村は不満そうな声を上げつつも、ワイシャツを畳む。乃木より遥かに綺麗に畳めている。

 大きな溜息を吐きながら、北村はしわくちゃになったワイシャツをアイロン台に乗せる。何故ああなっても放っておくのだろうと、乃木は不思議に思う。

 新聞の一面を飾るのは相変わらず、聖女の地位を捨てた、元聖女のニュースだった。何やかやと騒ぎ立てられるのを本人は嫌っているが、乃木も気に掛けている。今はどうしているのだろうと。

「お前どうだったんだよ、こないだ」

 聞かれるような気がしていたので、何がとは言わなかった。代わりに嫌な顔をして、乃木は新聞に落としていた視線を上げる。目が合うと、北村は重ねて聞いた。

「童貞捨てられたのかよ」

 そのいい方も妙だと思ったが突っ込まず、乃木は左右に首を振った。

「何もないよ。挨拶に行っただけ、キアラさんの実家で二泊だったし」

「なんだよつまんねぇなー。土産話期待してたのに」

「何かあってもお前になんか言わないよ」

 新聞を畳んで部屋の隅へ放りながら、乃木は壁にもたれかかった。傍らに置いておいたペットボトルを取り、蓋を開ける。

「冷てぇな、汚れなき童貞仲間だろ」

 ペットボトルの飲み口に口を付けながら、乃木は顔をしかめた。言い方が逐一気持ち悪い。

「なんだよソレ」

「あーあ、乃木が遠い所に行っちまうよー」

 アイロンから伸びたコンセントを引っこ抜きつつ、北村は後ろへ倒れ込んだ。いつの間にか、アイロン掛けは終わっていたようだ。

 乃木は天井を仰いだ北村を嫌そうに一瞥し、目を逸らした。何もなかった事が情けない訳ではない。逐一言われるのが嫌というのでもないが、北村には少し、申し訳ないと思っている。

 北村も乃木も、これまで全く女っ気がなかった。乃木は常にいい人止まりだったし、北村は昔から三枚目だ。軍学校にいた頃は色恋に現を抜かしている暇がなかったし、教育部隊は男女別だった。機会もなかったというのは、言い訳ではない。

 それが今になって、乃木だけに春が来た。なんとなく申し訳ないとは思っているが、詮索される筋合いはない。

「まだお前と殆ど変わんないよ」

 溜息混じりに返すと、北村は突然表情を硬くした。乃木は怪訝に首を捻る。

「……いや、でもさ」

 両腕を伸ばしてひょいと起き上がり、北村は乃木と向き合った。胡座をかいて背中を丸めた彼の視線は、それでも乃木より少し高い位置にある。乃木の成長は、十七の時に止まってしまったのだ。

「このままずるずる行ったら、まずいんじゃねぇの?」

 乃木は眉間に皺を寄せ、唇を引き結んだ。そんな事は、自分が一番よく分かっている。

 成長しないという事は、歳を取らないという事だ。乃木はこのままの外見のまま、年齢だけを重ね続ける。自分だけ時間が止まったかのように変わらないのに、周りは当たり前に歳をとって行く。

 この先キアラとどうなるか、予想は出来ないが希望はある。両親と世話になった人に挨拶に、と言ったのは彼女だし、乃木ばかりが願っている事でもない。はずだ。

 だからこそ、焦る。焦らなければならないのに、キアラの傷を抉ってしまう事になるのではないかと思うと、怖かった。

「……うん。まずいね」

「煮え切らねぇなもー!」

 北村は憤慨した調子で怒鳴ったが、乃木は俯いたまま顔を上げなかった。喜怒哀楽の激しい彼に怒鳴られるのには、すっかり慣れている。

 このままでいいとは、思っていない。キアラはもうすぐ、三十を数える。彼女はともかく、乃木は焦って然るべきだ。

 このままでは、歳の差が開いて行くばかりなのだ。十七のまま時間が止まった乃木には、これから先の事が恐ろしくて堪らない。それでもあと一歩が、踏み出せずにいる。

「分かってるよ、分かってるんだけど……」

「こういう時本気出さねぇでどうすんだよ、大社であんな偉そうにタンカ切ったくせに」

 うう、と唸って、乃木は亀のように首を竦めた。あれは意図したものではない。気がついたら怒鳴っていただけだ。

 あの時は、無性に腹が立ったのだ。無責任にはやし立てる雨の部隊にも、芙由とキースにも。長く生きているくせに、何が本当に大事なことなのか、それすらも分からないのかと。

 それも多分、自分が気付けたからなのだろう。自分にとって大事なものが何なのか分かったから、それを否定するような彼らの姿に、憤りを覚えたのだ。

 国の根幹にあるのは家族だと、乃木は思っている。それを裏付けるのが、この国を守っていたものが、家族への想いだったという事実だ。人がいて生活があって、初めて国は成り立つ。

 そんな基本的な事を忘れて神に文句を言うのは、お門違いだと思った。キースの事は知らないが、芙由は確かに、家族の為に聖女でいた筈なのだ。それなのに彼女は、人と人とを結び付ける一番基本的な感情を、蔑ろにしていた。国の為に生きようとするがあまり、大事なことを忘れていた。

 それが、乃木には悲しかった。尊敬していた人が揺らいだ事に対する動揺も、あったのかも知れない。それでも乃木は、芙由のその姿勢を悲しいと思った。

 彼女は上官である前に、乃木の家族だったのだから。

「あれとこれとは……違うんだよ」

「ほんっと度胸ねぇなあお前。もう、童貞もらって下さいって土下座して来いよ」

「出来るわけないだろそんなこと!」

 思わず声を荒げて、はっとした。一晩寝かせた黒糖饅頭を潰したような北村の顔が、笑っている。

「お前は学生ん時から変わんねぇよなあ」

 どこか懐かしそうに、けれど少し寂しそうに、北村は呟く。その声に含まれた響きから、彼が抱く感情を察し、乃木は眉尻を下げる。

 彼に置いて行かれてしまったような気分になった事も、乃木にはある。だからどうという訳でもなかったが、寂しくはあった。北村も、同じように感じていたのだろう。

「学生の時は僕の方が、背、高かったよね」

「お前の方が体重軽かったけどな」

 北村は昔から堅太りだ。照れくさそうに笑って、彼は五分刈りの頭を掻く。ざりざりと、硬そうな音がした。

 彼に秘密を打ち明けたのは、いつだっただろう。おぼろげにしか記憶していないが、あの時北村は、そうかあ、といつもの調子で言ったのだ。それから、ありがとうと言った。話してくれて、ありがとうと。

 思えば中学校の入学式で意気投合して以来、乃木はずっと、彼とつるんでいた。全寮制の軍学校に入ってからの事を考えると、多分彼とは、両親より長い時間を共に過ごしてきた。北村の事は誰よりもよく分かっているし、北村も、乃木をよく理解してくれている。

 彼がいたから、辛い時も逃げずにいられた。一緒に頑張ってくれる親友がいたから、乃木は自らの境遇に負けずにいられたのだ。今になって、それは何よりも有難い事なのだと思う。

「……僕さ、怖かったんだよ。戦場で、何の為にこんな事してるのか分からなくて」

 うん、と北村は相槌だけ打った。気付いていたのだろう。

「でも、国の為とかやっぱりよく分かんなかったけど、キアラさんがいたから、戦おうって思った。それよりも、お前がバカ言ってたから、逃げずにいられたんだ」

「相変わらず小難しい事考えてたんだな」

 照れくさいのか、北村はそう言って混ぜ返した。乃木は軽く笑って、頭を壁に預ける。見慣れた部屋が、やけに目新しく感じた。

「ありがとう」

 北村は子供のように笑って、頷いた。長々と言わなくても、彼は分かってくれる。そんな親友がいる事が、背中を押してもらえる事が、乃木には何より有り難かった。

 北村はふと時計を見て、立ち上がった。乃木もつられて時間を確認する。もうそろそろ、着替えて訓練に出なければならない。

 背中を押して貰ったお陰か、乃木に迷いはない。訓練が終わったら、キアラと話そう。そう考えながら、乃木は部屋の隅からジャージを手繰り寄せた。


 乃木はひどく緊張していた。今日こそ、と決意したはいいが、言うべき言葉がまとまらない。訓練に身が入っていないと何度も怒られるほど考え込んでいたのに、何と言ったらいいのかも分かっていない。怒られ損だ。

 食堂に行っても、夕飯が喉を通らずに悶々としていた。隣の北村がかき込むように白飯ばかり食っているので、見ているだけで満腹になる。

 盗み見たキアラは食堂の隅の方で、小隊の隊員達と話をしていた。相変わらず、彼女は食べるのが遅い。そんな事を考えている場合ではないのだが、関係のない事ばかりが気になった。

「乃木、さっさと食わないと時間なくなるぞ」

 脇腹を小突かれて我に返り、乃木は弾かれたように横を見る。逆隣は分隊長だったのだと、乃木は今更気付く。

「すいません……」

 乃木は佐渡に軽く頭を下げてから肩を竦めて謝り、止まっていた箸を動かす。何を食べても、やっぱり味が分からなかった。

 佐渡は怪訝に首を捻り、乃木の向こうにいる北村へ視線を送った。しかし北村は気付かず、横から手を伸ばして乃木の皿のおかずを摘んでいる。佐渡は呆れたような溜息を吐き、北村を諦めて乃木の顔を覗き込んだ。彼も大概世話焼きなのだ。

「元気ないな、小隊長とケンカしたか?」

 乃木と北村が、同時に噴き出した。

 ばれている。そろそろ異動の時期だから、隊が離れないようにと隠し通してきたのだが。そもそも乃木は普段、キアラとあまり話さないようにしている。

「……え」

「違うのか?」

 怪訝に首を捻った佐渡に、開いた口が塞がらなかった。勘がいいのは知っていたが、そこまでとは思ってもみなかったのだ。

「逆です、逆」

「なんだそうか、腹立たしいな」

 北村が告げ口すると、佐渡はあっさりとそう言って再び飯を食べ始めた。乃木は情けなく眉尻を下げ、つられてのろのろと箸を動かす。

 どう言えばいいのだろう。聞くのは得意だが、伝えるのは苦手なのだ。全ての過程を勢いでこなして来たが、ここまで来て、一人で蹴躓いている。

 乃木はいつもそうなのだ。ここ一番という時になると臆して、寸前になって開き直る。それで上手く行く事もあるが、殆どは失敗してきている。軍学校にいた頃、医務室にいた研修生に告白した時も、隊内対抗試合の時も、ずっとそうだった。だから尚更、怖くなる。

 取り留めのない思考を巡らせている内に、隣の北村が立ち上がった。時計を見ると、もう食堂が閉まる時間だった。慌てて残った飯をかき込み、乃木も席を立つ。

 そして食堂を出て行こうとするキアラを見付けて、乃木は焦った。しかし食器は片付けなければいけない。

「乃木、早く行け」

 出て行ったキアラを顎で示し、北村が乃木の手からトレーを取り上げた。乃木は彼と食堂の入り口を交互に見てから、大きく頷く。

「ごめん、よろしく」

「頑張れよ」

 流石に憚ったのか、小声で励ましてくれた北村に曖昧に笑って見せ、乃木は小走りでキアラの後を追った。彼女は歩幅が広いせいか歩くのが速いので、すぐにいなくなってしまう。

 食堂を出て辺りを見回すと、キアラが廊下の角を曲がって行くのが見えた。廊下を走っているのが上官に見付かると怒鳴られるので、乃木は早足で彼女を追いかける。

 今日でなくてもいいのではないかという思いが、一瞬脳裏をよぎった。しかし乃木はすぐに、その考えを打ち消す。せっかく北村に背中を押してもらったのだから、彼の厚意を無碍にしてはいけない。今を逃したら、きっと乃木はまた、後悔する。それだけは、嫌だった。

「小隊長!」

 ようやく近付いた背中に向かって声を張り上げると、キアラは驚いたように肩を竦めて振り返った。戦場にいた時は目立っていたそばかすが、薄くなっている。本人は気にしているようだが、乃木はあのそばかすさえも好きだった。

 やっとの事で立ち止まったキアラの側まで行くと、彼女は不思議そうに首を捻った。乃木は頭上にある彼女の目を見上げ、少し荒くなった呼吸を整える。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「あ、あの、僕……」

 言ってから、乃木は荒い息を整えようと深呼吸する。ふと気がつくと、横を通り過ぎる同僚達の視線が、一様に乃木を向いていた。一気に顔が熱くなり、乃木は意味もなく口を開閉させる。

「あの……ちょっと」

 言い淀みながら顔を逸らすと、キアラは一度自分の背後を見て、再び乃木に視線を落とした。

「裏、行こうか」

 浮かべられた柔らかな笑みに、乃木は安堵した。大きく頷いて、先に歩き出したキアラの後について行く。

 伊太から戻ってきてからこっち、あまり話す機会がなかった。終戦後もキャンプの設営やら夜間警備やらで忙しかったから、やっと暇を見付けて伊太へ行ったのだ。だから尚更、腰を落ち着けて話すのが気恥ずかしい。

 人気のない宿舎裏は、新兵が年中雑草抜きに励んでいる為か、綺麗なものだった。塀の向こうの木々を見るでもなく眺めながら、乃木は宿舎の壁に背中を預ける。

「最近、落ち着かないね」

 おずおずとキアラの横顔を見上げると、彼女は下を向いて、微かに笑っていた。シャープな横顔が月明かりに照らされ、青白く輝いているように見える。

「国が、変わろうとしてますから」

 言いながら、乃木は同じように下を向いた。呼び止めたはいいが、未だ言うべき言葉は見つかっていない。こういう時になんと言ったらいいのか、乃木には分からなかった。

「実はちょっと、不安なの」

 苦笑いを含んだ声に、乃木の胸が詰まる。百数十年の間揺らぐ事のなかった国が変わろうとしていて、不安に思わない人もいないだろう。

 この変化は喜ぶべき事だが、怖くもある。制度が変わる事によって国がどのように変わって行くのか、期待よりは不安の方が大きかった。それでも、別段自分が変わる訳ではない。

「国が変わっても、僕らは変わりません。僕も不安ですけど、流されないようにしたいと思うんです」

「……国に?」

 はい、と答えて、乃木は顔を上げた。目が合ったので、笑って見せる。

「僕らはこの国で、生きて行くんです。国は変わるけど、自分は揺らがないようにって、思うんです。何の為に自分がいるか、分かったから」

 人がいるから国があり、人が変わるから、国も変わる。国が変われば人が変わる事もあるが、それを不安がっていたくはない。不安に思うよりは、自分が信じたものが変わらずにいる事を、信じていたい。

 キアラは暫く黙ったまま乃木を見つめていたが、やがて表情を緩めた。その笑顔に、乃木の胸が熱くなる。

「君のそのきらきらした目、好きなんだ」

 唐突な言葉だったが、乃木は嬉しかった。キアラが笑ってくれると、それだけで落ち込んでいた気分が晴れる。

「君を見てると、不安とか、どうでもよくなるよ」

 僅かに覗いた白い歯が、細められた目が、下がった目尻が、好きだった。傷ついても逃げなかったキアラを、尊敬していた。同時に、傷つけさせたくないと思った。

 誰かの手で傷つけられたこの人を、自分の手で、守りたいと思った。この人と生きて行きたいから、迷ってはいられない。

「キアラさん!」

 突然叫んだ乃木に驚いて、キアラは目を丸くした。乃木は体ごと彼女に向き直り、背筋を伸ばす。

「僕に毎朝ピザを焼かせて下さい!」

 そして、沈黙が落ちた。キアラは驚いた顔のまま、瞬きを繰り返す。

 乃木は深く後悔した。マリアナ海溝よりもっと深く、後悔した。彼はピザなど焼けない。せめて味噌汁と言っておけば良かった。味噌汁なら自信がある。

 暫く黙り込んでいたキアラは、困ったように眉根を寄せて、顔を逸らす。まさか、と、乃木は不安に駆られる。

「あの……朝からピッツァはちょっと……」

 そういう意味ではない。

 乃木は情けなく眉尻を下げ、肩を落とした。泣きそうだった。

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